1--2 カモメ
主人公は闇に落ちっぱなしなので、モブたちが頑張ります。
「ミーくん! ミーくんッ!!」
どろりとした不快な手触りの中に両手を突っ込み押さえつけた。何故そんなことをしたのかカモメ自身にもわからない。おそらく止まると思ったのだ、押さえていれば。亀裂が走って水漏れを起こしている排水管のように、押さえていればそのうち止まるような気がしたのだ、何の根拠もなく。
だがカモメの浅はかな予感はものの見事に外れた。夫の流血は全く止まる気配がない。夜の中でもさらに黒く、夫の腹から下が染まっていくのが目視出来た。酷い出血量だった。カモメが気付かなかっただけで、砂の上に横たわった夫の背部は既に全面濡れていた。
娘が泣いている。自分だって泣いている。唯一泣かない夫は涙以外のもので濡れている。
いつだろう。考えても仕方のないことなのにそんな後悔ばかり押し寄せる。夫はいつの間にこんな怪我をしていたのだろう。投降すべきだったのだろうか。そうすれば夫はこんなに苦しまなかったのだろうか。だがワシが欲したのは女だけだった。自分と娘は迎え入れられただろう。でも夫は? やはり逃げるしかなかっただろうか。もうわからない。
父を見捨てた。仲間を見捨てた。戻って来ない母を待たずに伸ばされた手を振り切って、娘を抱いて走る夫の背中をひたすら追って走った。
ネコの駅に先ず向かった。近かったし。ヤマネコがいるし。他所の駅の状況など考える余裕もなかったから自分たちの身の安全を確保してもらうことだけを願って駅を目指した。だからネコの駅の方が自分の駅よりも先に襲撃されているなんて考えもしなかった。あんな惨状、想像しようとしても出来なかっただろう。自分の知識の中には無い有様だった。ヤマネコの身を案じた。案じたところでどうしようもなかった。生きている者には会えなかったから尋ねようもなかった。
線路が無かった。無くなっていた。理由なんてわからないでも無い! 無い、いない、誰もいない! 追って来るワシ以外に動いている者が何も。
途中、夫に娘を託された。少しの間だけ隠れてて。すぐ戻るからね、メーちゃん、ウミ。夫はいつもの調子でそういうと突然どこかに走っていった。気が触れてしまったのかと思った。というよりも自分が多分、触れていた。隠れていてと言われたのに大声で泣いていた。怖がっていた娘が余計に怖がってしがみ付いて来て、カモメは娘をしがみ付くようにして抱きしめて泣いた。一日にも半月にも思えるほど長い間そうしていたが、その間ずっと夜だったことを考えるとおそらくほんの数分のことだったのかもしれない。それでも夫がいなかったその時間はカモメにとっては恐怖という言葉では足りないほどのおぞましい時間だった。
戻ってきた夫に、娘を放り出して抱きついた。夫は自分を抱えながら反対の手で娘を抱き寄せた。しばらくゆっくりできるよ、落ち着こう、ね? メーちゃん。そう言った夫はワシの武器を持っていた。
夫の言った通りずっと背後に感じていたワシの追手の姿はなくなり、カモメたちは数日ぶりに走ることから解放された。正確に言えば昼間は日陰で仮眠を取ったし、あちらも太陽の下では動かないから連続して走っていたのは夜間の数時間に過ぎない。けれどもカモメにとっては駅を出てからこの方、延々走り続けているつもりでいた。だから走らなくていいと言われてその通りになった時、気が緩んだことは確かだ。その間に何かがあったのかもしれない。自分が見ていなかった間に何かが。娘に呼ばれて振り返った時には、夫は砂の上で蹲っていた。
「ミーくんやだあ…、どうして、どうしよう、止まらないの、ねえ、ミーくん」
どうしよう、どうしよう、どうしよう。擦り傷程度ならカモメだって手当てくらいできる。だが規模が違い過ぎる。こんな血の量、見たことが無い。どうするの? どうしよう。誰か。お母さん…
父の往診に来ていたヘビの背中を思い出した。広い背中で父の上着を開いて。
カモメは両手を血だまりの中から引き抜いた。そうだ。まず見なきゃ。診てから考えて、
「か、かくにん…」
カモメは夫の上着を引き裂いた。だくだくと流れる血液のその発生元が視界に飛び込んできて呼吸も思考も動作も止まった。
