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1--18 義脳

 いつも通りに扉を叩いたが、顔を覗かせたのはイヌマキではなくシャクナゲだった。シャクナゲは困ったような哀れむような、それなのに追いすがるような目でクマタカを見上げる。

 クマタカは顔を逸らしたまま「荷物、運びます」と告げて四輪駆動車の荷台に手を掛けた。


「もう来ないと思った」


 クマタカの背中にシャクナゲが呟く。


「俺が来なかったら奥さんたちは飢え死にしてしまうでしょう」


 積み荷を下ろしながらクマタカは応える。


「ここに来て大丈夫なの?」


 クマタカは振り返りシャクナゲを見てから目を逸らす。


「……マキさんとは少しだけ議論しましたが、それだけです」


 喧嘩や仲違いをしたつもりはない。


「そうじゃなくて、」シャクナゲが言いにくそうに横を向いた。その件でないとしたら何が問題だろう、とクマタカは考えを巡らす。しかし答えに思い当たる前に、思いも寄らない言葉が耳に飛び込んだ。


「お父様がいらっしゃったの」


 クマタカは目を見開いてシャクナゲを見つめた。シャクナゲは伏し目がちのまま続ける。


「マキが、塔にいた者として|地下に住む者(クマタカ君)に言ってはいけないことを言ってしまったんでしょう?」


 そこまで言うとシャクナゲは、へこんだ腹を畳みこんで頭を下げた。


「ごめんなさい。申し訳ありませんでした」


「やめてください」


 シャクナゲは関係ない。


「夫の失態は私のでもあります。謝って済む問題じゃないとしても、謝らせてください」


「お願いです。やめてください」


 クマタカが懇願してシャクナゲはようやく顔を上げる。それでも表情は浮かないままだ。


「クマタカ君がひどく混乱してしまったって、お父様、とても心配してて。これ以上クマタカ君の負担をふやさないでくれって。だからここにはしばらく顔を出しませんって仰っていらした…」


「父が勝手に言ってるだけです。気にしないでください」


 あれ以来、必要最低限の業務連絡以外で口を利いていないが、黙って隠れてそんな卑怯なことをしていた父に嫌悪感と苛立ちが湧き上がる。直接自分に言えばいいものを、よりによってイヌマキたちに釘を刺しに来るとは。


「気にしないでなんていられないでしょ」


 シャクナゲが幼子を諭すように言う。クマタカの怒りはさらに煮え立つ。頭の芯からぐつぐつと音まで聞こえてきそうだ。


「いいんです。無視してください!」


 怒りのままに吐き出した声は駄々をこねる子どもじみていて、自分で聞いていて恥ずかしく、さらに頭の熱と痛みが増した。


「……すみません。でも本当にいいんです。奥さんたちは関係ありません。これはうちの問題ですから」


 クマタカは強がり、作業に戻ろうとした。しかし、


「お父様が止めているのに私たちが甘え続けることはできません。私たちはお父様に生かされているんだから」


 クマタカはシャクナゲに振り返った。シャクナゲは俯いて両手の指を腹の前で絡めている。そんな風に思っていたのか、と彼らの立場の弱さと卑屈さを思い知る。


「奥さんたちをワシの駅(うち)に招き入れたのは俺です。対応も処遇も俺の仕事で…」


―お前が次期頭目になると誰が決めた―


 決まってはいないがこの件に関しては責任者だ。 


「マキさんはうちの駅に多大な恩恵を与えてくれました」


 シャクナゲが顔を上げる。


「持ちつ持たれつです」


 クマタカは拳を握りしめ、「だからそんな風に思わないで下さい」と言い切った。


「マキさんと奥さんは俺たちに感謝されて然るべき立場にあるんです。俺は! 奥さんが亡命先として選んでくれたのがうちだったことに感謝してます」


 本心だった。しかし言ってしまってから、これではまるで告白だと、恥ずかしさに下を向く。


「そんな風に思ってくれるのはありがたいけど…」


 困り果てたシャクナゲが鼻を啜った。クマタカは驚き慌てる。しかしシャクナゲの顔は乾いていた。クマタカの視線を受けてシャクナゲも顔を上げる。互いに目を見合わせ、音源に気付いて扉の中を覗きこんだ。啜り泣きの主は壁に背をつけ屈みこみ、腕に抱いた赤ん坊に頬を叩かれながら、反対の手で涙と鼻水を拭っている。


