1--11 報復
「サシバ!」
クマタカは叫びながら階段を駆け上がった。サシバはまだヨタカを送り届けてはおらず、通路の中央で振り返った。傍らには眉根を寄せたヨタカ。
「男どもを集めろ。全員帯刀、揃い次第電車を出せ。目的地は『研究所』!」
「今、か?」
サシバが珍しく難色を示した。
「今だ! 俺は先に行く。早くしろ!」
ヨタカがサシバとクマタカを不安そうに見比べた。
こんな時に限って地上は大荒れの吹雪だった。保護眼鏡をかけても白しか見えない。四輪駆動車に飛び乗る。接触の悪い音を立てながら原動機が動き出す。調子がいつもと違ってクマタカは焦った。電池の残量を見て理由を悟る。ヨタカッ! 操縦梱を握りしめる手が震えた。
四輪は途中で乗り捨てた。足を取られながら雪原を走る。歯茎に猛烈な風が当たる。鼻孔に氷の粒が刺さる。しかし寒さは感じない。頭の中心が熱くて、暑くて、感覚が麻痺している。
風の唸り声の中に子どもの泣き声を聞いた。玄関の扉は開きっぱなしで胸騒ぎが風よりもうるさく響く。動揺と焦燥に奥歯が鳴る。
「マキさん!」
叫びながら駆け込んだクマタカの目に入ってきたのは、床に散乱した小銃に届かぬ手を伸ばしたまま床に伏したイヌマキだった。傍らで泣き叫ぶコウヤマキと、クマタカを見上げて鼻を鳴らす血まみれのワン。
「マキさん!!」
うつ伏せだったイヌマキを抱え上げて仰向けにする。息は既に。
「マキさッ!!」
言うより早くイヌマキの胸の中央に両手を置き、全体重を乗せて渾身の力で叩き始めた。イヌマキの体はクマタカの力に呼応して水を満たしたずだ袋のようにふるふる揺れる。
「マキさん!」
揺れる。揺れる。
「マキさん!! 起きて。駄目ですって、だめだ」
揺れる。揺れる。揺れる。揺れて…
「マキさん!」
嫌だ。
「お父ざ…」
嫌だ。嫌だ。嘘だ。嫌だ。
「マキさん!!」
「おどうざあん」
どんなに呼んでもイヌマキの体は揺れるだけだった。やがて鈍い音がして胸郭が陥没した。クマタカは手を止める。それでもイヌマキは目覚めない。これ以上どうすれば……。
クマタカは腰を下ろした。
―呆れた?―
マキさん。
―俺こそ、その…、ごめん―
―さすがだ、クマタカ君―
マキさん、マキさん、
―親友からの頼みだ。何が何でも聞かないとね―
―俺はあいつが喜んでくれるならそれでいいんだ―
床に手をつく。握り拳が筋張る。震える。目から鼻から、顔中の穴という穴全てからとめどなく液体を垂れ流し、頭を抱えて咆哮した。
ワンが後足を引きずりながら寄って来た。鼻を鳴らし、痛々しい声でクマタカを呼ぶ。クマタカは我に帰り、ワンとコウヤマキに振り返った。ワンの潤んだ目を見下ろす。コウヤマキはひきつけを起こさんばかりに泣き叫ぶ。硬直したコウヤマキの腕を引き寄せ、小さな体を抱きしめた。
「おどうさん、おとうさん? お、さ、うさ…、ああ…」
「落ち着け、コウ。落ち着け、頼むから」
「おに…おに…ぃぢゃ…?」
「コウ、そうだ、息しろゆっくり。ゆっくりだ。できるか?」
「おとうざん? おどう…」
「うん、うん、ごめん。ごめんな、コウ。ごめん」
「おとう…、う゛う…」
ごめん。
コウヤマキの呼吸の速度が落ちてきた。固まっていた腕を震わせながら持ち上げ、クマタカの上着を掴もうとする。しかし強張った指は布地を上手く挟めない。
固まった手指をさすってやろうとクマタカは一旦、コウヤマキを引き離した。しかしそこで気付く。
「コウ、これ…」
コウヤマキの左手の小指は第一関節から上が切り落とされていた。
