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1--14 約束

 ヒキガエルの繰りかえされる要望にひたすら頭を下げた。父の不正を知ってしまった以上、息子として詫びるしかなかった。カエルだけでなく、他の全ての駅頭(えきがしら)に真実を言って謝罪したかった。しかし死者を愚弄することは出来ない。弁解出来ぬ者を一方的に責め立てることは出来ない。父の不名誉を広めたくない。散々悩んだ挙げ句にクマタカがとった行動は、口を噤んで頭を下げることだった。


 そのまま押し切られる形でカエルへの分配率は引き上げられた。当然セッカは不機嫌だった。あれほど言ったのに、お前の低姿勢が付け入れられたのだ、調整はお前がしろ、うちは分配率を下げないからな、自分の落ち度だ、自分で(けつ)を持て…。


 後見とは名ばかりの苦情男の小言にも何も言い返せなかった。

 誰にも言えない父の罪は、父が守ろうとした自駅の仲間たちの負担として返ってきた。カエルへの分配率を引き上げた分、ワシの駅の取り分を減らすしかなく、当然部下たちの不平不満は相当なものだった。男たちだけでなく女、子どもに至るまで、しわ寄せを食らったワシたちは不甲斐ない(かしら)の交渉術の低さに閉口した。


 だがしかし、ではならばどうすれば良かったのだろう。どうすべきだったというのか。このまま父に倣って不正を続け、他所の駅を犠牲にして自分たちの取り分だけを確保し続けるべきだったとでも言うのか。全てを告白すれば良かったのか。全てを打ち明けた上で、あの高齢者たちに知恵を出すよう嘆願すべきだったのだろうか。しかし彼らがそこまで物を考えられるようには見えない。与えられたものを当然の権利として貪るだけの連中が、与える側の苦労や努力を理解出来るとは思えない。だから父は黙っていたのか。誰にも言わずに不正を続け、いずれはその罪ごと自分に継がせるつもりだったのだろうか。継げただろうか。例え父の口から父の罪を告げられたとして、自分はその罪を受け入れられただろうか。


「これは少し時間がかかりそうだ」


 イヌマキが額の汗を拭いながら腰を伸ばした。前方を大きく開口した四輪駆動車の車体に手を置いて鼻の奥で唸っている。クマタカはぼんやりと声の方に顔を向けた。


「すぐ直せると思ったんだけどね。さすがにがたがきてる。原動機ごと交換した方がいいかもしれない」


「すみません」


「いや、もう結構長いこと乗ってるだろう? 当然と言えば当然だよ。むしろもっと早く点検するべきだったんだけど、最近クマタカ君は忙しかったからさ。来てくれてもすぐ帰っちゃうからなかなか見る時間がなかったし」


「すみません」


「いや、だからこれは機械がいい加減古くなってきてて…」


「すみません」


 イヌマキが黙りこんだ。クマタカは顔を上げる。情けない顔が眉間に皺を寄せてこちらをじっと見ていた。


「どうしました?」


「いや……」


 イヌマキが厚手の手袋を脱ぎすてて作業台に腰をかけた。項垂れて丸めた背中が拗ねた子どものようだ。


「マキさん?」


「俺さ、」


 拗ねた背中が語り始めた。「クマタカ君のお父さんがここに来て叱られた時、すっごい怖かったんだよね」


 クマタカは唇を結ぶ。


「クマタカ君のお父さんは淡々と話してただけだったけど、雰囲気というか威圧感が半端なくてさ、ああ、もうこれ、二度とクマタカ君には会わせてもらえないなぁって思ったんだ」


「その節は失礼しました」


 シャクナゲとの約束もうやむやになったままだ。


「いや、あれはきっと俺が悪かったし」と言ってイヌマキは頬を掻いた。「あの時は酔ってたって言うのは言い訳だけど酒の勢いで好き勝手喋るのはまずかったなって反省してるよ」


