白くて広くて何もない
私は、その白いスペースにいる。
例えばそれは、パソコンのキーボードのスペースキーを入力すると出力される『 』のように、そこは何もない、文字通りの空白の空間だった。
距離を目測できないくらいに高い天井、『散歩』しないと辿り着かない壁、広大な床。
それらは全て白一色で塗りつぶされている。
窓の類は一切ないが、しかし、壁の材質には、まるで白いレースのカーテンのような透過素材が使われており、昼間はちゃんと陽光が差し込む。
この建物を、もし上空からヘリで俯瞰したとしたら、その形状が立方体をしていることがわかるだろう。
ちなみに、外壁の色も全て真っ白で統一されている。
周辺住民から、『周囲の外観を損なっている』という苦情は来ないんだろうか? というのは私流の軽い脳内ジョークである。そんなのが来るはずがない。
だって、この施設は、半径二キロくらいの範囲で、高い高い壁で囲まれているんだから。
この建物の中は非常に開かれた、束縛感のないオープンな空間に思えるけれど、もっと広く視野を持ち、壁のことまで考えれば、私達はここに閉じこめられていると言って良かった。
いや、そんな建築物から受けるイメージ、なんてことを語るまでもなく、普通に私達は閉じ込められているんだけどね。だって、この施設から、一度だって出たことはないのだから。
私の記憶は、この施設にいる時点から始まっている。
いわゆる『物心つく年齢』には、私はここにいたことになる。
親のことを聞いたことはあるが、施設の職員は答えてくれなかった。
代わりに、「お前達は『いらない』からここにいるんだよ」と優しくていやらしい笑顔で教えてくれた。
それは、我が国日本でも2006年から始まったとされる、『赤ちゃんポスト』のニュアンスとは、また違うんだろうか。
一日の中で、ほとんど寝る前の一、二時間くらいしか使用を許可されない数台の共用デスクトップパソコンで調べて限りでは、大きく違うようだ。
というか、一般的な意味での『孤児院』的な施設と、この施設はあまりにもかけ離れ過ぎている。
私達はこの施設の中ではある程度の自由を許されてはいるものの、しかしこの施設からは出ることは出来ない。
この施設と世間は徹底的に隔絶の関係にあるのだ。
この施設の目的や、施設が私達『いらない』子供達に何を望んでいるのか、その具体的な地点はわからない。
けれど、施設の職員が例のいやらしくて優しい笑顔で「君達をおかしくして、そして特別にするためだよ」と言っているのを聞いたことはある。
そして、私達には度々、『実験』という名称の無機質な行為が施される。
それがどんな行為なのかは……いや、私も意味がわかってないし、説明すると頭がおかしくなっちゃいそうだから、やめておくね。
ただ、人間用の手術台の上に昆虫標本を置き、その昆虫の足を一本ずつ塩酸で溶かしていくかのような、どこかちぐはぐで――そして人間味のない、冷たくて異常な行為だということだけわかっていてもらえればいい。
余談だけれど、私は寝る前の時間を最大限活用して、ネットで世間情報を収集するタイプだ。そのお陰ですっかり耳年増というヤツになってしまった……(ちなみにそうした情報に何の興味も持たないどころか、何を考えているのかわからないぼーっとしたヤツもいる)。
義務教育であるところの学校というものに一日たりとも通ったことがないのに、普通の児童がどんな生活をしているのかということを知ることに、果たして意味はあるのだろうか。
ちなみに、私は施設の職員にこんな質問をしてみたことがある。
「義務教育というところの、『義務』は、子供が学校に通わないといけないという意味ではなくて、親が子供を学校に通わせないという意味らしいですよ。知ってました?」
施設の職員はいやらしくて憎らしい笑顔でこう答えた。
「私達は君の親ではないから、つまりその『義務』は有していないってことだね!」
あまりに良い笑顔過ぎて、私は死ねと思った。それじゃあ、私の親権は一体誰が持っていると言うのだ。
もちろん、今更そんな社会的で常識的なことを言っても何の意味もないことを――ここが世間から見た一種の異界であることを、私は充分にわかってはいた。
