1--23 亡命者たち
砂っぽくて鉄臭い。そこら中で錆ついた線路を思いっきり粉砕しては砂塵を撒き散らしているような空気がクマタカは嫌いだった。真正面から突進して来る風にまみれた砂埃にクマタカは鼻から小さく息を吐く。
「どうした」
頭上で声がする。クマタカは黙って首を振った。
父と共に乗る電車は広い。後続車両は父の部下たちが身動きするのも不自由なほど整然と座っているのに、クマタカのいる先頭車両は閑散としていた。彼と彼の父親の立場を考慮すれば当然だ。だがこの車両には父とクマタカ以外の男も乗っている。父の右腕と呼ばれている男、自分と大して違わない若さなのに。
男がどこの出身かクマタカは知らない。だが生粋のワシではないことは確かだ。ある日父がどこからか連れてきた男は、クマタカの視線に気付くと顔を上げた。クマタカは正面に向き直る。
「まだ慣れないか?」
父に尋ねられた。
「慣れました」
訓練は十分している。多分、他の者の三倍くらい。
「無理するな」
父はそんな言葉を投げかけた。強がりとやせ我慢を瞬時に見抜かれて、クマタカは夜の下で顔を赤らめる。他の者に聞かれはしなかったかと黒目だけで周囲を窺う。
「向かないと思ったら正直に言えばいいだろ。他にも仕事はいくらでもある」
今度は父の右腕の耳にも届いただろう。こんなところで言うのはやめてほしい。クマタカは羞恥心を噛みしめて拳を握りしめた。
調達も搾血も分別も、父は全行程にクマタカを連れ歩き、見せて回り、実際にやらせた。本線から一番近いというだけで、他所の分まで瓶詰作りを一手に引き受けているワシの駅では、夜汽車を絞められるようにならなければ男として認められない。クマタカも父の期待に応えようとついて歩き、見て回り、実際にやってきた。今では誰の手も借りずに夜汽車を最後まで処理出来る。
だが楽しいと思ったことはない。少なくともクマタカにとっては無表情を気取って出来る作業ではない。いつかの調達時、麻酔が完全ではなかったのか眠っていない夜汽車と目が合って、情けないことに絞め損ねたことがあった。父がすかさず代わりに絞めたが、父の手を煩わせたことよりも苦しませた夜汽車への申し訳なさが溢れた。
向かないのだろう。火を見るよりも明らかに、クマタカ自身さえもそう思う。おそらく同じ理由で名前さえ捨てて他所の駅に移住する者も少なくない。しかし父の後を継ぐべき立場の自分が駅を去ることなど出来ない。母との約束もある。だから覚悟はしている。それなのに何故父はそんなことを言うのだろうか。
「サシバもいるし、こっちは心配しなくていいからな?」
車両の隅に佇む父の右腕の姿が目に入る。その横顔をクマタカはじっとりと見つめた。
いつもよりも大分早く作業は終わり、父の部下たちは夜汽車を電車に運んだ。夜汽車の運びだしが終わるまで、クマタカは周辺警固に回る。地上に出ているこの間はネズミの襲撃を最も受けやすい。いつも以上に痺れた手の平を何度も握っては開いてを繰り返しながらクマタカは線路沿いを歩いた。
電車のように地面を走るだけならまだしも、不意打ちで砂の中から飛び出してくることもあるネズミへの対処はワシだけでなく他の駅でも苦慮しているという。ネコのところなど女ならば殺されることはなかろうと表だって女をネズミ駆除に当て始めたと聞いた。殺されることはなくとも全員連れ去られたらどうするのだろうか。ただでさえ女は生まれにくいのに。
運び出しも終盤に差し掛かろうとした時、視界の端に動くものを見た気がしてクマタカは線路の先に目を凝らした。最終列車だろうか。お早い到着だ。鉢合わせしないようにこちらも気を使っているのだ、塔も礼を尽くすべきだろう。それとも地下など軽んじてもいいなどと思っているのだろうか。
「おかしら…」
父に声をかけようとして思い留まる。父の手を煩わせるほどのことではない。自分が追い返せばいいのだ。聞き入れられなければ実力行使をするまでだ。左手は太刀の鞘を握り、右手は握っては開いてを繰り返した。