 確かに互いに酔っていた。酔った勢いで感情のままに議論を交わした。


「でもその後にシャクナゲがクマタカ君を追い返そうとした時、言ってくれただろう?」


 何を言っただろうか。あまり覚えていない。


「俺たちが亡命先にワシの駅を選んだことが嬉しいって」


―俺は奥さんが亡命先として選んでくれたのがうちだったことに感謝してます―


 言った。思い出した。確かに言ってしまった、そんな小っ恥ずかしいことを。


「あれは! あ…いや、あの…、そんな深い意味はなく…」


「嬉しかったんだ、すごく」


 クマタカの赤面と動揺に気づかずにイヌマキは思い出し笑いでもするように言った。その横顔が本当に嬉しそうで、クマタカは口を閉じる。


「そんな風に思ってくれてたんだって思うと、何ていうのかな、ありがたい? っていうか、嬉しいのはこっちだよって。こんなに自分の考えを本気で話せたのも本気で返してくれたのも君が初めてだったから、ついつい楽しくて喋っちゃったけど、それでも君は白けたり馬鹿にしたりしないでちゃんと同じ目線で話してくれたし。でも実際は俺だけが盛り上がっちゃって嫌がられてお父さんが止めに来たのかなって思ったところであの台詞だ。クマタカ君は俺のこと煙たがってたわけじゃなかったんだなって。あれ? 俺、勘違いしてる?」


 独白が突然問いかけになったから、クマタカは即座に返せなかった。言い淀んだクマタカを見つめていたイヌマキは再び項垂れ、床に向かって呟くように言う。


「俺は君と話すのが楽しいよ」


 まるで告白のような言い方だ。

 

「君と夕方まで議論するのは面白いし、いらいらすることもあるけどまたそんな日が持てればいいなって思う。今君はすごく忙しくて俺たちは負担でしかなくなってるかもしれないけど…」


「そんなことありません」


 それはない。絶対。


 クマタカの否定に情けなく微笑んで、イヌマキは続ける。


「ここに来る時間を割くのも大変な時かもしれないけど、でも出来ればまた一緒に飲みたい」


 自分の思いと願望をあげつらねて気が晴れたのか、イヌマキは天井を見上げて息を吐いた。それからあごをあげたまま、目線だけをクマタカに寄越し、「で?」と言った。


「え?」


「で、俺のやりたいことは言ったけどクマタカ君は? 何かない? したいこと」


 突然振られても困る。やるべき事が多すぎて趣味や自分の気持ちなど忘れていた。

 眉根を寄せて答えあぐねているクマタカを見つめ、イヌマキは口を開いた。


「手伝わせてよ」


 クマタカは顔を上げる。


「何をですか?」


「クマタカ君がしたいこと」


「やりたいことなんて…」


「だったら君が困ってること」


 クマタカは目を見張って顔を上げる。


「俺たちは君に助けられたんだ。それだけじゃないけど次は俺たちの番じゃないかな。持ちつ持たれつなんだろう?」


―持ちつ持たれつデス―


 いつか小バカにしてきたシャクナゲの顔が何故か浮かぶ。


「それともあれは嘘だったのかい?」


 嘘ではない。


「水臭いじゃないか」


 クマタカは顎を引いた。腰掛けた椅子の座面と同じ低さまで胸を倒し、指を組んだ両手の中に顔を埋める。


「足りないんです」


「何が?」


「何もかも」


 イヌマキが首を伸ばす。


「俺の資質も度胸も決断力も何もかも足りなくて、何も決められないまま事を進めて駅の者たちに負担をかけてる。皆真面目に働いてるのにそれに見合う食事さえ配給出来ない。かといって他所もぎりぎりなのに無理をさせる訳にもいかないし、どんなに考えても何も解決策が生まれない」


 自分で言っていて情けなくなってくる。


「八方塞がりです」


 まさに手詰まりだった。どんなに計算し直しても夜汽車の数は変わらず、それどころか乗車数もト線入りの頻度も減る一方だ。


「出来ないんです、なんにも」


 情けなくて嫌になる。


「夜汽車がないと皆が生きていけないってわかってるのに、締めれないんです。出来なくなった」


 夜汽車が地下の子どもかもしれないと知ってしまってから。


「なんにもしてないんです、俺。何も出来ない。父が俺を駅から追いだそうとしていたのはきっと、こうなるってわかってたからだ。なのに俺は、意地張って居座って(かしら)にまでなってしまった」


 ただその地位に憧れていただけだったのかもしれない。その地位に座っていた背中に。


「すみません」


 イヌマキにではない。駅の者たちへの懺悔だった。陰ではクマタカをあだ名で揶揄しながら、表向きだけでもワシの駅の(かしら)と呼んでくれる元・父の部下たちに。仕事がない、瓶詰めが作れないと困っている女たちに。腹を満たしてやれていない子どもたちに。分配率でなく量そのものが足りていない他所の駅に。こんな自分が跡目を継ぐことを最後まで拒んでいた父に。父を支えられる立派なワシの男になることを期待してくれていた母に。


