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1--20 夜汽車とネズミ

 注がれた酒に口もつけずに杯を手にしたまま、クマタカは呆れた。卓を挟んで赤い顔をしたイヌマキが照れ隠しではにかみ、頭を掻いている。


「……それが理由ですか」


「いや、恥ずかしいんだけど、まあ、うん」 


 杯を持ったまま手を置く。


「呆れた?」


「少し」


 いや、かなり。


「だよね」とイヌマキは笑った。


「避妊はしたつもりだったんだけどね。なんと言うか、まあ、生命ってすごいね」


 下世話な話も物は言い様だ。


「不倫…ですか」 


 ワシの駅では追放ものの重罪だ。しかし、


「違うよ。ちゃんと結婚してるって」


「ならなんで」 


 クマタカには解せない。不倫でなければ何故それが塔を追われる理由になるのか。イヌマキは俯いて口元だけで笑い、空になった杯を弄んだ。クマタカは酌をしようと手を伸ばしたが遠慮される。


「ここには無いんだよね」


「何がですか」


「出産制限」 


 初めて耳にした言葉を頭の中で繰り返し、その意味を考える。


「塔では子どもを産むのが禁止されているんですか?」


「禁止ではないんだけど、許可がいるんだ」


「許可」 


 見つめるクマタカに再び力なく笑ってイヌマキは空の杯に視線を落とした。この男は笑った顔も情けなく見える。


「どこも狭いからね、特にあそこは許容量も限られてるんだ。空きが出るまで入れないって言うか」 


 クマタカは眉根を顰めた。イヌマキは言葉を選ぶのを諦め、直接的に伝える。


「塔は、誰かが死ぬまで次の命は受け入れない」 


 クマタカが珍しく目を見張った。イヌマキは続ける。


「でもみんな死にたくないだろう? だからなかなか空かなくてね。爺さんは山ほどいるのに子どもは滅多に見ないんだ」


 イヌマキは視線を上げ、「クマタカ君みたいな若者も珍しがられるよ」


「初めから作らないんですか」


「物好き以外は基本、避妊かな」


「皆が皆、避妊していたらそのうち誰もいなくなるでしょう」


「ちゃんと数は保たれてるよ。それに物好きはどこにでもいるもんだし」イヌマキは困ったように情けなく笑う。


「だからそれなりに順番待ちもいる」


 誰かが死ぬのを。


「うちも申請して許可待ちだったんだ。シャクナゲは子どもをほしがってたから」


「マキさんは?」


 イヌマキは驚いたように顔を上げ、それから顔をしかめて唸り始めた。散々待たせた後で「どうだろね」と呟く。


「こんなこと言ったらあいつが怒るけど、そこまで熱烈にほしいってわけじゃなかったかな。まあ、シャクナゲが喜ぶならいてもいいかな、くらいで」


 随分無責任だな、というのが率直な感想だった。


「あ、でも、」とイヌマキが慌てて言い加える。


「実際、生まれてみたらなんて言うか…、あいつがほしがってた理由が少しわかったような気がするよ。とにかく長かったしさ、達成感というか解放感というか。あの感じが病みつきになる奴もいるのかなって」


 息子との対面時を思い出しでもしたのか嬉しそうに短く笑い、


「気が早いけど次の子も、なんて思ったりして。ここまで考えが変わるなんて思わなかったよ」


「もし万が一」苛立ちを抑える代わりにクマタカは質問に悪意を込めた。


「お子さんと引き替えに奧さんが亡くなっていたら、どうされるおつもりだったんですか」


 イヌマキは目を丸くしてクマタカを見た。クマタカは顔色を変えない。元々変わりにくい。


「滅多なこと考えたくないけど…」


「よくあることです。絶対安全な出産などあるはずありません」


 イヌマキは真面目な顔になりクマタカを正面から見た。クマタカは目を伏せ、


「弟の誕生日が母の命日です」


 イヌマキは驚き戸惑いつつも納得したような顔をして、「それは、その、ご愁傷様です」などと言った。


「そうだね、そういうこともあり得たんだよね」


 自身に言い聞かせているのだろうか。イヌマキは空になった杯を両手でもてあそぶ。そして空のはずの杯を煽った。


「ごめん。考えたことなかった。子どもの病気とか奇形とかそっちの心配は散々してたはずなのに、そういうことが起こり得る可能性も知識としてあったはずなんだけどね。そっか。そうだよね」