クマタカよりかなり遅れて向こうもこちらに気付いたようだ。消灯し、減速してやがてゆっくりと停車した。最終列車とはこれほど小さな車両だったかとクマタカは目を細める。電車と違わない大きさだ。あんな車両に夜汽車など積めないだろう。では何だ。星明かりの下でクマタカが目を凝らしていると、車両の上でごそごそと影が動いた。右手の平が開いた状態で止まる。ひそひそと話し声。男と女、物見遊山がてら逢引か? いい気なものだと途端に警戒心より苛立ちが膨らんだ。
「塔の者か」
クマタカは電車の男女に声をかけた。ぴたりと話し声が止む。全く動きがない。
「こっちは作業中だ。即刻立ち去れ」
「そちらは?」
男の声。会話は出来るらしい。
「ワシだ」
「作業?」
「夜汽車の調達」
息を飲む音が聞こえた。それから「やっぱり無理」という女の声も。男と女が何を目論んでいるのか見当もつかなかったが、付き合ってやる時間も義理もない。
「通行の邪魔だ。塔に帰るか車両ごと線路を降りろ」
後者はつまり、自分に処分されろという意味でもある。
背後を見遣った。他の警固の者たちが電車に乗り込み始めている。電車の男女はまだ動かない。警告だけで済ませてやろうと思ったが、夜汽車が二つ増えたと父には報告しよう。クマタカは開いたままの右手を腹の前まで移動させた。
電車の上で男が立った。両手で何か筒状の物を握りしめ、こちらを見つめながらゆっくりと地面に降り立つ。男が握る物がネズミの武器だと気付いて、クマタカは右手を左脇まで移動させて腰を落とした。
だがクマタカの緊張は男の次の行動で困惑に変わる。男はクマタカを見つめながら屈みこみ、地面にその武器を置くと、両手の平を顔の横に上げて膝をついた。
「何のつもりだ…」
「助けてください」
クマタカが言葉を発する前に男は畳みかける。
「助けてください。お願いします。どうか、お願いします」
クマタカは混乱する。どうしたものかと思い悩む。得体の知れない男の言動を鑑みるに、
「亡命希望?」
塔に住む者が地下に?
男はクマタカの言葉に頷いて見せ、顔の横に掲げていた両手を地面についた。クマタカは身構える。
「お願いです。どうか、どうか、私たちを助けてください!」
男は土下座しながらひっくり返った声で繰り返す。顔を上げるとクマタカの視線にびくりとし、それからその視線の原因に気づいたのか膝をついたまま後ずさりし、手を伸ばしても件の武器に届かないところまで後退した。しかし後ろの電車にはまだ女が乗っている。クマタカは警戒したまま腰だけを伸ばして見せた。鞘は握りしめ右手は開ききり、いつでも踏み込める位置にある。だが男はほっとした顔をして唇を舐めると、再び希望を訴え始めた。
「私たちはここに拠点を置きたい、出来るならば地下空間を有した駅並みの施設を分けて頂きたくお願いにあがりました」
塔に住む者が地下に降りたいとほざいている。
「そして出来得るならば、もしあなた方に許しを乞うことが叶うならば、定期的に夜汽車も分けていただきたく、また、私たちの身の安全を約束していただきたく…」
手前勝手に地下の領域に侵入しておきながら攻撃はするなと言う。あまつさえ衣食住を提供し、その身を守れなどと。要求ばかりだ。塔はいつもそうだ。クマタカの左手が強く鞘を握りしめた。
「ワンちゃん!」
車両から女の悲鳴があがった。クマタカが顔を上げ、男が振り返ると同時に密度の濃い夜がクマタカに突進してきた。
「黒色一号ッ!」
怒鳴りながら男が黒い塊に全身でしがみ付いた。男に覆いかぶされながら黒い塊はもがき暴れ、割れた声を発して涎を撒き散らしている。
「獣?」
初めて見た。かつてはここらにもいたという。
「だめだ黒色一号、頼むかだ痛ッ!」
男は全身で押さえこみながら獣を説き伏せようとしている。言葉を理解しているようには到底思えないそれに向かって。
「ワンちゃん!」
「来るなシャクナゲ!」
怒鳴られた女はびくりとして立ち止まる。抜かれた太刀の刃に目と口を開け放ち、後ずさりししかけてそれでも、及び腰のまま男と獣に歩み寄ってしがみついた。
獣が唸る。男がなだめる。女が目をつむって男の上衣を握りしめ、反対の手は下腹部を押さえた。
クマタカは刀を納めた。塔の者たちに歩み寄り、使い方もわからない飛び道具を拾い上げる。
「それで、」
クマタカの声に男女が顔を上げる。
「あなた方は私たちに何を提供してくれるんですか」