施設の職員は、私達のことを『識別ナンバー』という無味乾燥なもので呼ぶから、自然、自分達で自分達の呼びやすい名前を――精々アダ名レベルだけれど――付けることになる。
施設の職員にも、そのことは禁じられていない。その程度の権利は認めてくれているってことだろう。
私の名前は(私と私と一緒の子供達にとっては)、ソギという。漢字にすると削ぎ。何か痛そうで怖そうな響きだけれど、いつも機嫌が悪くて、いつも何かが気に入らない私には、何だか合っているようにも思える。
……私にネーミングセンスは、どうやらないようだ。
つまり、私はその自作の『ソギ』という名前も気に入ってはいなかった。何もかもが気に入らない年頃なのである。
私は、今日は怪しげな実験を受けることもなく、この白いスペースの中で自由を満喫できている。たまにこういう日がある。
とはいえ、私はこの空間が、それほど好きというワケでもなかった。
この空間は、昔から私に、次のような感覚を押しつけてくるように感じたから。
『この世界は広い。ただし、何もない』
けれど、何もないかのように見えるこの空間にも、何かはある。
目に見えない何かが……。
あの無機質な『実験』と同じように、私達の頭をおかしくして特別にするための気体が、この空間には満ち満ちているということだった――まったく、訊きたいことには答えず、聞きたくないことばっかり教えてくれる施設の職員だ。
ちなみにその理由を要求したところ、
「その気体のことを認識していた方が、より良く反応し、より素晴らしく浸透するからだよ。本人が、その事実を認識している方が、効果をより期待できる」
と憎らしくていやらしい顔で言っていた。
施設の職員の言うことは、大体要領を得ないか、または『本人だけが分かっている』感たっぷりの、複雑さに満ちている。取りあえず、私達に何かを納得させるつもりは、少しもないのだということだけは理解できる。
まぁ、取りあえずこの白いスペースの今現在のことに話を戻そう。
コイツのことはこれまで意図的に考えの外に置いておいたんだけれど、今、私はままごと遊びをしていて、だからその遊びには当然相手がいる。
なんだかぼんやりとした、起きているんだか寝ているんだかわからない、コイツの名前はトイという。
トイという音から連想されるのは、例えば問いかけのニュアンスの『問い』、屋根から雨水を地上に導く『樋』等があるだろうが、私はコイツに相応しいのは、『toy』だと思っている。
もっと言えば、私はコイツのことを私のおもちゃだと思っている。
我ながら歪んだ人間関係もあったものだと思うけれど、このぬぼーっとした少年と私は腐れ縁の関係にあり、なぜかいつもいつも、二人組になる時には、このトイと組まされることになるのだ。
付き合いも長いコイツには、私はなかなか複雑な感情を抱いているのだった。
今、私の手にはクマのぬいぐるみ、小ぶりのテディベアが装備されており、トイは特に何も持っていない。
トイは(トイ自身が)、おもちゃの兵隊の人形役であり、私の持っているテディベアはクマの女王役だ。
「…………」
「はぁ……何か喋りなさいよ。そうじゃないと話が始まらないでしょ?」
「……う~ん。ここはさ……おままごと遊びを提案した、ソギが……ストーリーを考えるべきなんじゃ?」
トイは独特の間延びした声で話した。
「……大体さぁ、この年になっても、おままごと遊びってどうなの?」
「何か言った?」
「言ってません」
過去の同様のトイの失言に対して、私が理不尽な怒りを露にしたことを思い出したのか、真顔で素早く反応した。それがちょっと面白かった。
私は思うんだけれど、実際、トイと遊んでいて楽しいところがあるとすれば、それは『おままごと遊び』とか、遊びの種類によってではないんだよね。
私はトイをいじめるのが楽しいんだ。
トイがビクッとしているのが、まぁ……ちょっと可愛いとか思う。
自分の性格は悪いと思うけれど、私はこの現実離れした環境こそが、その理由と考えているから問題ない(しかし子供達の中には、まるで天使のような性格のいい子がいることには見てみぬフリをしている)。
