暗くて深くて底がない闇
その日は、ほとんどありえないくらいに、珍しい機会が訪れた日になった。
私達は、施設の職員に、何かの建物内ではなく、壁に囲まれた敷地内を、自由に行動していいと言われたのだ。
私達とは、私とトイの二人のことだ。
彼とは『何もないけど広い部屋』以来の再会だが、特に思うところはなかった。
『あぁ、またコイツか』、という感じ。
子供達がペアになってどこかで過ごすように命じられるのは、数日に一回と言った頻度だけれど、私とトイはそれでも一緒になる頻度が多い方だと思う。
お馴染みの――もっと言えば少し飽き飽きとした、付き合ってもいないのに、まるで倦怠期を迎えた恋人か夫婦のような……って何言ってんの私。こんなことを考えるから耳年増というコトになってしまうのだ。
トイに対して思うところは何もない。
こんなヤツ、男らしくも何ともないし、なよなよしているし、ぼーっとしているし。
「ソギ……なんかさ、珍しいよね、これって」
「名前で呼ばないで」
「な、なんで会ったばかりなのに怒ってるの……僕、何かした?」
「何もしてないから悪いの!」
「……??」
我ながら意味のわからない言いがかりではあった。
「うーん、まあ話を戻すとして。確かにそうね……こうやって外で遊んでろ、みたいなのって、確かにほとんどない機会よねぇ……。大体、屋内だし。私、物心ついてから、こうやって堂々と外に出た機会って、『施設案内』の時くらいしかないわ」
「……んー。僕も、そんな感じ……かなぁ。それにしても、『施設案内』……懐かしいねぇ。不思議と、あれ以前のこと、僕は思い出せないや――ソギはどう?」
「……私も、そうね」
「単純に忘れているのかなぁ――それとも、記憶が消されているのかなぁ?」
確かに後者の可能性も、この施設では十分に考えられることだった。
「そういえば、『施設案内』の時、初めてソギに会ったんだよね。それから何だかんだ、ソギとは一緒だなぁ。……ソギは覚えてる? あの時のこと」
「――覚えてないわ」
本当は覚えている。忘れるはずがなかった。それを思い出していたから、珍しく私の口数は減っていたのだ。
トイの顔を初めて見た時、やっぱりコイツのことを、『ぼんやりした顔だなぁ』と思ったのだと思う。
しかし、私に見つめられて、照れたように笑う笑顔を、多分、ちょっと可愛いと思った気はする。
それになんだか優しそうだなぁ、と。
その時の私のファースト・インプレッションは、しかし裏切られて、コイツは何も考えていないだけのぼーっとしている男に過ぎない、というのは次第にはっきりとしてきた。
だけれど、初対面の印象が、たまに顔を出す。
『可愛い』。
『優しい』。
そう思う度に、何となく、トイと会ったあの日のことを、私は思い出す。今もそうだった。
「……僕は覚えてるなぁ。まぁ、それまでの記憶がないから、僕自身、なんでその時、そう思ったのかはわからないんだけれどね」
トイは照れたように、鼻の頭を掻いた。
「ソギを見た時、凄い、こんなに可愛い女の子がいるんだ、って僕は思ったよ。……ウソじゃないよ?」
「別にそんなこと、トイに言われても……」
「あはは、まぁ、付き合っていく内に、なかなか素直じゃない女の子だって、わかっていくんだけれどねえ」
「…………」
思わず顔を赤くしてしまって、私はそっぽを向いた。
いや、これはトイごときに侮辱されたから、その屈辱によって、怒りによって、顔が赤くなっているんです。そういうことなんです。
今日のトイは、何だかおかしかった。トイのくせに。
私達は、散策しながら言葉を交わしていたが、不意にトイが足を止めた。
「……うーん、やっぱりちょっと気になるんだよなぁ」
「何が気になるって言うの?」
「いや、だから突然、施設の職員が、僕達を外に出した理由だよ……これまでしてこなかったことを、突然するってことはさ、何か理由があるような気がしてさ」
「……そんなの、どうでもいいわよ」
なぜか、頭がぼうっとしている。トイの様子がいつもと違うから、それに翻弄されているだけかと思ったんだけれど、どうもそうじゃないみたい……。あの、身体を箸みたいなロボットアームの指先で弄くられる実験を受けたのは、一体、何日前だっけ? うまく思い出せない。
実験の影響は、屋内でじっとしている分には、そんなに普段、意識しない――でもこうやって外に出て、太陽を浴び、身体を動かしていると――なんだか、なんだかフラフラとする……。
「もしかして、何か実験を受けた?」
「…………」
図星だったので、私は黙っていた。