「つまり、」


 溢れそうなものを必死で堪えるクマタカの後頭部を見下ろして、イヌマキが言った。「本格的に足りなくなってきたんだね、夜汽車が」


 驚いてクマタカは上体を起こした。イヌマキたちには言っていない。彼らのせいで駅がひっ迫していると思わせてしまうだろうから。これ以上、負い目を感じさせたくなかったから。

 しかしイヌマキは落ち着いたものだった。狼狽するクマタカを見つめては頷くと「お父さんから聞いてたよ」と思いも寄らないことを平然と言ってのけた。


「父が…?」


「ここに来たときにね」


 クマタカは愕然とする。これまで隠し通してきたつもりでいたのが恥ずかしくなる。また自分は何も出来なかったのか。またシャクナゲは負い目を感じて目を伏せたのだろうか。そんな素振りにさえ気付けなかった。


「でも、」クマタカは釈明を試みる。「でもそれは夜汽車全体のことなんです。長い歴史で見て父や祖父の頃に比べれば最近は減少傾向にあるということで、マキさんたちのせいでは決してなくて…」


「ちょっと来てくれるかな」


 クマタカの言葉を遮って、イヌマキはおもむろに立ち上がり歩き出した。クマタカも立ち上がる。


「あの、マキさ…」


「いいから早く」


 議論で盛り上がった時の顔つきで、イヌマキがぴしゃりと言った。

 イヌマキに連れて来られたのは地下空間だった。最近は手伝う機会が少なくなっていた植物たちは前にも増して青々と茂り、心なしか全体的に土が見えにくくなった気がする。


「今から作業ですか?」


 あまり長居は出来ないのだが。


「いや、違うよ。そんな暇ないだろう」


 心の内を見透かされる。

 イヌマキは植物たちの間を縫って進みながら、「クマタカ君は品種改良はわかるよね?」と尋ねてきた。それくらいは、とクマタカは頷く。


「なら遺伝子組み換えは?」


「遺伝子?」


「さすがにここにはないか」とイヌマキは言った。塔の技術なのだろうとクマタカは理解する。


「その、遺伝子の研究と品種改良が何かしら関係あるんですか」


「品種改良が無理やりの見合い結婚だとしたら遺伝子組み換えは俺の頭をクマタカ君の体に切って貼って操る感じだよ」


 また気持ち悪い話をし始めた。塔に住んでいると不快感に疎くなるのかもしれない。


「俺が今やってるのは俺の体力をこいつらに移すことだけど、あっちではこいつらの得意なことを子どもたちの特徴にする研究をしてる奴らもいたね。どっちが先に成功するかではこっちが負けちゃったけど俺はこいつらにも見込みあると思ってるんだ」


 指示語が多すぎて話が見えない。


「だからつまり、」


 イヌマキが振り返る。


「夜汽車の不足分を別のもので補おうって話だよ」


「夜汽車を…別のもの?」


 やはり話が見えない。


「クマタカ君の駅でも植物たちを世話してるだろう?」


 クマタカは頷く。植物は大切だ。衣料、食用、家財道具から建物の骨組みに至るまで、様々な分野で重宝する。


「うちだけでなく他所の駅でも植物は必ず育てています。野菜くらいは好きなだけ食べようという考えかと」


 実際はカエルのところから分配される分が、ワシの駅ではかなりの比率を占めているのだが。


「あとはその駅の家業に役立てるためです」


 ヘビなら薬を採るため、チドリなら布地を織るためなど。


「植物は電気を食うだろう?」


「はい」


 それはもう、ものすごく。実際にイヌマキたちが来る前のワシの駅では、自家発電された電気のほとんどは植物を育てるために使われていた。常に染み出てくる地下水の排水装置はしばしば止まり、その度に手作業で水を掬い出す必要があった。


「でももし、電気を使わずに大量の植物が育てられたら、もし仮に野菜だけで腹一杯になるくらい収穫出来たら、すごいと思わないかい?」


 菜食家を非難していたのはマキさんじゃないですか、そう言おうとしたがイヌマキは謎々を出す子どものような目で見上げてくる。クマタカは子どもの夢物語に付き合うことにする。