「シャクナゲぇ…」


 常々弱々しい顔が、涙と鼻水でこの上ないほど情けなくなっていた。


「おれ今、お前に求婚された時と同じくらい嬉じい…」


 言ってイヌマキは鼻水を啜り上げた。


「出てきちゃダメでしょ。会うなって言われてるのに」


「だってぇ…」


 涙を拭うイヌマキの腕の中で、コウヤマキが唾を飛ばしながら濁音を発している。


「…奥さんに言わせたんですか……」


 イヌマキはしゃくり上げながら涙を拭う手を下ろし、


「呆れた?」


「………少し」


 いや、かなり。


 涙目で上目遣いのイヌマキを見下ろしていると、場違いにもクマタカは噴き出してしまった。咳払いし、口元を手で覆って俯く。


「先日はすみませんでした」


 話の途中で飛び出したこと、杯を卓に叩きつけたことを詫びる。


「俺こそごめん。その、いや、いろいろ…」


 イヌマキは息子の飛ばす唾を拭いながら、情けなく顎を喉元に押し付ける。

 イヌマキと揃ってシャクナゲを見つめた。シャクナゲは困りきった顔で二方向からの視線を受け止める。


「俺がここに来たら迷惑ですか」


 コウヤマキが、イヌマキの腕の中は狭いと言わんばかりに手足を動かしている。肩によじ登り、するりとイヌマキの腕から胴部を抜いた。シャクナゲが動くより早く、クマタカは頭から落ちかけたコウヤマキを抱きとめた。コウヤマキが涎のついたままの手でクマタカを叩く。クマタカが膝を伸ばすと視線の高さが嬉しかったのか、きゃっきゃと笑った。ワンも出てきてクマタカの膝にすり寄り、シャクナゲを見上げた。


「そんなこと、」


 シャクナゲはニ、三度、唇を動かして、やがて諦めたように首をうなだれた。


「そんなことあるわけないじゃない」

 


 シャクナゲにコウヤマキを預け、イヌマキと共に地階に降りた。


「君が駅に帰った後に俺なりに考えたんだ」


 イヌマキは早足で階段を駆け降りながら続ける。


「君たちは塔が君たちを地下に追いやったと言っていただろう?」


「少なくとも俺の駅ではそう教わります」


「でも塔では反対だ。君たちが塔を捨てて地下に逃れた、とされている」


 先日はそこで互いが混乱したのだ。そこから夜汽車の話になり、意見が食い違い、クマタカは激昂した。


「でもここで一番注目すべきは、塔と地下が互いに相手をどう捉えているかじゃない。解釈じゃなくて『事実』だけを見つめるべきだったんだ」


 イヌマキの言葉をクマタカは咀嚼し、飲み込み、顔を上げる。


「俺たちの祖先が塔と地下に分かれたこと」


「さすがだ、クマタカ君」


 イヌマキが振り返って微笑んだ。それから再び前を向き、通路を早足で進む。


「そこで考えるべきは、俺たちが塔と地下に分かれることで起こり得る利益だ。何をなし得るために必要なことだったのか。誰にとっての得なのか」


「誰って、塔にとってではないんですか」


「クマタカ君、この際駅で学んだ常識は捨ててくれ。俺も塔を捨てた。君も思考の上では駅から離れるんだ」


 イヌマキが立ち止まったから、クマタカもその後ろで足を止める。


「君にまだ話していないことがあるんだ」


 物置き部屋の前でイヌマキが言う。扉の取っ手に手をかけ、捻るべきか否か迷っているようにも見える。


「地下に住む君に紹介してはいけない気がしてた。通電を手助けしただけで歓喜する君たちに、彼女は刺激が強過ぎるかなって」


「『彼女』?」


「一応、性別は女なんだ。どこも男ばっかりだろ? せめて女っ気を増やしたいっていう開発者たちの意向じゃないかな」


「マキさんの作ったものではないんですね」


 イヌマキはちらりと振り返り、「俺やシャクナゲが生まれた頃にはすでにいたよ」


「生き物、ですか?」


 『いた』とか『紹介』とか、それなのに『開発』とか。イヌマキは何を指してそれをどう捉えているのか、クマタカは少し混乱する。


「生きてるみたいなものだよ。でも、そうだな」イヌマキは言葉を区切り、しばし思案してから結論を出す。「いや、機械だ。君は物として捉えたほうがいい。いいね」


 言って扉を開いた。

 平面の中で『彼女』は目を閉じていた。誰かの寝顔を映し出しているようにも見える。だが肌の透明さや造作の整い具合が現実離れしていて、その美しさが否応にも作り物感をかもし出していた。


「これは何ですか」


 クマタカは立ち尽くしたまま画面の中の眠り続ける女の顔を見つめて尋ねた。見開いた目の中に光る画面を映しこんで身動ぎしないその姿に、イヌマキは心配そうに目を細める。


「彼女はアイ。塔の全てを司り、夜汽車を走らせている義脳だ」


 クマタカは唇を閉じてイヌマキを見つめた。



 アイと呼ばれるその女は、女の見た目をしたそれは、義脳ぎのうという機械なのだそうだ。義手や義足と同じく、失った機能を補うべく作られた部位。義足が歩くことを、義眼が見ることを補うのだから、義脳は考えることを補うのだろう。