涙目で夫の顔を見る。夫は喉に笛でもつけたみたいに変な音の息を吐きながら自分を見上げていた。
突然、手首を掴まれた。びくりとして見下ろした先では夫が自らの血に滑りながらもカモメの手を取ろうとしていた。反対の腕が痙攣している。もう自力で持ち上げることも出来ないのだろう。カモメは割いた着衣を手繰り寄せ、贈答品でも包むみたいにそっと優しく丁寧に、夫の体を包み隠した。
「これもつの?」
もはや夫の意図とは無関係な震動しかしていない腕を擦る。その先の手に握られていたワシの武器が、かたかたと音を立てて何度か地面から離れる。
「わたし? わたしがもてばいいの?」
夫の頬が片方、激しく痙攣した。赤い縁取りの白い歯が見えた。
「うん、わかった。わかったよ、はい」
夫の指を開かせてワシの武器を手に取る。思った以上に重たくて、カモメはつんのめり、夫に覆いかぶさりそうになる。四つん這いに似た格好になってようやくワシの武器を持ち上げ、両手で握って胸の前まで持ってきた。
「これでいい?」
夫は呼びかけに応えない。白目を剥いていることすら辛そうだ。
「ミーくん、」
娘が泣いている。傍にくればいいのに変わり果てた父の姿に恐れをなして、自分の後ろで泣いている。
「ありがと」
なんだかおかしくなってきて、カモメは短く高い声を発した。
夫も笑った。そんな姿になってまで。
「やだもう、みーくんてばあ」
言いながら涙が溢れてきた。涙と鼻水が口の中に入ってきて、塩辛い唾液を啜りあげて飲み込む。
「ごめんね」
辛うじてそれだけ伝えて、カモメはワシの武器を抱いたまま夫の胸に突っ伏した。どろっとした粘着質な液体が顔を覆って、服を伝って全身で夫に包まれた。
「ミーくん」
このまま夫に包まれて、夕暮れまで一緒に眠っていたい。
「ミーくん」
夫の匂いがする。温かくて気持ちいい。いつもよりも少しどろっとしているけど。汗かいちゃったかな。くっつきすぎた? ずっとくっついていたかった。
「ミサゴくん…」
「おかあさあん!」
カモメは起き上がった。頭から夫の血に濡れ、髪の毛からそれが滴り、背中以外の全ての部分がどろどろに汚れている。
「お母さん…」
振り返った母の姿に娘は声を失い、瞬きもしないで口を開けたまま後ずさりした。
「行こう、ウミちゃん」
カモメは娘に手を差し出して笑顔を向けた。動かない娘の手を無理矢理掴んで引き寄せ、膝を伸ばした。
「走るよ、ウミちゃん。朝までもう少しだからね。朝になったら休めるからね」
娘の手を引き走りながら言い聞かせる。
「お父さん…」
「お父さんはね、ねんねなの。ね、ねんねなのお…」
「お父さん…」
「ウミちゃんはお母さんとね、一緒、ね?」
「お父さん…」
「ウミぃ!」
カモメの裏返った叫び声に娘はびくりと全身を震わせてその場に立ち止まる。驚いた、怯えた目を見開いてカモメを見つめる。
「行くの! いい? 走るの! ね? お母さんの言うこと聞いて…聞きなさい! わかった?!」
細い腕を両手で握りしめ、必死にその幼い顔に向かって諭し続けた。始め驚いて目を見開いていた娘は、しかし徐々に顔を歪め、首を横に振った。
「おとうさん…」
「お父さんじゃないの。お父さんもう走れないの。今度はウミちゃんが走るの。お母さんと一緒に走るの!」
今ではすっかり恐怖しか見せなくなったその顔が次の言葉を発する前に、カモメは娘の手をきつく握って、夫に背を向け駆け出した。
カモメは走った。ひたすら走った。夫の血にまみれた両手で娘を抱きかかえ、ただただ走った。
背中に光を感じた。走りながら振り返る。太陽。ああ、朝。夜が終わる。もう少し。
カモメは立ち止まった。今ではすっかり何も言わなくなった娘をさらにきつく抱きしめる。夫に託されたワシの武器が接続部分でかたかたと音を鳴らす。
かわたれの空と地平線の間に蠢く影が見えた。追ってきた。まだついてきた。
カモメは後ろ向きのまま踵から踏み出す。後ずさりは遅い。方向転換。走る。走る。走れ速く。
どこまで追ってくるのか。あまりにしつこい。何が目的…私とこの子? 娘を見下ろす。小さくなって目を瞑り、怯えながらも自分にしがみついている。カモメはその後頭部を手の平で握らんばかりに引き寄せた。
