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ひなたの影

作者: 白鳩

2021/8/14 一部改稿しました。

 ひなたの影




 低く()もった声が鼓膜を震わせる。読経の合間に鳴り響くお鈴の音色に、はっとなった。ゆっくりと顔を上げて辺りを見回すと、周りでは全く見知らぬ人たちが一様に顔を頂垂(うなだ)れている。どうしたの、とすぐ真横から心配そうな声がして振り向くと、不安そうな表情を浮かべる女性がおれを見ていた。

「大丈夫?」

 その声に、目を(まばた)かせる。目の前の女性はおろか、周りの人たちが誰なのか。今おれは何をしているのか。寸の間思い出せない。何が行われているのか。状況を少しでも把握したくて視線を遠くへやると、見知らぬ人たちの先頭にお坊さんの後ろ姿があり、読経をあげていた。どうやら誰かの葬式らしい。お坊さんの前には大きな写真が立てかけられていた。

 はて。誰だっただろうか。また目を瞬かせると、写真の主についてすぐに分かった。

 そうだ、こいつは。おれの横に座っている奴じゃないか。慌てて女性とは反対側へ顔を向けると、そいつは正座をしたまま、「思い出せた?」と少し照れくさそうに笑った。




*****




「また雛菊は欠席か。……次、日向亮太(ひなた りょうた)

「はい」

 しとしとと降る雨の日の教室はどこか薄暗く、蛍光灯の明かりが教室の隅にぼんやりとした影を落とす。そのせいか、先生がたまに生徒の姿を見落とすことがあった。

 ちゃんと目の前の席に生徒が居るのに、どうやら今日も先生には見えていないようだ。毎日それを指摘することも面倒になったおれは、そのまま出席の返事をした。

 雛菊ひなぎく まこと。それが、おれの親友の名前だ。小学校の頃からの幼馴染みで、名前順に並ぶと席が近いこともあっておれはよく真と話していた。真は口数こそ少ないがひどく臆病者で、気が弱かったが、人一倍お人好しだった。そんな奴だからいじめが多いと評判のおれたちの小学校ではよくいじめられていたし、使いっ走りのようなこともさせられていた。最初はおれも真を(かば)おうとしたが、真から「ひなたくんまでいじめられるから」と、断られたことがある。

 それでも納得できないおれに、真は「じゃあ、ひなたくんだけに教えるね」と、あることを教えてくれた。

「みんなには、内緒だよ」

 そう言った真がやってみせたのは、影を自在に消す方法だった。

 まず、じっと自分の影を見つめて、小声でこう唱えるのだそうだ。「消えろ、消えろ、消えろ」と。すると、自分の影はゆっくりと時間をかけて薄れて消えていく。いじめられて数日が経った放課後、心配したおれを校舎裏まで連れて行った真の影は、確かに薄れていた。

「これで、大丈夫」

 呆然とするおれを見て小さく笑った真と一緒に帰ったが、いじめっ子の側を真が通っても何も言わなかったから、本当に影を、存在を消していたのだと思う。

 そんな簡単な方法で消えるなら、と、おれも試してみたが、今のところ成功していない。きっと、真だけが扱える、特別な力なんだ。

 影どころか存在すらも自在に消してしまえる真は、中学校に入ってもやっぱりいじめられて、その度に力を存分に発揮していた。

「いいよなぁ、真は。自由に影が消えて」

 中学一年生の夏にいじめっ子集団に目を付けられてからというもの、都合が悪くなると影を消す真にそう言ったことがある。

「それが出来るなら、万引きも出来るだろ」

 スーパーで買ったアイスを夕日が沈む公園で食べながら、不意に思いついたことを口にした。ただ、単純に羨ましかった。だって、影を、存在感すら消してしまえるのなら、いくらだって欲しいアイスも取れるし、いじめっ子から逃げることも出来る。暑い日や寒い日の体育だってサボれるし、他の奴らに自慢も出来る。だけど、それを全くしようとしない真に、いつも疑問を抱いていた。真が影を消すのは、あくまでいじめにあう前だけだった。