「別に、おままごと遊びは、年齢的には私達がやっていてもおかしくないはずよ」
「しっかりと聞こえているじゃないか……」
「聞こえていたけれど、それが?」
「何でもないよ……」
トイは諦めたように「ふぅ」と息を吐くと、話を戻した。
「確かに僕はあんまり興味ないけど……ネットとかで調べると、僕達くらいの年の子供が、何をしているかは知ることはできるね……」
「回りくどいわね。何が言いたいの?」
「でもさ……そっちの方がホントだとしても、この『壁の中』の外側には、そんな幸せな世界が広がっているっていうのが、フィクションではないにしたってさ――僕達の年齢の方は、よくわからなくない?」
「う、うん……まぁ、そうだけどさ……」
トイの言うことは確かにその通りだった。
私達はあまりに自分のことを知らない。
名前だって知らないし、物心ついた頃からの年数くらいは覚えている子はいても、自分の正確な年齢すら知らない。
体重も身長も正確な数値は知らない。この子はあの子よりは背が高いということくらいしかわからない。
あぁ、あと、外の世間を想像してみると思うんだけれど、『自分の顔が自分ではよくわかんない』というのは大きいんじゃないかな……。
この施設には完全に自分を写してくれる鏡というのが存在していないのだ(少なくとも私達が移動可能なスペースの中には)。
それに、外の世界では当たり前にあるらしい、『スマートフォン』だっけ? もない。
ああ、私が言いたかったのは、『スマートフォン』というのは、今の時代、時計やカメラとしての機能も担っているということ――つまり、カメラがないから更に自分の顔が把握しにくい、ということが言いたかったのだ。
外の世界では、流行っているかどうかは知らないけれど、『自画撮り』とか言って、自分の顔をカメラに写すことができるんでしょう? それができないってこと。
自分の顔を見る機会っていうと、例えば、共用のデスクトップパソコンの画面が、スリープ状態になっている時とかだろうか……特に施設の職員に、自分の顔を見ることを禁じられているワケではないのだ。
ただ、共用パソコンはそれなりに人気だから、スリープ状態になっていることはほとんどない。
つまり、自分の顔を見ることはかなり例外的な機会だった……だから、久しぶりに目にすると逆にビックリするくらいだ。
『これが自分の顔なのか』と違和感を持ってしまうくらい――美人とかそうではないとか、世間の基準に思いが至る以前に、そもそも、自分が本当にその顔なのかどうかということに、イマイチ確信を持てないレベルでさえあるのだった。
『いらない』子供達は、少なくとも外見的にはその名の通り、十代前半の子達が多いようには思う。
でも、時には年長な子もいて、そして、男の子達には髭が生えたりもするよね。
鏡がないと、電気カミソリでも剃ることが面倒だというのは聞いた話だ。
それはそうだろう。
剃り残しが視覚的に確認出来ないんだから。
だから、髭が生え始めた子は、施設の職員が剃ってあげたりしているんだよね――外の世界では、そういうことがないというのは、もちろん、パソコンで初めて知ったことだ。
小さい子は服を着替えるのが難しい場合は、それが簡単に行える年齢になるまで、職員が手伝ってあげたりしていたし、食事のサポートだってしてくれる。「あーん」と食べさせてくれる。
そういうサポートは、子供が育つにつれ、外の世界では自然と行われなくなるものらしい。
でもこの施設では、子供が希望する限り、いつまでもそういうサポートをしてもらえる。
「自分でできることは、自分でできるようになろうね」
というのは、健全な社会生活を営むために、外の世界では当たり前に課せられるレベルアップクエストだ。
しかし、この施設ではそれが行われていない。
甘やかされ続ける。
それは社会的な自立心を阻害されているということかもしれない――これは穿った見方とかじゃなくて、確実にそうだと私は思っている。
施設の職員は、不健全な非社会生活を送らせるための、甘やかしに満ちている。