朝日とワシが背後から迫る。奴らもこちらに気付いただろうか。砂の隆起を縫うように、男たちの視線から外れることを祈りながらカモメは身を隠せる場所を探した。
「お母さん…」
「馬鹿ッ!」
思わず言ってしまったその言葉に娘は困惑する。しかし弁解も説明もする余地もなく、
「いたぞ!」
案の定見つかった。
腰を屈めていたカモメは身を隠すことよりも逃げることを選ぶ。ぐずぐすと動きの悪い娘の手を力づくで引いて砂の上を走った。抱きあげて走る体力は残っていなかった。
娘が遅い。荷物が重い。しかしどちらも手放すわけにはいかない。夫が命と引き換えに掴んできた武器とわたしの娘。どっちも渡さない、絶対。ぜったい。
明るみ始めた視界の中で、ひと際煌々と光を放つ何かを見つけた。あんな明かり見たことない。物凄い電力の明るさだ。どこかの駅だろうか。知り合いはいるだろうか。匿ってもらえるだろうか。それよりも生きている者がいるだろうか。
わずかな望みを賭けてカモメは光を目指した。助けてお願い、中に入れて。あいつらから匿って。まだ子どもなの、あんな奴らに渡す訳にはいかな…
立ち止まる。青い部分も見え始めた空の下であらわになったそれは、
「夜汽車……」
腰から砕けて砂の上に膝をついた。闇雲に逃げていた。ただワシから逃れることを考えてどこに向かっているかを失念していた。まさか本線まで来ていたとは。
カモメの心情をまるで無視して、夜汽車は呑気に本線上の駅で荷積みをしていた。機械が淡々と水やら何やらを車内に運んでいる。
「お母さん…」
娘に呼ばれてカモメは顔を上げた。娘は泣き腫らした目からさらに涙を流しながら、後方と自分を見比べている。こんな小さな子でも追跡者たちの危険を察知しているのか。
「ウミちゃん…」
カモメは膝をついたまま娘を抱き寄せた。夫が死んでから自分を恐怖の視線でしか見上げて来なかった娘が、自分を呼びながら背中に腕を回してきた。
「ウミちゃん、ごめんね」
小さな体の確かな体温をカモメはさらに抱きしめる。
「お母さんとずっと一緒って言ったけど、ここからはウミちゃんだけみたい」
娘は理解していない。
「ウミちゃん、これから大きい乗り物、ウミちゃんだけで乗ってこれる? 乗ってね」
「お母さんは?」
「お母さん乗れないの。ごめんね」
「やだ」
「うん」
カモメは鼻で返事をして娘をきつく抱きしめる。
「ねえウミちゃん、一つだけお母さんのお願い聞いてくれる?」
娘の泣き顔に見つめられる。カモメはその頬を手の平で包み込む。
「ウミちゃんが大きくなって、お父さんみたいに強い子になって、おばあちゃんみたいに元気で、ヤマちゃんみたいにきれいになって、おじいちゃんみたいに優しくなったら、降りて? 夜汽車。お願い。絶対に降りてね」
追手が迫る。娘が泣く。理解しているだろうか。願うしかない。
「大丈夫。ウミちゃんは大丈夫。だってお父さんの子だもん。お母さんの自慢の大好きな天才児だもん」
娘が泣き続ける。自分の声を遠ざけるように。聞きたくないことを聞くまいとするように。
「だいじょうぶ。お母さん、ちゃんとウミちゃんのそばにいるから。ずっとウミちゃんのそばにいるから」
言い聞かせてカモメは立ち上がった。娘の手を引き駅を目指す。
積み荷を滑り込ませるように車内に送り込む機械をなぎ倒し押し退けた。駅から夜汽車からけたたましい機械音が鳴り響く。閉じ始めた夜汽車の扉に慌てて半身を押しこみ、全身で機械の力と対峙した。
「ウミ!!」
娘に手を差し伸べる。娘は何も理解していない。怯えて首を横に振る。嫌がる娘の腕を無理矢理引き寄せた。背中に痛みが走る。膝と脛で扉の縁を押さえつける。肘で何かを割る。
細い腕で必死に抵抗する娘を夜汽車に乗せようとした。娘は不協和音のような声を上げて泣き叫ぶ。さわがないで、しずかにして、自分でも驚くほどの割れた声が喉を痛めた。ワシが来る。娘が暴れる。カモメは叫ぶ。時間が無い。
カモメは娘の頬を平手でぶった。驚いて自分を見つめる娘を抱き寄せ、自分の胸に娘の顔を押しつけて持てる力で抱きしめた。
「生きなさい。ね?」
娘を夜汽車の車内に捻じ込んだ。同時に自身は車外に落ちる。扉を完全に閉じると夜汽車は娘を乗せて逃げるように走り去った。