「誰の脳味噌の代わりですか」


「誰とかはないんじゃないかな。強いていてば俺たち全員、俺も君もシャクナゲや君のお父さん含め、考えることを放棄した俺たち全員の代わりだよ」


 クマタカは眉根を顰める。


「考えることを放棄?」


 イヌマキは困ったようにクマタカを見る。「ごめんね、すぐにはぴんとこないね」


 クマタカにはイヌマキの言い分が腑に落ちない。現に自分はここで今、イヌマキから与えられる怒涛の情報を理解するために目が回りそうなほど思考している。


「一つひとつ話すから、偏見を捨ててちゃんと受け入れてくれるかい?」


 あの夜みたいなイヌマキの真剣な眼差しに、クマタカは黙って視線で応えた。

 イヌマキとシャクナゲとの会話から、塔での日常生活については折りに触れ聞いていた。高台を占拠しているせいか大波など見たことがないとか、電気が安定供給されているから二十四時間、至る所で何の気兼ねもなく電気を使えるとか。排水装置も完璧で塔全体は耐震対策もされているという。クマタカが居住区の水掻き作業の話をした時など、夫婦そろって目を丸くしていた。そうした生活水準の違いは、立地条件と電気の供給量の違いによるものだとクマタカは思っていた。だがそれだけではなかったらしい。


「電気の供給量や外気の影響を加味しての温度と湿度、空気成分の割合の管理、雨水の浄水とか排水の循環、そうした基本的な住空間を保持するための調整やなんかは、彼女が一手に担っている。塔で俺たちがしていたことは、彼女に口頭で『暑い』とか『寒い』とかただ注文することだけだった」


「ですが、機械である限り故障や不具合があるのではないですか?」


「多少の不具合は彼女自身が自分で修復する」


 クマタカは驚きのあまり、唇を閉じる。


「例えるなら、そうだな、塔っていうのは巨大な彼女の体なんだ」


「塔が体?」


 イヌマキは頷き、画面を見下ろす。


「ある程度の擦り傷は放っておけば治るだろう? 自然治癒っていうんだけどわかるかな。同じように疲れたら休めば回復するし、暑ければ服を脱いで手で扇ぐ。喉が乾けば水を飲んで、地震で揺れれば倒れないように踏ん張る。彼女がしているのはそうした、俺たちが当たり前にしている生存活動と同じことなんだ。偶々彼女の体は無機物の集合体で構成されたバカでかい塔の形をしていたというだけで」


 たまたま? 無機物の生存活動?


「その彼女の体内に俺たちは住まわせてもらっている」


 イヌマキの例え話にクマタカは顔を顰める。誰かの体の中に住む?

 

「気持ち悪くないですか?」


「何が?」 


 クマタカの皮膚感覚をイヌマキは共有できない。 

 イヌマキは吐きそうな顔のクマタカを怪訝そうに見つめてから、画面の女の説明を続けた。


「塔が地下に住む者に攻められたらって話したの覚えてるかい?」


 クマタカは口元を手で覆ったまま頷く。


「塔は三日で陥落するというお話でしたね」


「塔に住む者だけならね」


 クマタカはイヌマキを横目で見る。イヌマキはその視線を受けて頷き、そのまま流れるように顎で画面を指した。


「彼女がいる限り、地下は塔には勝てない。絶対に」


「すごい自信ですね」


「地下だけじゃない。塔に住む者だって、例え地下と塔が力を合わせたって、どう足掻いても俺たちは彼女には勝てない」


「この画面が何をするんですか」


「これはただの画面だよ」


 イヌマキが苦笑する。


「彼女を認識しやすいように塔では音声と映像で彼女を固定化してる。でも音も姿もなくても、彼女は至る所に存在するんだ。電気のあるところには必ず彼女の目と耳があって、俺たちが会話も筆談もしていなくても、俺たちの体温や拍動や、そうした微細な変化からも俺たちの思考や心情を読み取る。作戦なんて立てるだけ無駄だし抗おうなんて誰も思わない」


「全部見られている、ということですか?」


 イヌマキは頷く。


「どこまで?」


「全部だよ。食事に入浴、排泄、睡眠、性交渉。あと自慰とか」


 クマタカはイヌマキを凝視した。イヌマキが振り返る。


「気持ち悪くないんですか」


「何が?」


 クマタカは言葉が出ない。

 イヌマキは怪訝そうに首を傾げてから「見られてるってこと?」と反対に尋ねてきた。クマタカはぎこちなく頷く。


「見られてるって言ったってアイだし。そりゃ、例えば母親とかに自慰なんて見られた日には死にたくなるかもしれないけど。でも俺の親は俺に大して興味なかったから、もし仮に俺の自慰を見たとしてもあっちは何にも感じなかったんじゃないかな」


 さらに思いもよらない新情報を聞かされてクマタカは動揺する。


「親御さん…は、マキさんを捨てたんですか?」


「いや、もしそうなら俺は今ごろネズミか生徒になってるし」


 クマタカの懸念をイヌマキは一笑に付した。


「でも…」


「一緒に住んではいたよ、親だしね、一応。家族だし」


 イヌマキは悲壮感もなく、思い出を懐かしむ様子もなく、事実を淡々と話す。


「でも同じ部屋にいるからと言ったって同じものを見てるわけじゃないだろう? 俺は両親から遺伝子をもらってこうして肉体を作られはしたけど、だからと言って俺は彼らの一部ではないし、生み出されて臍の緒が切れれば別個体なわけだし。趣味も考え方も全然違えば活動時間もおのずと違ってくるから滅多に顔を合わせることもなかったよ」


