禁じられた終わらない遊び
私は、トイを飲み込んだ後、波紋一つ立てないその沼のような深い水面をしばらく呆然と眺めていた。
為す術もない気持ちで、ただただ見ているだけだった。
しかし、ずっとそうしているワケにもいかない。
施設に戻って、救援を求めれば、トイを助け出すことができるかもしれない。
万に一つだろうが、可能性があるならば、やってみるべきだ、と私は感じた。
だけど、そこで私はトイの言葉を思い出す――施設の職員が今日に限って、屋外に私達を連れ出した理由は何か? という問いかけ。
もし仮に、これが施設の職員が意図した計画なのであれば、トイを助けてくれるどころか、私はただ単に独房のような自室に、強制送還されるだけかもしれない。
じゃあ飛び込んで、トイを助けるべきだろうか?
ダメだ……私、泳いだことない……泳げないや……。
そもそも泳げたところで、子供一人を丸々と呑み込む、どこまで深いかわからない沼に飛び込んで、トイを引き上げることなんてできるとは思えない。
つまり、今、沼に飛び込むのは、トイとの心中自殺みたいなモノを意味するんだろう。
一瞬、そうしてもいいんじゃないか、と思った。
でも、でもそれは……私の手を払いのけるようにしてまで、一人で沈んでいった、トイの気持ちを裏切ることになるんじゃないだろうか……。
なんてことはない、こういう急展開に直面して、ちゃんと行動出来たのは、トイだけだったってことだ。
私は、単なる頭でっかちだった。
ただの耳年増だった。
実際の行動なんて、何一つ起こすことが出来ずに、ただ、色々と考える振りをしているだけの無様な少女――それが私だった。
結果、トイが沈んでから数分が経過してしまった。
トイの生命を助けるのは、どう考えても不可能になった。
そして、それでもどうしたらいいのか、延々と考え続けているしかない私の目の前で――沼の水面が揺れた。
ぶくぶくと、気泡のようなものが浮かんできて、私は、ありえないもしもの可能性に縋りたい気持ちになった。
だけれど、そうやって這い上がってきたのは、当然、トイなんかではなかった。
というか、這い上がってきたモノ、アレは何なんだ?
何と形容すればいいんだ?
少なくとも、これまで見たことはないし――そもそも生物なのか疑わしいモノではあった。
それは泥だ。
蠢き、生きているように、今、沼から這いずり上がってきた、泥の群れ。
そうとしか形容出来ない。
どうやら、鉱石のような黒色のものも混じり込んでいるようだが、どこをどのように見ても、まるでアメーバかスライムみたいに動く、泥のような生き物としか言えない……。
それは、私の傍にまでやって来て、うごうごと蠢きながらも、這いずるのを止めた。
「えっと……」
思わず首を傾げてしまう。
これは――逃げた方がいいのか? 私の気持ちとしては、今はトイを失った悲しみに、存分に浸りたいという気分で一杯一杯なんだけれど。突然現れた泥生物へのリアクションをどう取ったらいいのかわからなくて、何だか行動の指針を失ってしまった。
そして、私が戸惑っている隙を狙うようにして、その泥の生き物は、突然姿を変えていた。
「――は?」
それは、トイだった。
トイにしか見えない、そんな人間の男の子の身体に、その生物は突然変身したのだ!
「……は、はぁ?」
いや、変身したのだ! とか言われても……何? これ、喜んだ方がいいの? どうなの?