男はごくりと喉を鳴らすと目を見開いたまま黒目を右往左往させ、それから決意したように顔を上げた。
「知識と、技術を」
* * * *
亡命夫婦、イヌマキとシャクナゲの夫妻は一見すれば普通の塔に住む者だった。一組の男女と黒い獣。有閑夫婦と装飾品。塔の上から地下を覗き見に来た愚かで気楽な命知らず。塔が地下にしてきたことを考えれば誰もがそう思うだろう。クマタカこそがそうだった。しかし彼らの目的は観光ではなく亡命。彼らが塔を出なければならなかった理由は何なのか、クマタカには皆目見当がつかない。罪を犯しての逃亡か? だがどう逆立ちしても犯罪者には見えない。
父にどう話そうか悩んだ。報告か相談か嘆願か強行か。しかしクマタカの予想に反して、父はすんなりと彼らを受け入れた。二言三言、質問はされたがしかしそれだけだった。
父が亡命夫婦に宛がったのは駅から電車と徒歩で数時間の距離にある廃屋だった。イヌマキの希望通り地下空間も備わっていた。だが場所はあっても住める代物ではない。補修工事は不可欠だ。かと言って大っぴらに男たちを総動員しようものならば、塔にもその動きを察知されるし、それはイヌマキの望むものではなかった。父は少数の精鋭たちのみを派遣し、監督はクマタカが勤めた。廃屋が住めるものになる頃にはシャクナゲの腹もだいぶ目立ってきていた。
イヌマキたちの新しい住居兼研究所への引っ越しの日、よく晴れた夜だった。その日は他所の駅との寄り合いだとかで、父とは別行動になった。父の部下たちが荷物の搬入をしている間、クマタカは最後の点検に平屋の周囲を廻った。全ての窓に金属製の雨戸が嵌めこまれている。元の建物に上塗りした分厚い壁もイヌマキの希望だ。クマタカは鼻から息を漏らす。何に対しての防壁のつもりか。世話を依頼しておきながら自分たちは相当警戒されている。
「ったく、いけすかねえ」
「おとなしく引きこもってろってんだよな」
「塔にも飽きたって言いたいんじゃないんすか?」
父の部下たちの下世話な声をクマタカは聞いた。足を止めて、声が去るのを待つ。
「お前ら知らねえの? あいつら例のあれだよ?」
「例の何だよ」
「あの女だよ。ほら……」
父の部下たちは頓狂な声をあげた。クマタカも思わず耳をそばだてる。
「獣のほうが育つの早いだろ? 夜汽車よりも場所とらないし」
「じゃあ何か? あれ、非常食?」
「あれ一匹で夜汽車一両分の価値あんだろ」
「だから駄目んなったんだって。効率悪いっつって」
「だったらあいつらいらねえだろが。なんでここまでしてやんなきゃなんないわけ?」
「でもあいつらのお陰で二四時間電気使えるようになりましたよ?」
「そんなの当然だろ? 飲ましてやってんだから」
「そうだよ。お前は黙ってろ」
「なんで俺らが面倒みるわけ?」
「誰だよ、責任者」
「坊っちゃん」
男たちの鼻からせせら笑いが漏れてくる。
「頭も餓鬼には甘いよな」
「ばか。『ご子息』だろ?」
盛大な笑い声は地面に唾を吐いてようやく去って行った。クマタカの両手の拳は静かに微かに震える。
別に今に始まったことではない。自分より一回りも二回りも若い子どもの言うことなど彼らが真摯に受け取るはずがない。彼らの三日分の仕事量をクマタカは一日でこなすことが出来るという自負を抱いていたし、そうなるために彼は惜しみない努力をしてきた。現に彼はそこら辺の年配者たちよりも仕事は出来た。だが生きてきた時間の長さというただ一つの条件において、クマタカはどう足掻いても彼らに及ばなかった。父に代わって彼らに命じる時、クマタカは細心の注意を払って彼らに接する。だが心は砕けば砕くほど無残に打ちのめされ、繋ぎ合せるより早くさらに粉々にされる。
おそらく今回の補修工事は彼らにとってとかく面白くない物だったのだろう。父の部下たちは父の命令だから工事に当たっただけだ。父の命令だからクマタカの指示を黙って呑み込んだだけだ。
背後に気配を感じてクマタカは振り返った。見ると夜の中に闇よりも黒い塊が二つの目だけを光らせて佇んでいる。獣はじっとクマタカを見上げていた。
「何だ」
獣はぴくりとも動かない。あの夜のように襲いかかってくる気配はない。それがまた同情されているような気がして、クマタカは面白くない。