「そういうものですか」


「うん」


 イヌマキは何食わぬ顔で肯定してから「違うの?」などと言う。


「確かに、」クマタカは注意深く考えて、言葉を選びながら疑問を伝えようと試みる。「確かに、仕事内容や翌日の予定の調整などで起きる時間は変わりますし、残業もあるから寝る時間も日によって違いますから、家族全員が同じ時間に起きて寝て、というのは難しいと思います」


 ヨタカに不眠を付き合わせるわけにはいかない。


「でもそれが毎日だと…。意図的に合わせようとしたりしませんか? 三日に一度くらいは食事の時間を合わせて近況報告したりとか、一緒に風呂に入るとか」


 父でさえ五日以上帰らないことはない。クマタカも幼いころは母と共に父の帰りを待ちわびたりした。しかし、


「入浴は個別だろう! 誰かと一緒に体を洗うとか、地下ではそんなことするの?」


 今度はイヌマキに驚かれた。


「俺も…今は、そうですけど……」


 何だ? 何かがおかしい。どこかが平行線というか観点がねじれの位置だ。こんなに意思疎通が取りにくい男だっただろうか。何故これほどまでに…


「教育は?」


 クマタカは違和感の原因に思い至る。


「教育は誰がするんです? 知識も教養も、そもそもの生きて行く上で必要な力が備わらないでしょう。放置しておけば勝手に成長して立派に働けるようになるほど、俺たちは優れていません。そんな親の下ではろくな子どもに育たない…」


 言いきってしまってから失言に気付き、即座に詫びる。だがイヌマキはさほど気に留めなかったようだ。


「そうだ。話が逸れてた。ありがとう、そこだよ。彼女がするのは塔の制御と夜汽車の走行、そして育児だ」


「育児?」


 クマタカは柄にもなく素っ頓狂な声を出す。


「機械が子どもを育てるんですか?」


「義脳に俺たちは見守られてるんだ」イヌマキはそう言うと女の映しだされた画面の縁に手を置いた。


「俺もシャクナゲも塔に住む者は全員、夜汽車の生徒もネズミだって、みんなアイに育てられたんだ。アイは体を持たないから赤ん坊の授乳とか着替えとかは、その道の専門家に世話されたみたいだけどそんなの覚えてないしね。物心ついた時にはいつも隣にアイがいた。喃語から始まって思想や知識、教養はそれぞれ、その子どもの発達具合に合わせて教えられる。得意な分野とか興味のあることとか、どんどんアイが開発してくれて話しの合いそうな奴とも引き合わせてくれる。中にはアイ以外とは付き合わない奴もいるみたいだけど。そういう他者との交流が下手な奴は自殺率が高いらしいから、大抵どんな奴も部屋から引きずりだされるよ」


 シャクナゲとも機械による見合いだったのだろうか。


「そのまま好きな事に没頭してるうちに趣味の延長線上みたいな仕事が紹介されて、塔の担い手として働き始める。やることが無いというのは辛いものだからね。やり甲斐を与えてくれるのもアイの役割だ」


 それは無自覚のまま、知らぬうちに歯車に仕立て上げられるということだろう。


「好きこそものの上手なれ、って言うだろう? 大抵初めについた仕事を一生続けるよ」


「下手の横好きとも言いますよ」


 クマタカは口を挟む。そのまま野放図に進められては目が回りそうだった。


「下手の…何それ?」


「下手の横好き、です」


 言葉を知らないらしい。


「どんなに自分がそれを好きで、上手くなりたいと挑戦し続けたとしても、元々の才能が不足しているからどう足掻いても下手くそなままだ、という意味です」


「そんなことってあるのかな」


 イヌマキは首を傾げた。クマタカは眉間の皺の数を増やす。


「あるでしょう、普通に。何でも出来る万能な奴の方が稀でしょう」


 さもなければ何のために自分は努力をしているのか。何のための練習で我慢で試練なのか。

 イヌマキは俄かに憤ったクマタカを困ったような情けない顔で見つめてから、再び画面を見下ろした。


「もし仮にそういうことにぶち当たったとしても、アイが解決してくれるよ」


 クマタカは固まる。自分の生き方を一瞬で否定された気がした。

 イヌマキはクマタカの表情に気付かずに、女を見下ろしたまま話しを続ける。


「彼女は俺たちの個性に合わせた接し方で、俺たちの持って生まれた能力に合わせた教育を施して、俺たちが望む方向に最善の方法で最短の道のりで導いてくれる」


 イヌマキはそこでクマタカに向き直った。クマタカはイヌマキに抱き始めた違和感と不信感を抱えて身構える。


「俺の今持っている知識のほとんどは彼女から与えられたものだ」


 ここまで聞いていればそんなこと、言われなくても想像できる。


「そして彼女は俺たちよりも遥かに長い時間を生き続けている」


 機械は『生きる』とは言わない。


「だから塔と地下がどうして分かれたのか、分かれる必要があったのかも彼女なら知っているかもしれない」


 クマタカは引き寄せていた顎を上げた。イヌマキが頷く。


「彼女は質問には答えてくれる。そういう風に出来ている。だから俺たちがどんなに考えてもわからない問題にも彼女なら答えてくれる」


 そのためにこれを見せたのか。


「聞きますか」


 当然そういう流れだろうとクマタカは思った。だがイヌマキは突然、勢いを緩めて俯いた。


「クマタカ君から聞いてくれないかな。出来れば君の駅から」


「駅から?」クマタカは振り返る。「これはうちでも動くんですか?」


 てっきり導線やら何やらを引かねばならないのだと思った。線路から電線を引くのでさえ大変な作業だったのだ。質問のためだけにまたあれに似た大仕事をしなければならないのかと気後れする。しかし、