「お店の人が、困っちゃうよ」

 そう言って苦笑いを浮かべる真に、あぁ、おれは馬鹿なことを言ってしまったんだな、と思う。しかし、おれがごめんという言葉を口にするより先に、真から言葉が溢れた。

「だけどね」

 頭上に広がる空の色が橙色から群青色に変わっていく最中、手元からぽとりとアイスの水滴が落ちて、地面に染みを作る。暑さで溶けるアイスに慌てて舌で(すく)うと、垂れる水滴と一緒に、真の小さな声もぽとぽとと滴り落ちていった。

「影が、最近は元に戻りにくいんだ」

 落ちたアイスは地面に染みを作り、真が零す言葉はおれの耳に残る。

「え」

「消えろ、って言わなくても、勝手に消えちゃってね」

「……勝手に?」

「この前の体育で、先生が捜していたのも、勝手に影が消えちゃったからなんだよ」

「で、でも、あの時お前はおれの横に」

「ひなたくん以外は、見えてなかったんだよ。実は」

「そんなこと、ないだろ」

「不思議だけど、ひなたくんには見えてるみたい」

「……」

「ほんと、不思議だよね」

 俯いて笑う真の手元は、溶けたアイスでべとべとになっている。それなのに一向に拭う気配を見せない真に、おれは「影が完全に消えたらどうなるんだ」という言葉を、何とか飲み込んだ。それを聞いたところでおれには為す術もないし、そもそも、答えを聞く自信なんてどこにもなかった。

 真も誰に相談したら良いのか分からず、途方に暮れていたらしい。おれが何と答えようか悩んでいると、ぱっと顔を上げた真が「困らせてごめん。でも、ちょっとだけすっきりしたかも」と少し笑ってみせた。それから「もう帰ろう」と言ったが、真っ赤な夕日を背にした真の前に、影はなかった。

 それから、真の影は日毎に薄まり、今日のように先生に認知されることも減っていく度に、真はへらりと笑って言う。

「また、消えちゃった」

「おれには見えてるぞ」

 そう言うと、真はいつも寂しそうに笑って小さく頷いた。


「ありがとう」


 いつか、おれにも見えなくなる日が来るのだろうか。そうなれば、真はどうするのだろう。真は、生きていると言えるのだろうか。

 夕日に照らされて目を細めた真が、暢気(のんき)な声で「今日の晩ご飯は何かな」と呟く。それに「カレーじゃね」と適当に返そうとしたところで、後ろから誰かに名前を呼ばれたような気がした。

「おーい」

 振り返ると、学校の友達がおれに向かって駆け寄ってくる様子が見えた。大きく手を振り、近づいてくる友達に「どうしたんだよ」と声を掛けると、友達が眉根を寄せておれを見返した。

「どうしたも何も。日向、誰と話してたんだよ」

「あ、いや、雛菊と……」

「雛菊って、そんな名前の奴クラスに居たか?」

「え。いや、居るだろ、ここに」

 なぁ、と真に声を掛けようと振り返る。すると、さっきまで確かにそこに居た筈の真は、影も形も綺麗さっぱりなくなってしまっていた。まるで最初からそこには誰も居なかったように。

「真?」

 何度か名前を口にして辺りを見回すが、人の形どころか、何も無い。

「……どこに行ったんだ?」

 夕暮れの中に真の影を見失ってから半年後に、真はもう誰の目にも見えなくなってしまった。




*****




「久しぶり」

 照れくさそうに笑う真に、おれは思わず口を噤む。真が見えなくなってから、いろいろなことがおれの身に起こった。感情が一斉に溢れ出して、ぱくぱくと口を開閉していると、真はただ笑って待っていた。

 思い起こせば、本当にいろいろあったな。

 あれから高校に進学して大学を進んだ後に就職浪人してやっと入った会社は数年後に倒産した。あちこちを転職した末に勤めた会社で今の妻と知り合ったことを切っ掛けに、半ば駆け落ちに近い形で結婚して、新しく見つけた職場では慣れない仕事をこなしながら、地道に稼いで子供を大学まで進学させた。子供が独り立ちするまでもう少し頑張って働かなくちゃという時に、真の十七回忌のお知らせが手元に届いた。