頭の上で足音がした。駅の床に手をついたまま顔を上げると、息を切らせた男が立っていた。
「どんだけ走んだよ」
若い男が気管を鳴らしながら膝に手を置き、荒い呼吸を整えながら背後を振り返って線路の先を見遣った。へっ、と一息大きく吐き出すと、カモメを見下ろしてにやりと笑った。
「いかれてんな、あんた」
カモメは立ち上がった。夫に託されたワシの武器を引き抜く。両手で振りあげ叫びながら男に振り下ろそうとした。
すっかり明るくなった空の下で一瞬の閃光と乾いた音が響いた。額と後頭部を貫通させてカモメは背中から落ちた。
* * * *
「お前、何、撃ってんの? 女だろが。女と子どもは殺すなって『ぼっちゃん』に言われたんじゃなかったのかよ」
ヒゲワシが呆れ声を上げながら屈みこみ、女の死体を覗きこんだ。ノスリは煙草に火を点け、煙をくゆらす。
「絶対とは言われてないし言われてたってばれないだろ。あと、『お頭』な。それと敬語! はい」
ノスリは火の点いた煙草をヒゲワシに向けながら説教した。ヒゲワシは面倒臭そうに横を向いて息を吐き、「どうして撃っちゃったんですかあ、ノスリさん」と言い直した。ノスリは嬉しそうににっこりと白い歯を見せる。
「気持ち悪かったんだもん、この女。血みどろで汚いし。自分の子ども夜汽車に乗せるとか狂気の沙汰だろ」
「そこまで追い詰めたのはどこの誰っすかねえ」
同じく煙草を吸いながらハゲワシがぼやいた。不味そうに煙を吐いては片手で追い払っている。
「だって面白かったろ? めちゃくちゃ逃げられたらとことん追い回したくならね?」
「悪趣味」ハゲワシがぼやいた。
「散々追い回しといて追い詰めたら殺すって何なの?」
ヒゲワシが言ってから「何なんすか」と言い直す。
ノスリは肺一杯に煙草を吸うと、上手そうに煙を吐きだした。
「試し撃ち?」
小首を傾げてノスリは笑う。
「下衆野郎」とハゲワシ。
「にしてもすげえなこれ」
ノスリは小銃を両手で掲げて、新しいおもちゃを与えられた子どものような目で見つめた。
「まじ一発だわ。さすがだ」
「俺は刀の方が好きっすけどね」
ヒゲワシは言う。「『やった』って感じあるしちゃんと相手と向きあわないと斬れないけど、これはなんつうか、感覚が残らない」
「当たった時に『やった!』って思えばいいだろ?」言ったノスリに、
「単純」ハゲワシがぼやく。
「おい、ハゲも敬語使えよ? 俺、お前らの上司なんだからな?」
ノスリが得意気に言って、ハゲワシとヒゲワシは目を見合わせた。
「せっかく女にありつけたと思ったのに」
言いながらヒゲワシが女の死体の傍らに気付く。
「いいよ、やってこいよ」
ノスリがヒゲワシに勧める。ヒゲワシは気持ち悪いものを見る目でノスリを睨み上げ、
「結構ですぅ。生きてる女がほしかったんですう!」
唇を尖らせて言ってから、手を伸ばして太刀を拾い上げた。
「これ、イヌワシさんのじゃないっすか?」
ヒゲワシはすっかり敬語になっている。ノスリが首を伸ばして覗き込む。
「ほら、さっきイヌワシさん言ってたじゃないすか。『男にやられた! 太刀とられたあ!』って」
親子を追いかけている時にイヌワシが反撃を受けた。ぎゃあぎゃあとうるさいから置いてきたのだ。
「ああ、俺が当てた奴?」
ノスリはまだ長い煙草を投げ捨て、靴先で踏み消しながら言う。
「外しただろ」とハゲワシ。
「当たっただろ! 三発目で」ノスリがむきになって言い返す。
「まあ見つかって良かったってことで」
ヒゲワシは太刀を鞘に戻しながら立ち上がった。
「あの嬢ちゃんは惜しかったなあ」
ハゲワシが煙草の火を靴裏で消しながら呟いた。ノスリとヒゲワシは驚いた目でハゲワシを見る。視線に気付いたハゲワシは顔をあげ、「若い方がいいに決まってんだろ」と言った。
「お前、そっちか」
「あ~…うん。……はい」
ノスリとヒゲワシが同時に身を引いた。「なんだよ」とハゲワシは不服そうだ。
「ならノスリ…さんはどんなのが良かったんだすか」
同輩に敬語を使うことに抵抗感を隠せないハゲワシは、思いっきり言い間違えた。しかしノスリは気に留めないで問われたことを考える。
「馬鹿じゃない女と女々しくない男?」
「それ該当者いるのかよ」
ハゲワシのぼやきにノスリは大口を開けて笑った。