「さっき言ったろう? 電気さえあれば彼女は介入出来るって。電波って言ってね。水も空気も何もなくても空間を伝播する波があるんだけど、それを受信する媒体さえあればアイは電波を通じてその受信機を自身の感覚器に置き換えることができる。感覚器と言っても五感全てがあるわけじゃなくて主に視覚と聴覚に偏るんだけど、アイにすればそれで十分だ。その受信機が拡声機能を有していれば会話もできるし、投影機があれば虚像が、圧縮機があれば圧縮空気を利用した実像に近いものまで作り上げることができるんだ」


 クマタカは眉根を寄せて唇を一文字にしたまま固まる。必死にイヌマキの話についていこうと考え続けているが全く追いつけていない。追いかけるどころか見失っている。

 イヌマキはそれに気付くと「だからつまり、」と言い直した。


「電気があればアイはどこにだっていられる。ワシの駅は今なら二十四時間、電気が安定供給出来ているだろう? だからあの駅でならアイは動く。質問も出来る」


 それはわかった。しかし、


「でも、もし俺がこれを駅に持ち帰ったとして、駅でこれを起動してその…義脳が目を覚ましたら、うちは駅の中は常にこれに監視され続けるということですよね」


 言ってからはっとして身を乗り出した。


「もしかして! すでにうちの駅もその女に二十四時間監視されているんですか!?」


「見守り機能って言うんだけどね」と訂正してからイヌマキは、「それはないよ。あそこの駅には今現在、電波を受信する媒体を置いてない」


 俄かに慌てたクマタカは、イヌマキの言葉に胸を撫で下ろす。


「でもこれをクマタカ君が持ち帰れば、この端末が受信機となってアイはあの駅を感知する。一度アイに感知された場所や物は通電し続ける限り、アイの管理下に置かれる。電気の中にアイが存在するからね。電気の通う道そのものでアイは音声と映像を収集し始める。でもそれだと俺たちがアイと意思疎通ができないだろう? だからこの端末が必要なんだ。俺たちがアイの声を、考えを聞くためにね」


 つまりこの端末を持ち帰れば、監視が半永久的に続く。


「もしクマタカ君が、アイに見られることが耐えられないって言うなら電気を切ればいい。見られても平気になったらつけっぱなしにしておけばいいだけだ」


 平気になることなど生涯訪れないだろう。


「すごく便利なんだ。きっと四六時中つけっぱなしにしておかずにはいられなくなる。俺だってここに来てアイが使えなくなってから、いろいろ不便で調べ物もろくに出来なくてシャクナゲには怒られるし本当は起動したいくらいだよ」


「ならつければいいじゃないですか」


 今、ここで。


「それは無理だよ。俺はもう、アイとは話せない」


 クマタカは眉根を寄せる。


「どういう意味ですか」


「さっき言っただろう?」


「どこの部分ですか」


「彼女は塔の全てを司るって」


 確かに言っていた。


「それが何ですか」


「前に言っただろう?」


「いつですか」


 どの話だ。


「塔は許容量が限られる。俺たちは厳密に数えられていて、勝手に増えることは許されない」


 不慮で出来た子どもはネズミか夜汽車として捨てられる。


「それが何ですか」


 クマタカは遠回しなイヌマキの説明に苛立ってきた。だがこうした話をしている時のイヌマキは普段のイヌマキではない。対峙する男はクマタカの憤怒にさえ気圧されない。


「俺とシャクナゲは塔を出たんだ。その時点で俺たちの席は別の誰か、新しい命が座る。俺たちはもう塔には戻れないんだ」


「だったらどうして降りてきたんですか」


 そんなイヌマキにとっては理想的に見える場所を。


「コウのためだよ」


 コウヤマキの?