「おとうさ…あ…、おにいちゃ…」
クマタカは握りしめることすらできない小さな手を両手で覆い、膝間づいて頭を下げた。食いしばり過ぎた奥歯が割れそうなほどの音を鳴らす。謝ることすら叶わない。
クマタカは頭を上げ周囲を見回した。何か手当てできる物。何も無いのか? そもそもどうすればいい? ヘビは? ヘビのあいつもいたはずなのに、こんな幼い子どもが傷ついているのに手当てさえしようとしなかったのか? ワンと目が合い、その体に絶句する。
「ワン、お前…」
ワンは血まみれの胴部を床に落としたまま、前足だけでクマタカの方に近寄って来る。食いしばる歯と対照的に止められない涙が溢れ出た。
コウヤマキとワンを両手で抱きしめた。何度も謝りながら、頭を撫で下ろしながら、何も出来ない自分を殺したいほどの怒りを荒い呼吸で抑えこみながら、何があったのかを子どもたちに尋ねる。
「おなが出たおにいちゃん、かみないの、入ってぎでおどうさ…」
ヒキガエルがまず来たらしい。交渉など端からする気もなかったのだろう。
「ワン、がんばったの。でも、いたいいたいで…」
「えらかったな、ワン。がんばったな」
ワンが鼻を鳴らす。
「おかあさん、おこ…」
「奥さんは?」
はっとして室内を見回した。シャクナゲの姿も気配もない。
「コウ、お母さんはどこに」
「いっちゃった」
ワンが扉の外を見遣った。
「『行っちゃった』?」
「うん」
連れていかれた?
「どこ? おかあさ…」
逆にコウヤマキに尋ねられてクマタカは焦点を失う。
「おにいちゃん?」
クマタカは勢いよく立ちあがった。しかし子どもたちを思い出して再び膝を曲げる。どうする? どっちだ。どっちも! しかし……
コウヤマキとワンを両腕に抱きあげた。胴部を痛めているワンが悲鳴を上げる。骨折もあるかもしれない。だが時間がない。クマタカはコウヤマキの疑問とワンの拒絶を無視して地階へと駆け降りた。
植物たちのいる部屋に駆けこむ。地下は踏み荒らされた様子はなく、植物たちは主がいなくなったことにも気付かないで普段通りに青々とした葉を生い茂らせていた。
「ワン、コウ、お前らしばらくここに隠れてろ。いいな?」
「おにいちゃんは?」
「すぐ戻るから待ってろ。すぐ戻るから」
ワンが心細そうに何度も鼻を鳴らす。
「やだあ。おにいちゃん、や…」
コウが再び泣き出した。
クマタカは焦る。こいつらを置いていくのは忍びない。でも連れてもいけない。それに急がねば早く。
「お母さん連れて来るから!」
クマタカの大声に子どもたちが静まった。
「お母さん迎えに行ってくる。ワンは怪我してて走れないだろ? コウも手、痛いいたいだろ? だからお兄ちゃんが走ってお母さん迎えに行ってくるから」
「ほんとう?」
「嘘つく意味無いだろ。心配すんな、すぐ戻るから」
疑心暗鬼の子どもたちを言い含めてクマタカは植物室の扉を閉じた。
全速力で階段を駆け上がる。念のために家族の寝室を覗くもやはりシャクナゲの姿はない。拳を握りしめて部屋を後にし、居間に至る。先は気付かなかったが居間は滅茶苦茶だった。シャクナゲが茶を淹れてくれた食卓はひっくり返り、都合が悪くなるとワンが逃げ込んだ長椅子は脚が折れていた。戸棚は倒され、観葉植物は見るも無残に、壁も床も天井も、どこもかしこも汚れている。何もかもが普段と違うのにイヌマキの姿だけは先のままそこにあって、クマタカは目を瞑って俯いた。踏み出した靴先が何かを蹴って細く視界を開く。