「…そうですね。万が一そんなことが出来たら、この先夜汽車が消滅しても俺たちは生き延びることが出来るかもしれませんね」


「『万が一』から『千が一』くらいの確率になってきてるとしたら?」


「期待しますよ」


 クマタカは子どもの夢を微笑みで応援する。


「期待してほしい」


 イヌマキが頷いた。クマタカは微笑んだまま眉毛を上げる。


「現状は『百が一』くらいのところまできてるんだ」


 クマタカの顔が疑問の色に染まる。


「どういう意味ですか」


「電気を使わなくても育つ植物を作ろうと思ってる」


 クマタカの眉根が完全に近づく。


「そんなことが可能なんですか?」


「可能かどうかはこれから実証していくよ。何でも検証通りに行くとは限らないしね」


 ということは、


「検証段階では不可能ということですか」


 クマタカの声の高さが一段落ちた。しかしイヌマキは相変わらずぎらぎらした目で身を乗り出してくる。


「卓上の理論は所詮卓からはみ出ないものだよ。実際は想定外の事故や外的要因で計算通りに行かないことの方が多い。だからおもしろいんじゃないか」


「やってみなければわからない、というやつですか」


「わかってるじゃないか、クマタカ君」


 にっこりとイヌマキが歯を見せた。それから、ぎらつかせた目で早口の説明が始まった。


「品種改良は似通った種同士の交配を繰り返すものだろう? 例えば君とシャクナゲが交配したら塔と地下の血筋を持つ新しい子どもが生まれる。でも遺伝子組み換えは種の壁を超えるんだ。君とこの木の子どもを作るようなものって言えば分かるかな」


「分かりません」


 何を言い出すのだ。


「そうだね、君と植物は全く違う別種の個体だ。君の精子をこの木のめしべにかけても実はならない。普通ならね」


 あまり気持ちのいい例え話ではない。


「でも遺伝子の中ではそのかけ合わせが可能なんだ。地上を歩き回っても疲れない丈夫な体を持つ君の特性を君の遺伝子から抽出してこの木の遺伝子に組み込むことによって、この木は君の特性を有する」


「木が地面の上を歩くんですか」


 若干白け気味な反応を取ってしまう。しかしイヌマキの興奮はまだ冷めない。


「さすがに植物は歩かないかな。それは動物の特性だ。でも地上の寒暖差に耐えて地面の上で朝を迎えることができる君の体の丈夫さなら、この木も有することは出来るんじゃないかな」


 クマタカはここに来て初めてイヌマキの言わんとすることを理解した気がした。


「地上で植物を育てようとしているんですか?」


 イヌマキが含み笑いで答えた。


「そんなことが実際に?」


「まだ実験段階だ。なかなか成功しないけどね。俺たちでさえ真っ昼間の炎天下は耐えられないだろう? 植物は俺たちよりもっと弱くて少し暑くしただけですぐ枯れちゃうし多少寒いだけですぐ腐るしで根性ない奴ばっかりなんだけど、でも俺たちよりもずっと長生きで子孫繁栄の意思は強い。やる時はやる奴らだと思うんだ」


 言いながらイヌマキは傍らに立つ木のか細い幹を掴んだ。


「それにさ、もしこの研究が成功したら夜汽車が足りなくても食いっぱくれが出なくなると思わないかい?」


 クマタカは唇を閉じてイヌマキの横顔を見つめる。イヌマキが振り返り、強い視線で頷いた。そして、


「そしたら君の抱えている問題も少しは軽くなると思うんだけど。どうかな」


 手伝わせてよ、今しがた言われた言葉が耳の奥で聞こえた。


「本当に、そんなことが可能なんですか?」


「可能かどうかは俺が決めることじゃないけど何にだって可能性はあるだろう?」


「いつからその研究を」


「君のお父さんに話を聞いてからだよ」


「父はマキさんに何と?」


 イヌマキは斜め上を見上げて記憶を辿り、「『息子を助けてください』だったかな」


「でも父は俺をマキさんたちに会わせないように画策して…」


「直接会うのは悪影響だって言われたよ」


 イヌマキが頬を掻いた。「でも間接的に見守ってください的な話だった。将来、夜汽車は絶対に不足する、クマタカ君が後を継ぐ頃には夜汽車の奪い合いが始まっているだろうってお父さんは言ってた。その時にクマタカ君やワシの皆さんが困らないように、その時までに夜汽車に代わる食糧を作れないかって相談されたんだ。相談というか頭を下げられたんだけど」


