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1--15 シュウダ

「死ね」


 生まれて初めての求婚はものの見事に打ちのめされた。シュウダは呆気にとられて立ち尽くす。ヤマネコはまるでこちらを見向きもせずに歩き去る。


「ちょちょちょ、ちょお待たれま! 話だけでも…」


 肩を掴んだ途端、反対の拳が鼻梁を直撃した。シュウダの首は反動をつけて折れ曲がり、臀部を思い切り床で打つ。


「何なのさ、あんた」


 ヤマネコは汚物でも見るような目つきでシュウダを見下ろす。


「さっきから言っとるにか。自分の未来の旦那や」


 急所に踵を落とされた。シュウダは悶絶する。

 ヤマネコに初めて会ったのはつい先ほどのことだ。声は若さの割にしわがれていて、口調は肥溜のような汚さで、動きは粗野で目付きは悪くて胸も無い。だが尻がいい。


「あら~。大丈夫?」


 中年女が見下ろしてきた。確かイソシギと言ったか。こちらも負けず劣らずけったいなものでも見たような顔でシュウダを覗きこんでいた。


「立てる?」


「あ、や、まだ…」


「見事に入ってたもんねえ」


 苦笑いしか返せない。

 中年女はヤマネコの後ろ姿を見届けてからようやくシュウダに手を貸した。


「寄り合いは?」


「終わらないわよ。だからあんたも出てきたんでしょ?」


「まあ…」


「ワシも強情だけど、カエルもカエルだわ。あんな子どもに何、むきになってんだか」


「配分は結局…」


「変わらないわよ。いつもそうだもの」


 当然だと言わんばかりに鼻から空気を漏らしてイソシギは言った。

 イソシギに誘われてその駅に行くことにした。電車の中で延々垂れ流され続ける中年女の実の無い喋りは聞き流していても苦痛の部類に入ったが、どの道挨拶回りはしなければならなかったし、面倒事は早めに済ませておくのが一番、というのがシュウダの信条だ。それに他所の駅の実情も聞けた。どうやらイソシギは(かしら)というわけではなく、チドリのところは当番制なのだそうだ。当番制って……。


「だってえ、寄り合いに顔出して話、聞いて来るだけでしょ?」


 中年女は当然のように言う。所変われば駅の在り方も様々なのだろう。スズメのところは選挙制とか言っていたし、オカダの爺ちゃんはくじ引きだったはずだ。カメだって血筋は関係なく、指名されると聞いたことがある。未だに世襲制を続けているのはヘビのところくらいなのかもしれない。あ、あとワシか。