 大方の親たちがそうであるように、生まれてくる命の心配はしても産む側も命がけであることを、イヌマキもまた楽観視していた。父もそうだった。おそらくは当の母も。両親は家族が増える喜びをクマタカに日々説き続け、期待を膨らむだけ膨らませてクマタカに弟との対面を待ちわびさせて、対面時には増えるはずだったのに数だけは変わらない変わり果てた家族が残った。


 イヌマキは誠実なのだろうとクマタカは思う。単に素直なだけかもしれない。けれども自分の悪意に気付きながら同じ悪意や虚栄ではなく、正直に本音で返してくれたことにクマタカは誠意を感じた。同時に安易に悪意を向けた自分の幼稚さを恥じる。


「すみません」


 何についての謝罪かは説明する必要がないと思った。だがイヌマキは一瞬きょとんとしてそれからまた、あたふたとして首を横に振った。


「いや、俺の方がなんか…」


 困るとすぐに挙動不審になる男だ。クマタカが知る中では年甲斐という言葉から一番遠くにいる存在だと思う。


「空いてますよ」


 言ってクマタカはイヌマキに酒を進めた。イヌマキは情けない顔で笑うと杯を差し出した。


「それで、」クマタカの声にイヌマキは顔を上げる。


「順番を待ち切れずに子どもを作ってしまったから塔を追われたということですか」


「追われたんじゃなくて降りてきたんだよ」


 そこがいまだにわからなかった。


「何故塔を出る必要が?」


 イヌマキはちらりと背後を見遣った。扉は閉じている。シャクナゲの子守唄も聞こえなくなった。コウヤマキと共に眠ってしまったのだろうか。


「さっき言っただろう」


 どの部分の話だ?


「塔は厳密に数を制限しているって」


 『空き』が出なければ新しい命は受け入れられない。


「クマタカ君はもう、したこと…あるよね?」


 突然何を言い出すのか」


「月並みには」


 父の権力にあやかりたがる輩が頼んでもいないのに娘たちを送って寄越す。


「ならわかるだろう?」


 クマタカは眉根を寄せる。


「ちゃんと避妊するのなんてどれくらいいるか正直俺は知らないよ。流れでそのままってこともあるだろうし。望まれない子どもっていうのはそんなんだから必ず出て来るものなんだ」


 クマタカは目を伏せる。それは否定しない。現にワシの駅でも産むだけ産んで育てない奴は一定数いる。捨てられた子どもたちは似た境遇同士で徒党を組み、駅内の侮蔑の中、肩身を寄せあって生きている。父はそんな彼らにも仕事を与え、衣食住を確保している。


「親が全てではないでしょう。周囲の者が支援することだって可能です」


「そうだよ。だからそういう子どもたちは支援される。親がいるのもいないのも産んだ側の都合で子どもに罪はない」


「それは俺も賛成です」


 しかしイヌマキは目を伏せた。意見を肯定されながら後ろめたそうな態度をとるイヌマキにクマタカは違和感を覚える。


「……だからそういう子どもたちには最善と考えられる環境を与えられる。安全な居住空間、知識欲を満たす学習環境、完璧な管理の下、健全で健康的な生活を確約され、餓えも争いも知らずに育てられる」


 イヌマキはちらりと視線を上げて、


「夜汽車だよ」


 クマタカは唇を固く結んだ。

 夜汽車は塔から地下に送られてくる。技術を独占し、大多数の者たちを締め出して地下に追いやった塔に住む者が、せめてもの償いとして地下に捧げるのが夜汽車だ。

 だが彼らがどのような基準で選別されるかを、クマタカはこの時まで知らなかった。若い、いや、幼いと言った方が正しいほど年端もいかない男児たちだとは思っていたが、まさか親のいない子どもたちだったとは。


 考えないようにしていたのかもしれない。事情など同情を掻き立てる要因になるだけだ。何も知らず、何も考えずに流される。怠惰と呼ばれるその態度は自己防衛でもある。特にクマタカのような男ならば尚更、相手の素性など目を瞑っておいた方がいい。


「元々あいつは子どもをほしがってたって言ったろう? 妊娠してるって分かった時は堕胎も提供も嫌だって言って聞かないし、けど周りにばれたら提供に回される時期だったし」


 貶まれても疎まれても、命と居場所を奪われないだけ最下層にいるあの子どもたちの方が恵まれているのだろうか。それとも、何不自由なく恐怖も危険も排除され、安全という名の無恥の中で一生を終える運命の方が幸せなのだろうか。