「父が?」


 イヌマキが頷く。


「俺がワシの駅で植物の育成技術を伝えたのを見て、お父さんも植物に未来があるんじゃないかって考えたみたいだ。表立ってワシの駅が野菜を大量に作り始めたら、どこだっけ、どこかの駅がひがむから研究するならここで進めてくれって釘刺されたけど」


 カエルの駅は農業を生業としている。確かに仕事を奪われようものならばヒキガエルは今以上に粘着質な嫌がらせを仕掛けてきそうだ。


「塔の話を君にするのは君を混乱させることだからやめてほしい、でも、俺たちの知識はいつか必ずワシの駅を救うはずだから、息子のことを思うなら陰からその技術で支えてくれって」


 クマタカは両手の拳を握りしめている。父にもイヌマキにも言いたいことがあり過ぎて、何も知らなかった恥ずかしさと何も知らせてくれなかった腹立たしさに頭の芯が熱くなる。


「……どうして、今まで何も教えてくれなかったんですか」 


 辛うじて一番の疑問を口にした。


「いや、まだ成功してなかったし。完成してからお披露目した方が驚いてもらえると思って」


 そう言えば四輪駆動車の時も譲ってくれる直前まで隠されていた。


「ワシの中には、マキさんたちを良く思ってない輩も少なくないです。それなのになんで、父に言われたからと言ったってどうしてそこまで」


「俺は君が喜んでくれるならそれでいいんだ」


 クマタカは目を見開いて顔を上げる。「ん?」と言ってイヌマキが顔を突き出した。


「……マキさんって、たらしですよね」


「えぇ?」


 喉の奥から何かが飛び出しそうな音を出してイヌマキが慌てた。


「何? え? 俺、そこまで女遊びしてきた覚えないけど」


「そうですよね」クマタカは失笑気味に肯定する。「力もないし情けないし」 


「失礼だな、クマタカ君。君だって出来ないことはあるだろう?」


 いつもの情けない顔になってイヌマキはまくし立てる。クマタカは俯いて肩を揺すり、「そうですね」と答える。


「俺も子どもは産めません」


 昔、笑いを取った冗談を再び口にした。しかし、


「誰かに相談するのも下手くそだろう」


 思わぬ反撃を受けて面食らった。イヌマキは情けない顔で眉尻を下げたまま、コウヤマキに言い聞かすような口調でクマタカに続ける。


「確かに君は何でも出来るけど、君だけの力で出来ることも限られているよ。あんな大きな駅を背負っているんだ。もっと周りを頼らないと大きなことは出来ないよ」


 すごく真っ当な、とても成熟した意見だった。普段、情けなさだけが目立っているイヌマキが見せた年の功だった。塔に住む者は話し方も態度も幼く、中身が年齢に不相応な者ばかりだと高を括っていたクマタカは、ここにきて初めてイヌマキが自分よりも長く生き、年を重ねてきた男だということを思い知らされた。