「ただいまあ」


 イソシギに招かれてシュウダは続く。


「おばあちゃん、おかえりい~」


 引き戸を開けて出てきたのは、幼い少女だった。


「ウミちゃ~ん!!」


 イソシギの突然の声色の変化にシュウダはその背中を二度見した。


「いい子にしてた?」


「してた。おばあちゃんは? いいおばあちゃんしてた?」


「してたしてた! おばあちゃん、ウミちゃんのためにがんばってきた!」


 ただ話を聞くだけだとか言っていたくせに。


「おばさん、おじさん呼んでるよ」


 襖から覗いた顔にシュウダはさらに首を前に突き出した。ヤマネコが我が物顔でそこにいた。


「あらいたの?」


「いいでしょ別に」


「いいけど別に。早く帰りなさいよ」


 イソシギの口調から、ヤマネコがチドリの駅にいるのはいつものことなのだろう。


「ウミちゃん、おばあちゃんちょっと行ってくるね」と優しげな口調で言った後で、


「カモメ! ちょっとカモメ?」


 イソシギは元の野太い声になって怒鳴った。

 イソシギの背後でため息をついたヤマネコはその背中を追おうとしかけて、ふと足を止め、シュウダにふり返って目を丸くした。


「あんたどうして…」


「おじゃまします」


「勝手に上がるんじゃないよ!」


「自分はどうなが」


「帰んな」


「こっちは正式に呼ばれとんのやわ。悪いな」


「ヤマちゃん、このおじちゃん誰?」


「おじ…」


 指差されてシュウダは固まる。ヤマネコは鼻で笑うと幼女に向かって腰を屈め、


「変なおじちゃん。ついてっちゃだめだよ、ウミ」


 シュウダは少女からヤマネコに視線を移した。


「お前の子?」


「なんであんたにお前呼ばわりされなきゃいけないの?」


「聞いてるの俺なんやけど」


「変なおじちゃん、ヤマちゃんの何なの?」


 少女が首を傾げて見上げてくる。


「ウミぃ、あたし、変なおじちゃんにつきまとわれて困ってんだよ」


 ヤマネコがにやにやしながら悪乗りする。


「子どもに何言っとんがけ」


 ヤマネコを咎めてからシュウダは膝を曲げて少女の視線になった。真剣な顔を近付け、その両腕を握りしめる。


「変なおじちゃんやないっちゃ。おじちゃんでもない。おじちゃんやないぜ?」


「お母さーん!」


 少女が泣き叫びながら奥に駆けこんで行った。ヤマネコが腹を抱えて笑った。



 チドリのところの本当の(かしら)、というか寄り合いの当番はイソシギの旦那らしい。だが持病が悪化して長距離移動は難しく、最近は寝床にいることが多いそうだ。


「ごめんねえ? あんたのところに連れて行くより来てもらった方が早いと思って」


 そのために呼ばれたらしい。伯父と同じ仕事をシュウダも期待されているのだろう。


「ほら、お父さん、ヘビさん。起きれる?」


「寝てるんだから寝かせてあげれば?」


 娘のカモメが言った。


「こんな時間から寝てるから余計悪くなるのよ」


「だからって叩き起こすことないでしょ?」


「そうですよ、お義母さん」


 なよなよしい男は娘婿だそうだ。アホウドリと言っていた。


「せっかくヘビが来てんのよ。診せた方がいいでしょ」


「大丈夫よ。元気な時は元気だもん。それよりもこの前の反物、柄がいまいちだし幅も少し…」


「メーちゃんなら何でも似合うよ」


「やだあ、ミーくんってばあ。でもあれはわたしのじゃなくて…」


「ウミのだよ、お父さん」


 孫娘のウミネコが言った。


「ウミのかあ。でもお母さんにも似合うと思うよ」


「やだあ、ミーくんてばあ」


 子どもそっちのけでいちゃつく夫婦にシュウダは若干、身を引いた。イソシギも白けた目をしてヤマネコは顔を背ける。夫婦とその娘だけがにこにこと笑っていた。

 ウミネコはカモメの娘だった。アホウドリにヤマネコは独身だと聞いてシュウダは胸を撫で下ろした。それにしてもこんな気性の激しい義母と、それと同じ顔をした嫁に囲まれて生活していけるアホウドリは、その性格を差し引いたとしてもある意味尊敬に値するかもしれない。


「変なおじちゃん、お医者さんなの?」


「『変なおじちゃん』?」


 イソシギが首を傾げてシュウダを見た。ヤマネコが鼻で笑う。


「一応、お医者さんやの。でもおじちゃんやない言うとろう?」


「変なお医者さん?」


 ヤマネコが噴き出す。


「変…かのう?」


「ごめんね、シュウダ君」


 カモメが代わりに肩を竦めた。

 イソシギの旦那の診断をシュウダがするのは少し気が憚られ、伯父に相談してくると告げてチドリの駅を後にした。ヤマネコはまだ居座るつもりだったようだが、イソシギに窘められてしぶしぶ席を立つ。