まぁ、健全な社会生活とか言ったって、この施設での生活は、きっとどんな社会にも繋がっていないんだろうけれど――ある年齢に達した子供達は、ここではないどこかへ連れて行かれてしまうのだけれど、それは一体どこなんだろうね。
その未来が、灰色だろうと、暗黒だろうと(まさか『未来が希望』ということだけはあるまい)、私は別にどうでもいいと思っている。
自分が生きている人生というものに、別にそれほどの執着はないのだった。
「……取りあえず、ちゃんと『おままごと』しようよ」
話が脇に逸れてしまったので、私は軌道修正する。
それにしても、遊びって『ちゃんとやろう』とか、そんな風に気を張ってやるものなんだろうか……その時点で何かが大きく間違っているような気がしないでもないが……。
「それじゃ、配役は決まっているんだし、ストーリーを考えてよ、トイ」
「……う~ん、」
「ねぇ、物語を考えることも出来ないとか、トイは一体何ができるっていうの?」
「ぼーっとして、何も考えないのは、得意だよ……」
「それは得意とは言わないわ! まったくもう、じゃあ今回も私が考えるわね!」
「……ほら、やっぱりいつものパターンだ。だから、僕が……考える必要は、」
「何か言った?」
「言ってない」
「じゃあ始めるわ」
「うん」
「――ワタクシはクマの女王ですわ! さぁ、おもちゃの人形! そこに這いつくばるといいのですわ! 顔をヒールのカカトで踏んであげる……」
「……い、いきなり切り替えてきたね」
「ちゃんと演じてよ!」
「まず、それはクマの女王じゃなくて、クマの『女王様』じゃないかということを、僕は指摘しておきたい……」
「いいから!」
「……ふぅ、はい、這いつくばりました、女王様」
トイは一応おざなりながら、四つん這いの体勢になった。
私はその頭に、テディベアの足を乗っけつつ、しかし気に入らない。
私は『気に入らない』という心情を、至上主義とする女の子である。
「トイ――奴隷になりきれてない!」
「えっ、奴隷なの……!?」
トイが軽く眠そうな目を見開き、若干驚いたように(でもやっぱりぼんやりと)言った。
「おもちゃの人形と言ったら、奴隷と相場が決まっているでしょう……ご主人様には絶対服従!」
「な、なんだか……僕とソギの関係性に似ているような……僕って、奴隷だったの……?」
トイはつらそうでぼんやりとした顔をした。私は可愛くてきゅんきゅんとした。きゅんきゅんは嘘だけど。いやホントに。私がコイツにそこまでの感情を抱くはずがないでしょ!? 勘違いしないでよね!!
「え、えっと……踏みつけられて、僕は嬉しいです……?」
疑問形で言いながらも、トイは軽く涙目だった。やっぱり可愛いと思った。
私は更にぐりぐりとクマの足をトイの頭に擦りつけた。
「ほら、これがいいんでしょ……」
「うう、やめて、やめてよ……で、でも……ちょっと、いいか、も……?」
トイが何かに目覚め始めた。
私は無言でテディベアの足をトイの頭から離した。
なんかこういうのって、『プレイ』っぽいよね。もちろん、外の社会的に言えば、間違いなく未成年であるところの私は、その言葉の意味を明確に理解しているワケではないけれど。
その言葉がいかがわしいニュアンスであることくらいは知っていた。
さすがに、さすがにこれ以上はヤバい気がする……いや、行為としてではなくて、あくまで心の問題なんだけれど。
やっていたことと言えば、ただ単に四つん這いになった男の子の頭に、テディベアの足を押し付けていただけだし(いや、冷静になって客観視すると、それはそれで謎の構図ではあるのだが)。直接的に痛みを与えていたワケではない。
というか……それにしてもトイ、お前はなんでちょっと残念そうな顔をしているのよ……??
結局、その後は、若干距離を置いて、しばらく二人で黙りこんで、それからポツポツと雑談を再開した。
おままごとを繰り返すこともなく、その日の『何もないけど広い部屋』での時間は終了した。
次にトイと会った時、私達の関係が致命的に変わってしまうことを――この時の私は、知らなかった。