「はい」


 クマタカにしては珍しく素直に頷いた。案の定、「珍しく素直だね」と小バカにされる。


「マキさんだって…」


 むっとして反論した時、


「マキー! コウちゃんお風呂に入れてー!」


 シャクナゲの声が階上から響いた。


「今日も俺ぇ? たまにはお前が入れろよー」


「いいから早くー!」


「……はいはい」


 ため息まじりにシャクナゲには届かない返事をして、イヌマキは肩を落とす。


「一緒に風呂に入ってるんですか?」


 クマタカは以前のイヌマキを思い出しながら尋ねる。


「最近はコウの風呂は俺の仕事だよ」


 自嘲気味に肩を落としたイヌマキが情けなく言う。「女は変わるねえ。昔はもっとかわいげがあったのにさ。どこで間違ったかあんなオバサンになっちゃって…」


「悪かったわね、おばさんで」


 いつの間に降りてきたのか、イヌマキの背後に仁王立ちしたシャクナゲがどこから出すのか太い声を響かせた。イヌマキはもちろん、クマタカもびくりとする。


「びっくりさせるなよ」


「マキが呼んでも来ないからでしょ。聞こえてないかと思って呼びに来たのよ。まぁたクマタカ君を足止めして趣味に付き合わせて」


「俺だって大事な話があって…」


「俺の相談に乗ってもらってたんです」


 弱々しく肩をすくめるイヌマキにクマタカは助け舟を出す。シャクナゲは目を丸くしてクマタカを見た。


「ほら」


 イヌマキが子どものようにそんなことを言う。シャクナゲは口を尖らせてイヌマキに視線を戻し、そして再びクマタカに向き直った。


「大丈夫?」


 イヌマキに足止めを食らわされたことだろうと思った。だから「大丈夫です」と即答した。しかしシャクナゲはさらに顔色を暗くしただけだった。クマタカは焦る。


「あの、俺、何か…?」


「ごめんね?」


 だから何が?