「実は僕も受けたんだよねぇ――大きな鳥籠みたいな場所に閉じ込められたんだ。床は石畳だった。僕は中央の黒い石の上で立っているように指示されていた。すると、上から何ていうか……トラバサミ? みたいな? ギザギザした歯のような刃のついたものが降りてきて、それが二つ折りに閉じて、僕の頭をガッチリとホールドしたんだ。刃は僕の頭に完全に食い込んでいた。不思議と、まったく痛みはなかったよ。それから、ギリギリギリって、鎖で引き上げられて、宙吊りにされても、やっぱり痛みはなかった。普段は体験しないような、浮遊感だけがあった。首吊りってこんな感じかな? って思ったよ。あるいは、ソギが教えてくれたみたいな、UFOキャッチャーだっけ? あの景品になったら、こんな気分かな? と思ったよ。僕はそのまま、しばらく吊り下げられていて、そしてまた降ろされた。でね、まぁ、その実験が終わってから、なんだか頭が良く回るんだ。こんなに喋れているのって、人生で初めてかもしれない……」
「わかった、わかったから……ちょっと、黙ってて……」
頭がクラクラする。
うまく喋れない。
ソギに会話の主導権を握られていることに対する、謎の焦りがある。
私はなんだか、今のトイが、いつものトイとは違う存在に思えて、違う生き物のように思えて、フラフラと彼から距離を取る。
アンタは私に、付いてくれば、いいのよ……。
そんな気持ちで。
歩き続けなければいけないと思った。「待ってよ」とトイの声が聞こえる。そうだよ、トイにはそれが相応しいんだよ。あなたは、私がいないと……ダメなんだから。
頭がうまく働かない。もう歩くので精一杯だ。
何だか熱っぽくて、このまま死んじゃいそうな気がする。
でも、歩いていないと、トイが付いて来てくれない気がして。
視界の中に、何かおかしなものが映った。
あれはなんだろう? 答えが出ない。でも、私は歩き続ける……その何かに向かって、歩き続ける……。
後ろで、トイが何かを喚いた。
うるさいなあ、と思う。私に、トイが指図するなんて、そんなの違うでしょ。おかしいでしょ。
そうして。私はトイから突然、突き飛ばされた。
左の方に向かって、ドン、と押される。
トイが私に暴力を振るうなんて、信じられなかった。
だから、その時点で、私は我に返るべきだった。
ちゃんと、自分を取り戻すべきだった。
しかし。
未だに私の頭ははっきりとはしていない。
視界の中で。
トイが私を押したことで、出来たスペースに、私の視界にこれまで映っていた何かに向かって、つんのめる。
頭から突っ込む。
ばしゃり。
と、音がした。
「…………トイ?」
バシャバシャと、何かが揺れている。
あれは――あれは、水面だ!
意識が覚醒した。
しかし、身体がそれについていかない。
私は何とか、沼のようなモノの水面を足掻く、トイの手を取ることに成功する。
一度は、それを掴んだトイだったけれど――。
私は自分のひょろひょろとした腕を見つめる。ずっと施設の屋内で過ごしてきた、ロクに運動もしていないような、細い細い腕。
これでは、トイを引き上げられないんじゃないか。
必死にトイを引っ張りながら、私はそんな不安を抱く。
だけど、それを私以上に理解していたのは――トイだった。
それを気付いたのは、後でのことだったけれど。
トイは、彼の手首を掴む私の手に、思い切り爪を立てた。
それは深く痕が残るくらいの、渾身の力を込めた一撃だった。
――トイの二度目の暴力。
私は悲鳴を上げて、トイの手を離してしまった。
トイは沈んでいく。ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。
手を下の方に持っていっている――もし全身が見えるのならば、まるで気をつけのような姿勢をしているのかもしれない――私の手が、トイを掴む取っかかりがない。
トイが意図して、そうしている。
「なんで……なんでっ、トイ……っ!!」
私は未だ、熱で朦朧としたままの意識で叫ぶ。
トイが、彼が沈む前の表情は――なんだか嬉しそうだった。
死にそうなのに。
死にかけなのに。
なんだかぼーっとしているようで、優しそうで、そして可愛い。
トイのいつもの笑顔だった。
そして、トイはそのまま沈んでいった。
二度と浮かび上がらなかった。
そうして、トイは死んだ。
私は永遠に彼を――失ったのだ。
……と、そこで終われば、私が、素っ気ない振りをしていた――しかし間違いなく好意に近い何かを抱いていた男の子を失う、一つの喪失譚としてお話は終わりだっただろう。
けれど、残念ながら物語はここで終わらない。
愚かな私が、続けてしまった。
――私は、禁忌を犯した。