意味がわからない。様々なことが。
自分が今の状況に、どう考えたらいいのか、どう感じたらいいのか、混乱だけが私を支配している。
「やぁ、よくやったね」
「――うわっ?!」
突然、肩を叩かれて、振り向くと――いつの間にかいたのか、施設の職員がそこにいた。
まぁ、私はずっとあわあわと戸惑い通しだったから、いくらでも背後を取る機会はあっただろうけれど。
「君が、ここまでの成果を見せてくれるとは――正直予想の外だったよ。
君はちゃんと、君自身が、『特別』であることを証明した。自分の身体を捧げて、おかしくなって、私達が特別になることに貢献するだけでなく――自分自身もちゃんと特別になった」
パチパチ、と手を叩く施設の職員。
「え、えっと……トイは?」
「ああ、識別番号× × × × × のことか。いや、君も見てただろう? 彼は――特別にはなれなかった」
「…………」
「死んだよ」
私は、目の前が真っ暗になったような気がした。
目の前が真っ暗になったような気分になったとしても、実際に視界が暗転したワケじゃない。
私は、気を失ったのではないのだから。
だけれど、私は、それ以上現実を目に入れたくなかった。
それこそ、いっそ――泥のように眠りたかった。
うずくまり、目を閉じた私に、しかし文字通り上から、降るように施設の職員が語りかけてくる。
うるさい。
もうどうでもいいでしょ。
黙っていてよ。
そういう私の心の声は、考慮されることなく。
施設の職員はその口を閉じない。
「君はいつか、『我々』に言ったことがあったよね――自分達は、どのような地点を最終目的地として、期待されているのか。その時、君には、君達をおかしくして、特別にするためだ、と答えたっけね。また別の時には、より正確に、君達をおかしくすることで、得たデータから、『我々』が特別になるためだ、そんな風に答え直したんだったか。しかし、君は、君自身が『特別』になった。いわば特例だよ。だから、私は教えてあげよう――『じゃあどのような方法によって、君はおかしくされようとしていたのか』、その情報を、君に補完してあげよう」
「…………」
黙って。私が望むのはそれだけよ……頭が混乱しているの。頭が痛いの。身体が重いの。
「とはいえ、どんな科学技術が使われていたのか、どんな科学技術『以外』が使われていたのか、その具体的な手法を説明したところで、君にはチンプンカンプンだろう。だから、もっと本質的な話をしよう。君達を『おかしくする』快さ――ある種の『気持ちよさ』の根源について、話そう。どうだね? 君。いつだって、私達が君達に施す実験は、どこか心地いいものだっただろう?」
「……だから、それが何?」
「はは……やっと喋ったね。反抗的な態度だ――まあいい。人間の快楽というのは、常に欲望と共にある。ある種の欲望が叶えられると、人間は『気持ちよさ』を覚える。そして、人間には抗いがたい欲望が、三つある。食欲。性欲。睡眠欲。いわゆる三大欲求というヤツだ――君も聞いたことくらいはあるだろう」
「……あるけど」
「それはつまり、『生きるための欲望』と言えるだろう。生き残るための人間の『本能』だ。しかし、それとはまったく逆の性質を持つ、三大欲求に対してたった一つで吊り合ってしまうような――そんな欲望がある」
「な、なによ……それは」
喘ぐように喋る。
何でこの男は、もったいぶったような喋り方をするのだろう。
「いや、だから『死ぬための欲望』だよ。自殺願望だとか、希死念慮みたいなものかな」
「そ、そんなの……正常な人間の、欲望じゃ、ないでしょっ……」
「いやあ、正常だよ。細胞は日々自殺している。それはアポトーシスと呼ばれる、遺伝子に組み込まれたプログラムとしての死だよ。また、すべての細胞は癌化の可能性がある。そして、人間は毎日眠るだろう? 睡眠はある種の擬似的な死だ――死んだばかりの人間は、眠っている人間と、区別がつかない」
「そんなの屁理屈よ」
「これ以上、合理的な理屈もないんだけどなぁ……だって、じゃあ人間はなんで百パーセント死ぬんだい? 生きていたいなら、ずっと生きていればいいじゃないか。それをしないのは、そうしたくないからだ」
「…………」
この男とこれ以上喋っていても、仕方ない気がしてきた。
「人間は生きているべきだとか、死にたくないんだ、とかよく言うじゃないか。でもそれは遺伝子的に正確じゃない。すべての人間は、そこそこ寿命まで生きたら、全員死にたいんだよ。三大欲求は好みもあるけれどねぇ――人によって強弱があるもんだけれどさ。しかし、死への欲求は、誰にとっても等しい。人間は最終的に死ぬ。そしてそれはね――永遠の眠りにつくように、自分の身体という一切のしがらみや苦しみから解放されるということで――とても気持ちいいことなんだよ」
「…………」
施設の職員の言うことは何一つ気に入らない。
しかし一番気に入らないのは――
「そして、君はそんな『死の快楽』の末に、こうして一つの力を獲得したというワケさ」
――こんな奴らの理屈通りに、身体を弄られ、そして思い通りにされてしまった、自分自身だ。
私は、もう喋るのも考えるのも鬱陶しくなって、それこそ身体が思うようにいかないくらい苦しいから――足を放り出して、身体の左側を下にして、寝転んだ。
胎児のように、少し丸まる。
もう何も考えたくないっていうのに、それでも私の頭の中には、ぽつりぽつりと思考の断片が浮かび上がってくる。
そして、怖くなった。
私は、生と死の境目を、どうやら踏み越えてしまった――泥の生き物が変化したように見えたトイ、あれは一体『何』だ?
わからない……なにも、わからない……。
ただ、心を重苦しくするような、心の声がただ一つだけ、自分の中で響くのを聞く。
――そう、私は禁忌を犯してしまったのだ。
そう、私は、してはイケないことをしてしまったのだという重苦しい罪悪感だけが、心をただ浸していった。