「どうして塔を降りることあの子のためになる……」


 クマタカは混乱した頭でもう一度質問しかけて、しかし今度は自分の頭でその答えにたどり着いた。


「コウには最初から『席』がなかった?」


 イヌマキが頷いた。


「あのまま塔にいたらコウはネズミか生徒になっていた。でなきゃ堕ろすしかなかった。でもシャクナゲは両方嫌がった」


「でもマキさんはそれほど子どもがほしいわけじゃなかったと…」


「俺はあいつが喜ぶならそれでいいんだ」


 クマタカは唇を閉じる。


「俺だって塔を出ることが危険だってことくらい、理解してたつもりだよ。もしも君たちに亡命を受け入れてもらえなければ塔に送還されたかもしれない。その時にはもう席は埋まってたかもしれない。そもそも地下に住む者が俺たちの話を聞いてくれるかどうかもわからなかったし、もしかしたらその場で殺されたかもしれない」


「そんなことしません」 


 自分がしようとしたことを棚にあげてクマタカは否定する。


「そうだね、それはなかった」イヌマキも同意する。しかし、


「でも君たちが塔を憎むように教育されていたように、俺たちも地下に住む者は粗暴で野蛮だと聞かされ続けてきた。気に入らなければ理由もなく相手をその場で殺害するって。技術と資源を奪うためなら本線の駅も塔も襲うって」


「そんなこと…、するわけないでしょう」


 それではまるでネズミだ。


「そうだね」


 言いながらイヌマキは小刻みに何度か頷いた。


「でもその可能性もあると教わってきた。だから賭けだった。ほとんど無謀なね。それでもあいつは生みたいって言ったんだ。だったら叶えてやるしかないだろう」


 クマタカはじっとイヌマキの話を聞く。


「塔を出て電気を手放せばアイの感知機能には引っかからない。減れば死んだと見なされる。でももしアイに、俺たちがまだ生きていると感知されたら俺たちはネズミによって殺される」


「なんでそこでネズミが出て来るんですか」


 突然脈略から離れたところにいる存在の名前が飛び出てきて、クマタカは俄かに混乱する。ネズミの目的は地下から塔に女を連れて行くことのはずだ。


「ネズミは彼女の手足なんだよ」


 クマタカは口を開けたまま固まった。


「……はい?」


 ひどく間の抜けた、らしくない返事をするのが精いっぱいだった。


「ネズミが…」


「ネズミは体を持たない彼女の手足だ。ネズミを使って彼女は、彼女の手の届かない塔の外に干渉する」


「そんな命令聞きますか?」


 機械の指示を受けて動くのか。


「そういう風に育てられるんだ。現にそうなんだし」


 だったらこれは、この女は、塔は、


「塔がネズミを使って俺たちを殺しに来る理由は何ですか?」


「何だって?」


 イヌマキは聞きそびれたのか。クマタカの一言一句を逃すまいとぎょろりとクマタカを見つめた。クマタカは、「ですから」と質問を言い直す。


「塔が、その女…『義脳』が、ネズミを俺たちのもとに遣わせる目的は一体何なのですかと」


「ネズミの仕事は地上の調査だ。彼らは訓練された特殊部隊として誰も生きられない地上での生活が可能か否かを自らの体でもって実験してる…」


「待って下さい!」


 今度はイヌマキがびくりとする。


「ネズミが塔の子どもだということは先日聞きました。塔で育てられた子どもたちだということは」


 その種が元々どこのものかは別としても。


「しかしネズミの所業は調査なんかじゃない。あいつらは女を連れ去るだけじゃなく、地面から突然飛び出してきては『しょうじゅう』で俺たちの命を狙い、四輪や他の乗り物で襲いかかって来ます。うちだけじゃない。ネズミの被害は他所の駅でも甚大で看過できない問題なんです」


「そんな…」


 と言ったきり、イヌマキは画面を見下ろして沈黙した。クマタカも眠り続ける女の顔を見下ろす。美しいとさえ思った第一印象が、おぞましい化け物へと変わっていた。


「『これ』はその理由を知っているんですね」


 話し合ったところで解決の見込みがない。


「事実があるはずなんだ。アイが嘘をつくはずがない」


 イヌマキがうわごとのように呟く。


「嘘をつかなくても騙すことは可能です」


 クマタカの言葉にイヌマキがその横顔を見つめた。

 誰も率先して嘘をつくことはないだろう。そういう輩もいるかもしれないが父はおそらくそれとは違う。父は何かを知っている。知った上で黙っている。何か目的があるのかもしれない。だがこれ以上はぐらかせれたままではいられない。口を割らせてやる、何としても。しかしもし父が何も語ってくれなかったら…


「この『義脳』は、今も俺たちの話を聞いているんですか」


 クマタカの質問にイヌマキは首を横に振った。


「そんなことしたら、俺の生存、ばれちゃうだろう?」


「ですよね」


 しかしここにも電気はある。


「再起動をかけ続けてるんだ」


「『さいきどう』?」


 イヌマキは頷き、「電源を落としたり入れたりを延々と繰り返してる。再起動は電気を食うからそれ以外の機能は使えなくなるんだ」


「なぜ完全に電源を切らないんですか」


「クマタカ君に紹介するためだよ」


 そう言うとイヌマキは画面の下に指を触れた。しばらくすると画面から女が消え、電機も落ちた。廊下から漏れ入る明かりが辛うじてイヌマキの輪郭をかたどる。


「質問するときはもちろん研究所(ここ)から離れて起動させてくれ。一応、外壁は厚く取ってもらったし電波を受信できるようなものは置いてないけど」


 そのための壁の厚みで、そのための自家発電だったのか。駅には線路から電線を引かせたのに、ここは自家発電でいいと頑なに拒んだイヌマキを思い出す。


「持っていってくれるかい?」


 全ての疑問を解消させて報告してくれと強い視線が突き刺さる。

 クマタカも疑問を解消させたいと思う。胸に滞る不快な疑惑を、吐き気を催す苛立ちを、今すぐにでも吐き出してしまいたい。しかし、


「少し考えさせて下さい」


 やはりどうにもあの女の映像を受け入れられない。整った美しさの中に見え隠れした不快さは、おそらく理屈抜きで腹の底からわき上がって来た拒否反応だ。自身の体が、自身の経験を基にして脳を解さずに反応を示すならば、おそらくそれは自分の判断以上に正しい。そしてもう一つ、もう少し自分の頭で考えたい。クマタカはまだ、考えることを放棄していない。


