I
バスの車窓にもたれかかって、正月飾りが散見される街並みをぼんやりと眺める。
人生時間は決して短くないので、物事には節目をつけたくなるものだ。あることはここで終わり、またあることがここから始まる、というように境目を決めることによって、長すぎて漠然とした時間を理解しやすくするのだろう。
新年とはそのわかりやすい例なのだと思う。だって、地球を俯瞰する気持ちになれば、正月など気にするにも値しない一瞬、せいぜい冬の一日でしかないのだから。同じ空間、同じ時間を過ごしていても、文字や暦を解せない鳥や犬の如くが、年越しにまったく興味を持たないのはそのためだ。
それでも新年をめでたいものとするように、物事に区切りをつけるときには、終わりを決めるよりも始まりを定めるほうが心地よい。新しい何かに思いを託すほうが、前向きな気持ちがしてよいのだろう。もちろん、困難や苦悩にも始まりの瞬間があるのだが、それらからの再起をスタートに位置づける。
だとすれば、ぼくはこの二〇一一年を、東京での生活が再スタートする年としたい。
受験に大失敗したことで始まった東京生活。天才気取りだったぼくが、天保大学附属高校という本物の天才たちの巣窟に入学し、鼻をへし折られてはや一年。このごろようやく手ごたえを感じはじめてきたのだ、そろそろ振り回されるだけのぼくではいられない。
ビルに日差しが隠れたところで、バスが停留所に停車して乗客を降ろす。クラッチの操作によって起こる振動を避け、寄り掛かっていた身体を起こすと、隣の座席に座っていた少女の顔が窓に映りこむ。
二重瞼に真円の瞳。愛らしい潤った輝きを持ちながら、その奥から凛として鋭いまなざしを放つ。彼女の為人を知り、その素性を見慣れていなければ、うっかり心を奪われてしまうことさえあるだろう。
近くて遠い血縁、はとこの彼女は、同じ下宿で暮らしともに天保に通う同級生でもある。
「才華、何か気になるものでも見つけたの?」
真っ直ぐな視線は、何も窓の中でぼくを見つめるために送られたのではない。窓の向こう側に面白いものを見つけたに違いない。
彼女は、常人には計り知れないほどに感度の高い、好奇心と探究心のアンテナを持っているのだ。
「あの女の人、甥っ子か姪っ子でも生まれるのかな」
「は?」
あの女の人、というのはどうやら、たったいま停留所で下車した女性のようだ。横断歩道を渡っていく後ろ姿しか見えなかったので、年齢や容姿などは詳しくわからない。白いコートを引っかけて、小走りに街の中へ消えていく。
その女の人に注目している着眼点からして、ぼくは彼女の感覚についていくことができない。彼女は持ち前の好奇心と探求心で鍛えられた思考の瞬発力ゆえに、しばしばぼくを置いてけぼりにしてしまう。
「簡単な話だよ、弥」
彼女の口癖は、その感性をよく表している。
「このバスはもうひとつ先の終点で菅野駅のターミナルに着く。それなのに早く下りて駅の方角に向かうということは、駅のATMを使いたいんだろうね。ATMに寄ってから改札に行くには、そのほうが早いから」
「お金は旅費ってことかい?」
「そうそう。ひょっとするとお祝儀も。当日にチケットを買える移動手段で、急がないと一日の本数が限られているものだから、たぶん新幹線か高速バス」
でも、急いで実家に帰る人の用件というと、あまり良い報せではないように感じる。新年早々不吉だけれど、親の訃報とか、危篤の報せとか。その心配の旨を才華に伝えてみると、彼女は笑った。
「親が亡くなったなら喪服が要るし、危篤なら泊まる支度もする。それらがないということは、顔を見たら帰る用事というわけ」
なるほど、彼女は決して大荷物ではなかった。備えがないということは、悪報というより吉報であった可能性が高い。それで仮に甥っ子か姪っ子の誕生の報せがあったと予想したのか。
「でも、出産なら予定日がわかるんじゃないの?」
「きょうが予定日とは全然関係のない日なんじゃない? 事前にわからなかったからこそ、急いでいるんだよ。年末年始に一度帰っていたとすれば、そのときに出産の見通しを聞いただろうから、なおさら予想外だよね」
真相を知る術はないけれど、バスから覗き見して考える結論としては充分だろう。彼女の才能は、瞬時にそれだけの想像を膨らませられることだ。ぱっと結論から先に口を突いて出るなんて、なかなかできることではない。
まもなくバスは、橋梁化された駅の一階部分にあるバスターミナルへと辿りつく。
ダッフルコートの襟を整え、マフラーを巻きながら、才華が立ち上がった。その紺色と白色とのコントラストは、彼女の長身と艶のある黒髪とでさらに美しく映えて見える。そんな彼女の後に、彼女より背の低いぼくが続くと、誇らしくもあり気恥ずかしくもある。
ステップからアスファルトへと足を下すと、約束していた同級生がぼくたちを待ち構えていた。
「よう、この前会ったばかりだけれど」
「江里口さん。まだひとり?」
迎えてくれた彼女は、ぼくよりもさらに背が低く、身に纏うピーコートさえ重たそうなほど小ぢんまりとしとしている。毛先を遊ばせたボブカットも、丸い輪郭の童顔と相まって彼女を小動物然と見せる。しかし、それに似合わない荒っぽい口調や、才華に劣らない頭の回転を持ち合わせる面白い人物だ。このごろ、眼鏡をメタリックな青色のフレームに変えた。
江里口さんとは二日前に、ぼくたちの下宿でちょっとした催しをした際に顔を合わせている。きょう一緒に出掛ける約束をしたのもそのときだ。ただし、もうひとり約束をした人物がいるのだが、いまは見当たらない。
「梓は用事で遅れるんだって。たぶん、お昼ご飯には合流できるんじゃないか。先に行こうよ」
江里口さんの声色には失望したような色が混じる。
それもそうだ、遅刻する平馬梓とは、彼女と交際関係にある男子生徒なのだから。女の子のような名前は、両親が気に入ったその名を、生まれてくる子の性別に関係なく名づける予定だったからだと聞いたことがある。その親の影響なのかはわからないが、平馬は変わった奴だ。
ともあれ、いない人間のことを言っても仕方がない。放っておいてもいいと、恋人さんからの許可もある。
「じゃあ、さっそくお参りに行こうか。江里口さん、案内をお願いね」
「おうよ、地元は任せろ」
一週間遅れの、初詣でである。