「提供後は産みの親でも一切関与できないことになってるんだ。生徒になるかネズミになるかはその子によるみたいだけどね。体が強いとか弱いとかそういうので選ばれるんじゃないかな。でも…」


「ネズミ?」


 考え事の向こうで聞き流していたイヌマキの弁解の中で、聞き流せない単語が耳についた。


「ネズミ…も、その、塔に住む者が捨てた子どもたちなんですか?」


「捨てたって…」


 イヌマキは居心地悪そうに視線を斜め下に向ける。


「捨てたんじゃなくて『提供』だって。だって生徒を送らないと君たちは生きていけないじゃないか」


「それはそちらが俺たちを追いやった代償でしょう! あなた方は限りある資源と技術を確保するために俺たちの祖先を塔から追い出した。でないとこんな何もないところに誰が好んで住みつくんですか。電気はあればあるほどいいに決まってるし海からは距離を置くに超したことはない。あなた方はそれらの好条件を独占した、俺たちという地下に追いやられた大多数を犠牲にしてあなた方は安全と平穏を獲得したんでしょう?」


 イヌマキが怪訝な顔をしてクマタカを見つめる。


「地下ではそういう風に語られてるの?」


 クマタカも眉根を寄せる。


「どういう意味ですか」


 イヌマキは杯を完全に卓に置くと肘をついて両手の指を組み、その手で口元を隠した。瞬き少なく思考に集中するその姿に普段の情けなさは微塵もない。


「マキさん……」


「歴史が正しく伝えられることは皆無だ。伝言遊びがどこかで失敗するのと同じようにね。でもクマタカ君の話は端から見れば齟齬がない。辻褄が合っていることほど信憑性を増す要素はないし、少なくとも地下ではそれが事実なんだろう」


「信憑性って……」


 事実ではないのか。


「そしてその『事実』が大衆に信じられるのは何かにとって都合がいいからに外ならない。何かを成すためにその『事実』は信じられている必要があるんだ」


「俺たちの教わってきたことは嘘だったというんですか」


「全くの嘘は信憑性を持てないよ。だからどこかは確実に真実だ」


 クマタカの眉間の皺が深くなる。


「でも別のどこかは『正しくない』」


「俺たちは代々嘘を教えられてきたと言いたいんですね」


「そうじゃない。熱くならずに聞いてくれ。嘘じゃなくて『正しくない』んだ。言い方、伝え方の問題だ。

 塔は地下のことを恐れている、これは事実だ。君たちは体格も恵まれているし数と結束力は圧倒的だ。地下に住む者が一斉隆起して塔を攻めれば塔に住む者だけなら三日と持たず陥落すると俺は思う」


「古巣を随分、虚仮下ろしますね」


「事実を言っただけだよ。いや、現実的な予測だね」


 ふにゃりと微笑んでイヌマキは言う。


「そしてクマタカ君のさっきの話から、地下に住む者が塔を憎んでいるということもわかった」


「憎んでいるという訳では……」


 少なくとも目の前の男とその家族に関して言えば、クマタカは父の部下たちよりもよほど好感を持っている。


「憎むまでいかなくても塔は嫌いなんだろう?」


 嫌わない理由になる情報を教わってきていない。


「嫌うように教育されてきたんだ、互いに」


 頭の中を覗かれたかと思って、勢いよく顔を上げた。対してイヌマキは静かに手元を見下ろしていた。


「どこまでが事実かな」


 イヌマキが呟いた。クマタカは眉根を顰めてイヌマキを見つめる。


「俺も正直わからない。クマタカ君の話を聞くまで疑いさえしなかった。太陽は熱いっていうのと同じようにそれが『事実』だって思ってた。でもどこかはきっと正しくないんだろうな」


「塔では」


 クマタカは焦燥感を押し留めて極力静かに質問する。


地下(おれたち)との関係をどんな歴史として伝えられているんですか」


 イヌマキが真剣な目で見つめてきた。クマタカもじっと見つめ返す。

 無恥は罪だ。知らなかったで済まされるなら罰などいらない。知らなかったで許されるならそもそも罪など存在しない。知っていようがいまいが非難されるべき過去の行為があるのならば、それは全て罪で罰が与えられるべきだと思う。そうやってずっと自分を律してきた。後悔するのは自分の無恥ゆえだと、理を知るのは義務であると。しかしこの時ばかりはその考えを捨てたくなった。


 知らなかった。だから今まで出来ていた。

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