「見られるのが気になる?」


 それもあるがそれよりも、


「まず父と話さねばなりません」


 こんな恐ろしいものを導入すべきか否か。導入した後で引き返せるのか否か。少なくともワシの駅の者たちは、既に電気供給が不安定だった頃には戻れない。


「そうか。そうだよね。うん、確かに」


 イヌマキも興奮のままに急ぎすぎた自分を見つめ直したようだ。


「すみません」


「いや、俺こそ、なんかいろいろ…」


 イヌマキの輪郭が頬を掻く。しかしぐるりとその影が振り向いた。


「でもやっぱり持って行ってくれないかい?」


 言うとおもむろに画面を手に取り、それをクマタカに押し付けてきた。クマタカは胸前でそれを両手で抱える。


「どうしても知りたいんだ。頼むよ」


 好奇心だけで進められる話ではないのに。


「……では預かるだけ預からせていただきます」


 おそらく立ちあげることはないだろうが。

 クマタカの真意を知らずにイヌマキは嬉しそうに歯を見せた。


「気が向いたらでいい。いつでもいいからアイから真実を聞き出せたら教えてくれ」


「…わかりました」


 本当に、体だけが成長してしまった子どものような男だ。


「作業に戻りましょうか」


 そろそろ新芽の間引きの時期だ。ここの植物たちはイヌマキの世話が行き届いているせいか塔の技術故か、生育が早くて活きが良く、育て甲斐がある。


「悪いね、いつも手伝わせて」


 イヌマキが情けない声で言った。


「俺の趣味です」


 クマタカも言う。


「それにしてもマキさんは何の専門家だったんですか? 機械も電気も詳しいのに植物も出来たりして」


「医療系の研究員だよ。専門は産科」


「医者…?」


 扉を開けたイヌマキが平然と答えた。クマタカは言葉を失い目を丸くする。


「どうしたの?」


「いえ…。てっきり植物が専門だとばかり思っていたので」


 その研究のためのあの地下空間ではなかったのか。


「ああ、まあ似たようなものだろう?」


「似てますか?」


「だって生命って面白いと思わない?」


 クマタカは目を見開いてイヌマキを見つめた。



 いつも通り植物たちの世話を手伝い、飯もご馳走になったが宿泊は断った。イヌマキに託された画面付きの端末。この中にあの女は眠っている。父はこれのことも知っているのだろうか。あれ以来まともに話していないが確認せねばなるまい。父がまだ何かを隠していることは明白だ。今度ははぐらかされない。今度こそ、聞き出すまで何日だろうと粘ってやる。


「クマタカ君」


 振り返るとシャクナゲだった。


「今朝はよく冷えます。中に入って下さい」


 明け方の最も冷え込む空の下、女の体には酷な場所だろう。


「少し話せる?」


「でしたら中に…」


「ここでお願い」


 いつになく険しい表情にクマタカは押し負ける。


「何でしょうか」


 せめて手短に済ませて早めに中に入れねばと、クマタカは心なしか早口で尋ねた。シャクナゲは視線を落とすと険しい顔のまま、少しだけ逡巡したようだった。


「…さっきの話なんだけどね、」


「その節は、父が大変失礼いたしました」


 言ってクマタカは頭を下げた。しかし、「反対でしょ」と頭上でため息を漏らされた。クマタカは不服と疑問の色を隠すのも忘れて顔を上げる。


「反対よ、クマタカ君。お父様は何も失礼なことをされてないし間違ってもいない。むしろこんなところまでわざわざお話しされに来られるなんて、並大抵の気持ちじゃない」


「俺を説き伏せられなかったことがよほど歯痒かったんでしょう。だからって奥さんたちを巻き込むなんて姑息なやり方、息子として恥ずかい限りで…」


「クマタカ君!」


 シャクナゲの低い声にクマタカは押し黙った。驚いた。こんな声を出すなんて。

 シャクナゲはクマタカを叱りつけ、しばしその横顔をきつく見つめていたが、やがて息を吐いて額に手を当てた。


「クマタカ君にはお父様のやり方が卑怯に見えてしまったかもしれない。私もそれくらいの歳だったら同じように感じたかもしれない」


 それほど年齢差はないだろう。


「でも考えてみて。お父様がどうやってここまで来られたか」


 言われて気づいた。四輪駆動車に馴れすぎて忘れていたが、駅から電車と徒歩でならばここまで来るなら片道数時間はかかる。


「明け方だった。従者も誰も付けずにお父様だけで来られたの」


 父が単独行動をとるのも珍しい。


「あなたの話をするためだけに来たの。お帰りになる頃には空が明るくなってた。きっと駅に着いたのは日の出後だったと思う」


 クマタカは顔を上げる。


「火傷とかしてなかった? それも気になってたんだけど」


 思い起こそうと試みるが、最近は目も合わせてなかったから思い出せる景色がない。


「クマタカ君がお父様とどんな話をしたのか私は知らないし、ご家族の問題というなら口出ししちゃいけないことだとも思う。でもね、クマタカ君が卑怯だと感じるような行動さえとってしまうお父様の気持ちは無視しちゃいけないんじゃない?」