 イヌマキに視線で説明を求めたクマタカに、シャクナゲは「お父様のこと」と言った。


「色々重なっちゃってちゃんと謝れてなかったから」


「奥さんが謝ることは何もありません」


 事実だった。しかしシャクナゲは、ちらりとクマタカを見上げてからイヌマキを下から見る。イヌマキは妻の意向を受け取ってクマタカに言った。


「こいつ、なんか君に言っちゃったんだろう? ずっと気にしててさ」


 それを言うなら、


「謝らねばいけないのは俺の方で」言ってクマタカも目を伏せる。


「父ときちんと話さぬうちに敷居を跨ぎました」


「それはクマタカ君のせいじゃないでしょ」


 シャクナゲが勢いよく顔を上げた。クマタカは顎を引く。イヌマキが困ったように妻を見やる。


「大丈夫?」


 見つめられて固まる。思わず開いた口を慌てて閉じて、喉元まで上がって来た思いを唾と一緒に飲み込む。本音を告げる代わりに笑みを向けた。


「ありがとうございます。大丈夫です」


 しかし、


「無理しないの」


 年上の女には見透かされていた。笑顔が崩れて慌てて作り直す。


「大丈夫です、本当に。それにマキさんが打開策を教えてくれましたし」


 クマタカはイヌマキに目配せした。イヌマキは「だってさ」と妻に言い聞かせる。

 シャクナゲは無言でじっとクマタカを見つめていたが、「そっか」と言って寂しそうに微笑んだ。それからいつもの調子に戻り、


「時間ある? 久しぶりに食べて行かない?」


「お言葉に甘えて」


 軽く頭を下げる。それくらいの時間はあるだろう。


「マキはコウちゃんのお風呂が先」


「はいはい」


 イヌマキが面倒くさそうに返事した。


「『はい』は一回でしょ!」


 すかさず叱られ言い直しさせられている。そのやりとりにクマタカは小さく失笑した。それを見た夫婦は無言で目配せし合っていたことにクマタカは気付かなかった。


「クマタカ君」


 シャクナゲに呼ばれてクマタカは顔を上げた。夫婦が肩を並べて同じ目をして自分を見つめていた。


「何かあったらいつでも言ってね。私たちに出来ることならなんでもするから」


『私たち』か。

 クマタカはシャクナゲとイヌマキを交互に見た後で俯き、見つめた床に向かって返事をした。



* * * *



 食事だけ世話になって帰路に着く。しきりに宿泊をせがむコウヤマキをシャクナゲがなだめている隙に、研究所を出た。


「クマタカ君」


 頭から湯気を出しながらイヌマキが追いかけてきた。


「風邪ひきますよ。入ってください」


 四輪駆動車の上からクマタカは言う。


「あいつみたいなこと言うな」


 苦笑しながら近づいてきたイヌマキは四輪駆動車に手をかけると、「次来てくれる時までに部品揃えておくよ。それまではあまり無茶な運転はしないようにね」


「弟にも言い聞かせます」


(おとうと)(くん)いくつになったっけ? もうこれに乗れるの?」


「遊び仲間と乗りまわしてますよ」


 多分、原動機の寿命を早めたのはヨタカだ。


「しばらく貸さない方がいいかもね」


 言ってイヌマキは笑った。そして後ろ手に持っていたものをクマタカに手渡した。クマタカはそれを見下ろしてからイヌマキを見る。


「小銃。使い方はわかるかい?」


「なんで持ってるんですか」


 初めて会った時に向けられたものは没収したままだ。

 戸惑うクマタカにイヌマキは頬を指先で掻きながら、「材料さえあれば作れるよ」と事もなげに言う。それから真顔に戻るとクマタカの手を取ってそれを握らせた。


「使い方は簡単だ。ここに指を入れて引き金を引けばいい。頭を狙えば大抵は一発で済む。と思う」


「でも、これは…」


 ネズミの武器だ。いや、塔の、か。


「頼ることは大事だよ」


 クマタカの手の上から小銃の銃身を握りしめてイヌマキが真剣な目を向けてきた。


「夜汽車を殺せないって言ってたろう? どうやってやってるのか俺は知らないけど、その刀を使うにしても手に感触が残ると思うんだ。でもこれなら衝撃はあっても直接手を触れなくて済むから」


「そういう…」


 問題ではないのだが。現場を知らないイヌマキには説明しても理解出来ないだろう。

 イヌマキはおそらく自分たちの護身用に隠し持っていた武器を、クマタカの返事を待たずにその腕の中に押し付けた。


「地上に耐えられる植物が出来るまでの繋ぎだと思って使ってくれ。そんなに待たせるつもりはないから。うん、待たせない」


 真顔になった年上の研究者を見つめ、贈られた武器を見下ろす。


「期待します。よろしくお願いします」言って頭を下げた。


「お願いされるよ」イヌマキがクマタカの二の腕を叩く。「親友からの頼みだ。何が何でも聞かないとね」


「親友…ですか?」


 驚いてイヌマキを見つめた。


「え? 違うの? あれ? 俺、なんか勘違いしてる?」


 イヌマキが途端に小さくなっておどおどした。

 どうしてこの男はこう…。

 クマタカは俯き、肩を揺すって笑った。敵わない。シャクナゲが惚れるはずだ。


「親友ではないですね」


「えぇえ~!」


「マキさんは…」


 言いかけて止めた。「何? 俺、何なの?」とイヌマキはおどおどと尋ねて来る。その様子を見ながらクマタカは目を細めた。

 情けなく眉をハの字に固まめたイヌマキを、つんざくようなコウヤマキの泣き声が呼び戻した。シャクナゲの怒鳴り声が続く。


「ワン! 何やってるの!」


 開け放たれた戸口からワンが一目散に飛びだしてくる。


「何やったんだよ、お前」


 言いながらイヌマキは屋内に戻りかけ、それからふり返って「帰り道、気を付けてね!」と叫んだ。玄関に入ったところで再び顔を覗かせると、「さっきのなぞなぞ、ちゃんと答え教えてねー!!」と強調された。

 完全に尾を股の間に納めて、耳を倒してしょげくれたワンが近づいてくる。


「ついに『ちゃん』が取れたな」


 いつの間にか『ワンちゃん』が『ワン』と呼び捨てになっていた。ワンは鼻を鳴らして頭を垂れる。クマタカは四輪駆動車から手を伸ばしてワンの耳の間を撫で下ろした。


「だから言ったろ? 弟は面倒臭いぞって」


 ワンが胴部を捻ってそっぽを向く。


「拗ねんなよ。心配すんなって。お前の母さんはちゃんとお前のことも大切だから」



* * * *



 自室に戻るとまたヨタカがいなかった。最近はしばしば帰りが遅い。あの孤児たちと遊び歩いているのだろう。


「兄ちゃんお帰り。今日は早いね」


 クマタカに遅れて帰って来たヨタカが背後で目を丸くしていた。


「『ただいま』だろ。何時だと思ってる」


「…ごめん」


 脱ぎかけた外套に腕を通したままヨタカは縮こまる。クマタカは鼻で息をつき、


「お前、しばらく四輪乗るなよ」


「え? なんで」


「調子悪いんだ。次行った時に修理してもらうからそれまでは乗るな」


 ヨタカが目に見えて落ち込んだ。クマタカは首巻きを外して卓に置き、椅子に腰かけてヨタカを横目で見遣る。内心ため息をつき、椅子の背もたれから身を起こした。


「なあ、ヨタカ。もしも地上に木が生えてたらどうする?」


 ヨタカが眉根を顰めてこちらを向いた。




 珍しく熱っぽく語る兄に戸惑いつつも、ヨタカは椅子の座面に正座して卓の上に身を乗り出した。久しぶりに笑みさえたたえる兄の話を時間も忘れて聞き入った。

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