―使い方は簡単だ。ここに指を入れて引き金を引けばいい。大抵は一発で済む―
ネズミの武器。
―頼ることは大事だよ―
イヌマキの固まりかけた瞼をそっと閉じる。
「お借りします」
返事をしないイヌマキに断わって小銃を持ちだした。
イヌマキの電車を最高速度で走らせる。ヒキガエルのことだ。自分の駅まで持ち帰ってゆっくりシャクナゲを嬲るつもりだろう。あの胃袋を掻きまわされるような厭らしい下劣な視線が思い浮かぶ。コウの指を、ワンの腹を、イヌマキを。怒りに拳が震えた。
見えてきた。白の景色の中に黒い車体の電車。連結した二両編成の両方に幌をかけている。走行中に横からネズミに襲われれば壊滅的だとも知らずに。しかし襲撃は横からばかりとは限らない。
クマタカは小銃を握りしめた。電車の速度を徐々に落とす。近づいて来る幌の中からこちらに気づいて振り返る顔。カメとイモリとヒキガエル。他はカエルの取り巻きたちか。一番奥にはシャクナゲ。
驚く顔を睨みつけたまま電車は衝突した。連なった縁に足をかけ、クマタカは幌の内に跳び込む。衝撃によろめいた男たちは一瞬の遅れを取りつつも、殺気を撒き散らす侵入者を敵と見なし、一斉にクマタカに向かって踏みこんできた。クマタカは腰を落とし腹の前で右手を開いた。下らない年長者よりも仕事は出来る。多分、三倍くらい。
抜刀と共に正面に来た男を斬る。盛大な声を上げて離れた体の一部に手を伸ばす男の腕をさらに切り落とし、それを車両の外に蹴り飛ばした。自分の体の一部を追おうとした男の喉笛を鞘で突く。左右から示し合わせたように突進してきた二体をいなし、それぞれの脛と手首を切断した。騒音の発生源の横腹を叩き折り、ちょこまかと煩わしい影を後ろ手に斬り捨てた。踵でうるさい頭を踏みつけ沈める。吐血し耳鼻からも出血して足下の者は動きを止めた。その間にも別の男が膝をついて頭から倒れ落ちた。倒れた男からじわじわと血溜まりが広がっていく。
血溜まりを踏み散らしてクマタカはさらに進んだ。イモリが何事かを喚いていたが次の瞬間には黙らせた。カメの爺が突進してきた。構えたクマタカの脇をすり抜け背後に回って振り被る。見え透いた陽動。左手の鞘で横腹を殴打し振り向きざまに右手を振り下ろす。
「来るな!」
ヒキガエルの悲鳴にクマタカは振り返る。見るとシャクナゲを盾に鎌を振りまわしている。
「来るな! 来るな言うとろう!」
クマタカは黙って太刀と鞘を床に放る。一瞬、怪訝な顔をしたヒキガエルはしかし、すぐにまた動揺に頭を振りながら後ずさりし始めた。
「来るなちゅうが聞こえんのけ!」
ついに鎌を振りあげる。脇が空いた。
―ここに指を入れて引き金を引けばいい―
肩にかけていた小銃を構える。言われた通りに引き金を引く。破裂音と想像よりも軽い衝撃に前に半歩踏み出す。こんなものか、と銃身をちらりと見下ろしてからヒキガエルに視線を戻す。肩を押さえて蹲っている。狙った的に当たるかどうかは操縦者の腕次第か。クマタカは小銃を構えたままヒキガエルの正面まで来た。肩をおさえたヒキガエルが見上げて来る。
「ちょ…待ちまっし、ワシの…」
銃口を押し当てた。この距離ならば外さないだろう。引き金を引いた。
両目を瞑ったままヒキガエルが小刻みに震えて固まっている。乾いた音が繰り返される。どうやら一発ずつしか撃てないらしい。クマタカは歯噛みすると小銃を肩にかけ直し背中に回した。ヒキガエルが恐る恐る目を開け、安堵の息を漏らそうとしたその喉元を握りしめる。眼球をひん剥いた汚い顔で腕を掴んでくる。ぶくぶくとした手が煩わしくて股の間の目障りな膨らみを踏み潰した。クマタカはヒキガエルの喉を掴む腕をさらに持ち上げる。大きな体がゆっくりと立ち上がり、固まったように折り曲げられていた膝が伸びて、やがて爪先が床面を探し始めた。クマタカはヒキガエルの喉を握る指先に力を込めた。