「お前、非常食なんだってな」
動かない。
「予備の夜汽車か」
獣が瞬きをした。クマタカは息を吐きながら顔を背ける。
「安心しろ。お前は飲まない」
父の部下たちの背中を見遣る。好き勝手言いやがって。握りしめた拳が筋張る。
肩で大きく息を吐き、クマタカは闇の中で表情を戻した。顔を上げると獣はまだ微動だにせずにその場にいた。
「早く行け。お前の『親』が探しているんじゃないのか」
どこにも行かない獣を一瞥して踵を返した。しかし膝の辺りをもそもそとした感触がまとわりつく。獣がクマタカに寄り添うようにして見上げていた。
「何だよ…」
「ワンちゃん?」
あの女だった。目立ち始めた腹を重たそうにしてクマタカに、いや、獣に近づいてくる。獣は体を一八〇度回すと女に駆け寄った。腹をいたわり膝をついた女に向かって、千切れるほどに尾を振り、顔を舐めまわす。女は健康そうな笑顔でけらけらと口を大きく開けた。
「なあに? 甘えっ子さん」
若い男女が戯れるようなべたべたとした接触に、クマタカは咳払いをした。女は顔色を変えて固まる。どうやらクマタカに気付いていなかったようだ。
「すみません、あの…、お恥ずかしいところをお見せして…」
「いえ」
感情を完全に隠してクマタカは首を振る。
女が気まずそうに言葉を探しているのが目に見えて、クマタカはその場を離れようとした。だが再び膝の辺りにあの感触がやってくる。
「ちょっとワンちゃん…!」
女が慌てて咎めようとしたが、よほど腹が重たいのか、その動作はいちいち鈍重だ。クマタカは片手で女を制止する。
「別に襲いかかってくる訳でもないので」
クマタカが許したそばから獣はつけ上がり、膝の辺りにカラダを寄せてくるに留まらず、クマタカの両脚の周囲をぐるぐると回り始めた。襲いかかってくる訳でなくてもこれはこれで迷惑だ。顔をしかめたクマタカに女は小さく笑った。クマタカは顔を上げる。
「気に入られたみたいですよ」
訝るクマタカに女は尚も笑みを深めて、
「その子、夫にもなかなか懐かなかったんです。よっぽどクマタカさんが好きなんでしょうね」
ひとしきり言ってからクマタカの視線に気付き、女は「失礼しました」と怯えたように言って頭を下げた。
「行こう、ワンちゃん」
「その『わんちゃん』というのは?」
先から微妙に気になっていた。
クマタカの突然の声かけに女はぱっと顔を上げると一瞬困ったように逡巡したが、それから俯き加減に答えた。
「この子の、あだ名というか名前というか…。よく『わんわん』って言ってるし」
「それで『わん』ちゃん」
随分安直な。
「それの名前は『黒色一号』だと聞きましたが…」
「その名前で呼ばないで下さい!」
女が突然声を張り上げたのでクマタカは少なからず驚いた。女も自分の失態に気付き、すぐさま「すみません」と頭を下げる。
「でも、そんな『記号』で呼ばないで下さい」
「記号?」
「実験の際の番号だったんです。黒毛で一番始めに生きて生まれてきたから」
「二番目以降は?」
女は目を伏せた。父の部下たちの噂話を思い出す。
「失礼しました」
クマタカが非礼を詫びると女は驚いた顔で見上げてきた。
「…何ですか」
「どうして、謝られたんですか?」
どうしてって。
「不幸を思い出させてしまったかと」
身内のものなら尚更、不意に思い出させられた記憶の切なさはクマタカも知っている。謝罪して当然のことだと思っていたが塔では違っただろうか。
クマタカが戸惑っていると女は耐えきれなかったかのように破顔した。クマタカは困惑する。知らず知らずに眉根が寄る。
「この子がクマタカさんに懐く理由がわかった気がします」
嬉しそうにそう言うと女はクマタカを正面から見上げてきた。クマタカは唇を閉じる。
「ありがとうございます」
「……いえ」
改修工事のことか、亡命を受け入れたことか。
しかし女の感謝はクマタカの予想とは別のところを向いていた。
「この子を『物』扱いしなかったの、あなたが初めてです」
心底嬉しそうに歯を見せた女の顔をクマタカは黙って見つめた。女はクマタカの変化に気付かずに獣を呼び、膝をつく。
「よかったね、ワンちゃん。お兄ちゃんになる前に優しいお兄ちゃんに会えて良かったね」