「ヤマちゃん、変なお医者さん、またね」


 帰り際に手を振ってくれたウミネコに笑顔を向けるヤマネコを見て、シュウダはますます惚れ直す。


「ところで自分、なんでチドリんとこおったん?」


「別にいいじゃないか」


「寄り合いの報告とかあるやろ」


「寄り道したあんたに言われたくないわ」


「俺はだから、シギさんに呼ばれたが。挨拶周りやちゃ」


 言ってからヤマネコもそうだったのだろうか、と思った。しかし、


「親同士が昔から仲良かったんだよ」


「ならウミちゃんも自分とこに遊びに行ったりするんけ?」


 何気なしに尋ねた。世間話だった。だがヤマネコは突然、表情を暗くして無言になる。


「どうしたが?」


「あんたあっちでしょ。うち、こっちだから」


 それだけ言うと電車に乗り込もうとする。気になったシュウダは電車の前に降り立った。


「どきな」


「いきなり何け? 俺、なんか言ったが?」


「うざいね、あんた。とっととどきなよ」


「ヤマさん、」


 背後から駆けてくる足音にシュウダとヤマネコは振り返った。駆けてきたのはアホウドリだった。


「忘れ物です」


 息を切らして握りしめたものをヤマネコに差し出す。


「……ありがと」


「カモメが気付いて」


「そう」


「それじゃ、気を付けてください」


 アホウドリは来た時と同じように泣き笑いのような顔を見せ、来た道を戻って行った。

 シュウダはヤマネコの顔を覗きこむ。


「……あんなのがいいが?」


 アホウドリの後ろ姿を見送っていたヤマネコは、シュウダの声に勢いよく振り返る。


「あんなふやけた野郎が好みけ? しかもこぶつきの尻に敷かれた…」


 急発進した電車に轢かれかけて、シュウダは慌てて線路の外に飛び退いた。

 


 駅に帰ってから確認すると靴先が若干へこんでいた。どうやらヤマネコの電車に轢かれていたらしい。爪先が無事だったことが奇跡だ。それにしても気の強い女だった。落とし甲斐がありそうだ。


「あんた、ほんっとに最低やんね」


 ウミヘビにため息を吐かれる。「従弟(おとうと)やなかったら一番嫌いな部類やわ」


「なんでけ? 俺、ウミ(ねえ)に何もしとらんやろ」


 ヒメハブの痰吸引の手を止めて、ウミヘビは振り返る。


「また女、来とった。さっき」


 言うとウミヘビは胸を膨らませて一息に吐き出した。


「あんたの周りかっちゃかちゃやにか! なんで私が…」


「誰け?」


 最近ので尋ねて来るとしたら…


「知らんわ! なんにせまだ付き合っとる子おるがに別の女に手ぇ出すって最低以外の何物でもないやろ」


「違うが! 今度は運命なが!」


「ますます最低」ウミヘビが白けた目で睨んでくる。「こっち来んで。最低がうつるわ」


「そんなが言っとったらウミ姉なんて、カメんとこちゃあ嫁にいけんぜ? 知っとっけ? あそこなんて乱交やぜ? 乱交」


「だら。夜這い制やろ」


 ウミヘビが呆れ顔で訂正する。「言い方、気ぃ付けられ。それとの? 自分、知らんかもしれんけどこういう言葉あるが。『よそはよそ、うちはうち』」


「ウミ(ねえ)、ヒメ(ねえ)の」


 シュウダはヒメハブを見ながら自分の喉を指差した。ヒメハブが指先で管を弄っている。


「姉ちゃん、それ駄目やって。苦しいの姉ちゃんやぜ?」


 ウミヘビは姉の手を握って叱りつけた。ヒメハブは笑っている。ウミヘビが肩を落としてため息を吐く。ヒメヘビの介助が大変そうで、シュウダは立ち上がった。


「手伝うちゃ。体交(たいこう)やろ?」


「なーん、これから清拭(せいしき)


「俺、いない方がいいが?」


「一応あんたも年頃やしね」


「何け、それ」


「姉ちゃんもあんたには見られたくないやろ。母ちゃん呼んできて」


 それもそうだろうと頷いてシュウダは叔母を呼びに行こうとした。しかし、


「あ、ナミ帰って来とるが! あの子でいいわ」


「ならカガシも?」


「しばらくおるみたいよ」


 ヒメハブの体を拭く準備をしながらウミヘビが顔を上げた。


「あの子、出戻りっぽい。あんた余計なこと言わんでね」


「ついに?」


 野次馬根性に火がつく。「あの旦那やろ? 今度こそ駄目なが?」


「なーん、姑さんっぽい。今更カガシの名前にけち付けてきたが」


 従姉も肩を竦めて身を乗り出す。「大体あれはナミも悪いやろ。男の子に母方の名前付けるなんちゃあ聞いたことないわ。父ちゃんは喜ぶけど向こうは面白くなかったんじゃないけ?」