 今までは忙しくて返事さえ(ろく)に出来ていなかったが、今回はと思い立って来たという訳だ。しかし、まさか本人に出会うとは思わなかった。いつの間にやら、日々の忙しさに殺されて、真のことをすっかり忘れてしまっていたから。

 やっとの思いで絞り出した声は震えてしまう。

「そこに、居たのか」

「うん。ずっと傍に居たよ」

「気付かなかった」

「もう、影は消えちゃったからね」

「……そうか」

 最後に見たあの時とあまりにも変わらない表情や声色に、目の前の景色がじわりと滲んでいく。真の輪郭が、思い出が、滲んでしまう。慌てて腕で顔を拭い、真を再認識する。

「あのね、ひなたくん。教えて欲しいことがあるんだ」

「な、んだよ」

「今のひなたくんは、幸せ?」

「あぁ。……あぁ。幸せだよ。やっと、お前に会えたんだ。幸せに決まってるだろ」

「そっか。良かった」

「良くねぇだろ。……おれは全部、知っていたのに。消えていくお前を、助けられなかった。おれを恨んで当然なんだよ、真は」

「……ひなたくんは、優しいね」

 そう言って、真は首を横に振って柔らかく笑う。その姿に、おれは漏れ出る嗚咽(おえつ)を噛み殺すことも出来ずに、とうとうその場で泣き崩れた。

 隣にいた妻が慌てふためき、周りにいた同級生たちも「どうした」と騒いでいる。それでも、おれは泣き続けた。


 やっと、見えた。それだけが嬉しくて。

 真に足が無い様子も見えて、悲しくて。


 真は、誰にも見えなくなってから、本当にずっと傍に居たんだろう。優しい奴だから、おれが気に病まないか気にしていたんだと思う。それと同時に、おれまで真を忘れてしまえば、真は本当に消えてしまうもんだから、気付いて欲しかったんだとも。

 自分が生きているのか、死んでいるのかも分からなくなって。それでも、真はおれの傍に、ずっと居たんだ。そんなことを思えば、涙は幾らでも出てきた。

 この葬式での真は自殺したということになっているが、影が消えて見えなくなったことを周りの人間が認識できず、説明できなかったから、そういうことになったらしい。

 つんとした線香の香りが辺りに満ちて、読経とお鈴の音が遙か遠くに聞こえる。

 真は今まで生きることも死ぬことも出来なかった。おれが日常において真を忘れることで、(ようや)くきちんと死ぬことが出来たんだ。

 それまで、真はどんな思いでおれの傍に居てくれたのだろうか。為す術もなく、ゆっくりと死んでいく真は、どれほど恐ろしい想いを抱えながら、おれの傍に居たのだろう。おれから離れずに必死で恐怖に耐えていた間おれを見守っていた真は、いったい、どんな気持ちで。

 今までごめんなと言うと、隣からあの時のように、ありがとうと返ってくる。その優しい声音に、真の笑顔が瞼の裏に蘇った。


「じゃあ、いってくるね」


 ぽん、と何かが肩に触れたような気がして、思わず顔を上げる。すると、既にそこには誰も居なかった。

 どうやら成仏出来たようだ。もう真の姿がどこにも見えないということに安堵して、おれはまた大声で泣いた。

 蝉時雨(せみしぐれ)が、遠くから聞こえる。夏は、もうすぐ終わるらしい。寂しげな鈴の音が、いつまでも耳の奥に残っていた。




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[良い点] 儚く切ない話でありつつも、どこか温かな優しさが垣間見えます。いつまでも主人公の傍にいた真の心境を考えると、非常に悲しくなりながらもその笑顔に救われる描写が描かれている点が好きです。特に前半…
[良い点] 優しくも切ない話です。それはもう終わった過去で、だからこそもう、知ってもどうにもできなくて、こういう終わり方は主人公にとって救いでありつつも、とても悲しいものにもなっていますね。 [気にな…
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