その首と言わず顔と言わず、全身を掻きむしるほどに撫で回した。
「シャクナゲぇ」
イヌマキがやって来て妻を呼んだ。
「桶の代わりに鍋使っていい? 床、拭きたいんだけどさ」
「いいわけないでしょ!」
「そうなの?」
「そうでしょ? なんでわかんないの? そういうところよ! ほんっとにだめだめなんだから」
「だめだめとか言うなよ」
シャクナゲの駄目出しにたじたじのイヌマキもクマタカに気付く。
「あ…、クマタカさ…」
緊張のあまりまともに言葉を紡げないまま、イヌマキは姿勢を正して頭を下げた。
「この度は、その、何から何までお世話になりまして、何とお礼を言えばいいのか…」
全くこの夫婦はまともな会話ができないのか。塔に住む者は皆こうなのか。明らかに自分よりも年上の幼い夫婦にクマタカは内心ため息をつく。
「こちらも電気の供給を安定してもらいましたし、植物の栽培方法も効率化して頂きました」
自家発電していた頃に比べれば電気の供給量は雲泥の差だ。線路から電気を引くというイヌマキの提案は補修工事と同時進行で行われたが、その労力に見合う、いや、それ以上の恩恵をワシの駅は得ることが出来た。
「持ちつ持たれつだと思います」
イヌマキたちが謙る必要はどこにもないとクマタカは思った。だから「こちらこそ大変ありがたい技術をご教授いただきました」と頭を下げ返した。しかしイヌマキはさらにしどろもどろになる。
「あ、いや、その、…はい。」
「しっかりしてよ、もう」
妻に小突かれる姿は情けないことこの上ない。
「わかってるよ」と弁解してイヌマキは再びクマタカに向き直ると、背を丸めたまま首を項垂れ、やはり情けない姿のまま口を開いた。
「あの…、それでその、今後……のことなんですけれども…」
誰でも相手の不利益にしかならない依頼をするときは気まずいものだ。ましてや自分の立場が低ければ尚更だろう。しかしイヌマキには謙る必要はない、とつい今しがた婉曲的に伝えたはずなのだが。これ以上指摘してもイヌマキは理解しないだろう。
「あなた方はこちらで研究をすすめて下さい。結果は随時、報告願います。また、定期的にお越しいただき、引き続き電線の整備指導にも助力していただきます。水や夜汽車は定期的に遣いの者に運ばせ…」
言いながら父の部下たちの会話を思い出し、
「定期的に私が責任を持ってお持ち致します」と言い直した。
「クマタカさんが自分で?」
女が敬語を忘れて尋ねてくる。クマタカは微かな苛立ちを顔に出さずに頷いた。すると女はクマタカが予想もしなかった反応を見せた。口角だけでなく胸も肩も持ち上げて、目尻だけはすっかり下げて声をあげて喜ぶ。
「やったね、ワンちゃん」
足元の獣を見下ろし同意を求め、尾を振る獣の頭部を撫で下ろした。
自分を見向きもしない父の部下たちにねぎらいの言葉をかけ、電車を片付けた頃には空が明るみ始めていた。
居室に至る。首巻きを解いて上着を脱ぎ捨て、どっかりと椅子に腰を下ろした。息を大きく吸って天井を仰ぎ、吐き出した。瞼を閉じて頭の中で一日を振り返る。ああ、車庫の鍵、と思い出す。だが体が重たい。線路からあの夫婦の住居までの移動はかなりの重労働だった。脹脛が痙攣し始めている。先に行くか。まず風呂だ。いや、今すぐ。ともかく動け。まだやることが……、
奥の間から気配がした。扉が開く。手の甲で瞼を擦りながら弟が、
「とおさんは?」
「早く寝ろ」
こういう時に子どもの相手をするのは本気で疲れる。
「にいちゃんは?」
「早く寝ろ」
クマタカの声色にヨタカはびくりと肩をすくめた。鼻の奥から唸るような、押し殺すような音を漏らす。クマタカは内心舌打ちした。握り締めた手の甲に血管が浮く。しかしやがて息を吐くと立ち上がり、ヨタカの腕を引き上げて肩に抱き上げ連れだした。昇降機を上る。鉄扉を押し開けて空を見ると、ちょうど太陽が姿を現すところだった。
「すごい……」
クマタカの肩の上でヨタカは両目を見開き、その中に太陽を納めようと瞬きすら我慢している。
「嫌なことあったらここ来ていいぞ」
「やなことないとだめ?」
「好きな時に来い」
「うん!」
だから泣くなよ、朝日に照らされた弟の横顔にクマタカは心中で呟いた。