「ミミちゃん、それおれのこと?」


 ヤマカガシが戸を少しだけ開けて覗きこんでいた。ウミヘビは気まずそうな顔をして言い淀む。


「母ちゃんがヒーちゃんにあいさつしてこいって…」


 目を伏せながらヤマカガシが言う。


「カガシ、母ちゃんどこおるが?」


 ウミヘビに目配せして、シュウダは従姉甥をヒメハブの部屋から連れだした。

 通路を並んで歩くヤマカガシは、目に見えて落ち込んでいた。ウミヘビの言った通り、ナミヘビは子どもを連れて実家に帰ってきており、そして当分、いや、半永久的に居続けるらしい。


「シュッちゃん、おれもう、父ちゃんに会っちゃだめなんけ?」


 ヤマカガシが俯きながら言う。


「駄目やないやろ。好きな時に会いにいかれ」


「でも母ちゃんがいやがるげんて」


「嫌がらせておけばいいにか。死んだら一生後悔するがは自分やぜ」


 両親を事故で亡くした男の言葉には説得力があったようで、従姉甥は黙ってシュウダを見つめた。そして、


「そやの。それにこっちにおるならシュッちゃんの仕事、おしえてもらえるしの。それはそれで得やわ!」


 表情を明るくしたヤマカガシに、シュウダはにやりとして頭を小突く。


「だら。自分には早いわ」


「何言っとんけ? おれはじいちゃんもシュッちゃんも越えるし? かくごしまっし」


「生意気、言いよる」


 シュウダは従姉甥の空元気に乗っかって大袈裟に笑った。


「カッちゃん来とんが?」


「シマちゃん!」


 話の途中だったというのにこちらなど見向きもしないで、ヤマカガシは遊びに来た子どもの元に駆けて行った。元気やにか、とシュウダは呆れた後ではにかんだ。ナミヘビには悪いが、弟分が常にいるかと思うとシュウダは少し嬉しかった。

 その日はナミヘビの帰宅祝い? 労い? 何と呼ぶべきか困るが久しぶりに家族揃って食卓を囲み、ヒメハブの寝床も移動させて同じ部屋で経管栄養をしつつ、酒を飲みかわした。ヤマカガシは母親の前では始終笑顔のままだった。



* * * *



「んなもん、ないちゃ」


「せやろのう」


 マムシは管を巻いて臭い息を吐きだした。シュウダは顔を背けながらちびちびと酒を呷る。

 伯父との晩酌はシュウダの日課だった。呼びだされる。ついでに愚痴られる。伯母と従姉たちに支配された居室の中に居場所を持たない伯父は、何やかやと理由を付けてはシュウダのもとにやってくる。その日に限ってはイソシギの旦那の病状について話を聞きたかったが、それ以外の日は割と苦行だ。


「あいつのは根治はない、もう対処療法しかないが。嫁さんにも説明したと思ったんやけどのう」


 話を聞いていても別の可能性を探したかったのかもしれない。シュウダはイソシギの横顔を思い出す。


「それより自分、他所のとは上手くやってんのけ?」


「ばっちりや。まかしとかれま」


「いけ好かねえ奴もおろう。上手く回され」


「わかっとっちゃ」


 酒が回ると毎度同じことを話しだす伯父に半分背を向けて、適度に相槌を打ちながらシュウダは酒瓶に手を伸ばした。オカダトカゲとオサガメたちも何だかんだと不要な世話を焼いてくるし、最近ではよほど気に入られたのかイソシギも顔を見れば、妙なあだ名を呼んでくる。しかし幼い頃からマムシに鍛えられてきたシュウダは、年配者たちのあしらいに慣れていた。彼らに悪意は無い。むしろ善意と厚意の塊である場合の方が多い。そして彼らの主張は往々にして大体合っている。物事の本質などシュウダにはわからないが、彼らの忠告を参考にすると、大概のことは上手く流れる。シュウダはそれを知っているからほとんどの小言は聞いておく。仮にも自分より長く生きてきた者たちの経験則だ。実利に直結するありがたい知恵を、聞いているだけで得られるならば得策という以外に他ならない。