果てた巨体から手を離した。小汚い悪臭の元が床に落ちる。クマタカは振り返り、腰を抜かして瞬きを忘れているシャクナゲに歩み寄った。そっと声をかける。シャクナゲは全身をびくりと揺すって恐々顔を上げ、恐怖に震えた目でクマタカを見た。
「大丈夫ですか」
「クマタカ…く…?」
ひび割れた唇を微かに動かしたあとで視線を落とす。その場から動こうとしない。
「行きましょう」
ワンたちが待っている。
「なんで?」
クマタカは眉根を顰める。シャクナゲが涙目を向けてきて、少しだけ動揺する。
「なんでこんなことするの?」
「『こんなこと』?」
「殺すことないじゃないッ!!」
いまだかつて聞いたことのない女の悲鳴だった。
シャクナゲは叫ぶと、涙腺を決壊させた。大声を上げて顔中を濡らして子どものように泣きじゃくる。よく知った女の、全く知らない顔と激情にクマタカは言葉を失う。
「なんで? なんでこんなこと…。ひどいクマタカ君! こんなことをあんな…」
「殺してません」
そんなことしない。
シャクナゲが目を丸くして顔を上げる。クマタカの目を見て周囲の男たちを見回し、横たわり、蹲るも微かにうめき声が漏れ出ているのを聞く。
「でも…、でもこんな…」
「奥さんを助けるためです」
シャクナゲが息を飲んだ。
「こいつらがワンとコウにしたことに比べればまだ温いくらいです。マキさんの仇です。当然の報いだ。これだって!」
クマタカは肩にかけていた小銃を正面に回した。
「これだってマキさんの形見だ。マキさんだって同じようにしたはずだ」
「かた…み?」
子どもの目でシャクナゲが尋ねてきた。
「マキのなに? マキ、どうしたの? ねえ、ねえマキはあ!?」
クマタカは唇を閉じた。
「ねえ何? 何なの? マキ、マキが何よ!」
「…行きましょう」
「ちゃんと答えなさいよ!」
「奥さん…」
「ねえってばぁ!!」
「ワンとコウが待ってます」
クマタカの一言に少女の絶叫がぴたりと止む。
「コウちゃん…?」
「ワンもです」
「コウちゃん……」
完全に幼児化したシャクナゲがうわ言のように繰り返す。コウヤマキの名前だけを。
「行きましょう」
クマタカはシャクナゲを励まし、電車を降りようとした。転がる遺体を跨いで踏み越し、電車を停める。完全に停車させてからシャクナゲの肩を抱いて立ちあがらせ、降車台まで連れていった。先に地面に降りたクマタカが手を貸そうと差し出すが、泣き疲れてどんよりと濁ったシャクナゲの目は虚ろにどこかを見つめている。
「奥さん、」
「やっぱりあなたも地下なのね」
シャクナゲはそう呟いてからはっとして、ようやく我に返ったようだった。クマタカの顔を見つめて首を横に振る。「ごめんなさい」と小さく詫びて口元を手で覆う。
「ごめんなさい、クマタカ君は…」
そう言ったきり、その顔が色をなくして倒れてきた。クマタカは反射的に抱きとめる。
「…奥さん?」
返事がない。
「奥さん?」
クマタカの呼びかけに呼応するように、無反応な体がふるふる揺れる。その理由をクマタカは遅ればせながらようやく気付く。
「シャクナゲ…さん?」
背中にはあり得ないところからあり得ないものが生えていた。
ほの暗い幌の中の、死に損ないがにやりと笑った。