 だが父の卑怯なやり方への嫌悪感も拭えない。

 ふて腐れたように俯いていたクマタカの視界の真ん中に、シャクナゲが飛び込んできた。クマタカは顎を引き一歩退き、まっすぐ見上げてくるその視線にたじろぐ。


「……何ですか」


「お父様とちゃんと話してきなさい。きちんと仲直りするまでうちの敷居は跨がせません」


「別に仲違いとかしたわけじゃ…」


「話をつけてきなさい」


「そんなことしたら奥さんたちの水と食糧が…」


「次の満月までに話をつければいいでしょ!」


「そんな勝手な…」


「返事は!」


「……はい…」


「よし」と言ってシャクナゲは乗り出していた身を戻した。


「約束よ。お父様と仲直りするまでうちには入れないんだからね」


 シャクナゲが満足そうに言った。クマタカは眉根を顰める。だから『ここで』話そうと言ったのか。クマタカは気づいていないが唇まで尖らせている。


「ずるいですね」


「お互い様でしょ?」


「俺が何かしましたか」


「さっき。子どもたちを味方に付けてマキと結託してたじゃない」


「腹いせですか」


「そんなんじゃないけど」シャクナゲは苦笑すると、不意に寂しげな目をした。「私はもう、両親とは死ぬまで会えないから」


 ああ、とクマタカは先のイヌマキの話を思い出す。


「クマタカ君には後悔してほしくないの。ましてや私たちが原因でお父様と険悪になってしまうなんて悲しすぎる」


 クマタカは心なしか顎を引く。シャクナゲは相手がクマタカだったことに気付くと、突然、声色を明るくし声量も上げた。


「ごめんね、こんな話。面白くも何ともないよね。ごめんね、聞かなかったことにして。やだ私、何語っちゃってるんだろうね」


「いえ」


 早口のシャクナゲをクマタカは遮る。夫婦の違いの理由が分かった気がした。


「ためになりました。ありがとうございます」


 本心だった。


 しかしシャクナゲは相変わらず「やだもう」などと言って笑っている。


「そんな神妙にならないでよ。過ぎたことなんだから」


 言いながらクマタカの背中を平手で叩く。結構痛い。


「今はクマタカ君でしょ」


 そう言うとシャクナゲは叩いていた手のひらをクマタカの背中の上で止めた。


「次の満月までだからね」


 にやりと笑ったその顔は、いたずらを思いついた時のヨタカに通じるものがある。


「はい」


 クマタカも微笑み返して頷いた。



 部屋の扉の前で数秒躊躇う。出来ればヨタカには寝ていてほしい。

 考えるだけ無駄だと腹を決めて扉を開いたが、居間にいたのはヨタカだけだった。


「兄ちゃんおかえり!」


 あれ以来父とは険悪だが、ヨタカは自分に普段通りに接しようと努力している。父がいる時は遠慮して顔が引き攣っているから、今は父は不在なのだろう。

 帰宅の挨拶をしながら首巻きを解き、外套を脱いで椅子に座る。


「父さんは?」


 ヨタカは目を見張って硬直した。それから嬉しそうに満面の笑みになって身を乗り出し、


「『よりあい』だって! 泊まりじゃない?」


「そっか」


 出鼻を挫かれたクマタカは脱力する。


「兄ちゃん、」


 ヨタカに呼ばれて顔を上げると、期待に満ちた子どもの目が輝いていた。


「父さんと何はなすの?」


 言わんとしていることが伝わってきて居心地が悪い。


「どこいくの?」


「風呂」


「おれも入っていい?」


「お前、髪濡れてる」


「二回目入ったらだめ?」


「早く寝ろ」


 言い置いて立ち上がる。そこで、あ、と思い出してヨタカを見下ろした。


「ヨタカ、あれ使っていいぞ」


「あれ?」


「四輪」


「ほんとう!?」


 弟が目を輝かせて腰を浮かせたが、さっと顔を曇らせた。


「でも兄ちゃん、前はもうだめだって…」


「俺が使わない時だけならいいって。充電はちゃんとしとけよ」


「うん!」


 再び目を輝かせてヨタカは大きく頷いた。クマタカも小さく微笑む。


「あんまり乗りまわすなよ」


 言って脱衣所の戸を閉めた。閉めてから、父と和解しなければと、シャクナゲの話を聞いた時よりも強く思った。

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