 それにしても、とシュウダは思う。それにしても何故年配者は話すことはこれほど好きなのに聞くという態度をとらないのだろうか、と。彼らは間を取る、ということを歳月のうちに忘れていく。相手に考えさせる間を与える、相手の言葉を聞く間を作る、そうした対話に必要な時間の使い方を、何故か彼らは忘れがちになる。そして言葉は地下鉄のような一方通行となる。それなりの言い分を用意して対峙する若者は結局、話す間を見つけられずに諦めてその場を離れる。それを年配者は、忍耐が足りない、近頃の若い者は、と罵り始める。若者は若者で、年寄りはうるさい、と一笑に付す。結果、互いが分かり合うことはほぼ無い。例えばクマタカとヒキガエル。ヒキガエルはもう少しクマタカに話す機会を与えるべきだと思う。クマタカはもう少し自分の考えを言うべきだと思う。奴は皆が言うほど馬鹿ではない、とシュウダは思う。


「伯父さん」


「何け?」


 てっきり自分の話は聞き流されていると思っていたマムシは呼ばれて驚き、そして嬉しくなって杯を置いた。


「ワシの先代ってどんなんだった?」


「ワッさんのことけ?」


 伯父がワシのことをあだ名で呼んだことにシュウダは少なからず驚いた。


「伯父さん、ワシと仲良かったが?」


「面白い奴やったぞ。いい奴とは口が裂けても呼べんかったけど、やることが破天荒でのう、わは買っとったわ」


 破天荒? 本当にクマタカの親か?


「伯父さん」


「何け?」


「俺、ヘビんとこの若いの飲みに誘ったが」


「おう」


「伯父さんはヘビの先代と飲んだことある?」


「せやのう。寄り合いの後に結構ちょくちょく」


 まじか。


「どやって誘ったが? あいつ、全然乗って来んが」


 年近いし他の駅頭(えきがしら)について思うことは互いにあるだろうし、絶対に話が合うと思うのに。


「ヘビとは上手くやっとけよ。あそこと切れたら終わりやぜ」


 そこまで計算していた訳ではないのだが。


「でものう? 断られるんやわ。『今度飲まんまいけ』言うても大体『忙しい』って」


「それ、嫌われとんのやろ」


 ウミヘビが盆に酒とつまみを持って現れた。引き戸を足で閉めている。


「二回誘って駄目なら嫌われとる。何回誘ったん?」


「五、六回」


「気付かれま!」


 言ってウミヘビが呆れて息を吐き盆を置く。何の断りも無しに手酌して男の晩酌に加わった。


―おう! クマタカ!―


 呼びかけるといつも眉根を顰める。決して自分の名を呼んでこないからシュウダはいつも、


―ヘビのシュウダやって。いい加減覚えれま―


 会うたびに名乗ると、クマタカはようやく眉間の皺を伸ばす。冗談なのかと思う。自分で言うのも何だが割と印象に残る顔だと思っていたから。しかしその後は必ず丁寧な会釈と挨拶をしてくるし、近況報告にも答えてくれる。


―この後、一杯どうけ?―


―すみません。忙しくて…―


 そしていつも心底申し訳なさげに頭を下げる。


「俺、あいつに嫌われとるが?」


「なんで気付かれんの?」


 呆れた目で言ってウミヘビが杯をあおった。もう一度手酌しようとした徳利を伯父が先に手を伸ばす。


「ヒメはどうしとる?」


 伯父が長女の容態を次女に尋ねる。


「寝とる。酸素も心拍も安定しとるよ。だからこうして飲むんやろ」


「すまんの。ウミには苦労かける」


「父ちゃんどうしたが? 何、改まって」


 乾いた笑いで頬を持ち上げ、注がれた酒を従姉はあおった。


「そういや、ネコのとこも末期やったの」


「ネコ?」


 ヤマネコの親のことか?


「あそこのは遺伝やわ。婆さんも看取ったけど娘さんもせやろ」


「ヤマネコが?」


「遺伝って何の病気け?」


 勉強熱心なウミヘビが猪口を置いた。

 悪性腫瘍だそうだ。ヤマネコの母もかなり前から進行していたらしい。チドリの駅に入り浸っていたのは衰弱した母の姿を見ていたくなかったからなのだろうか。シュウダは自分の爪先を轢いていったヤマネコの横顔を思った。

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