雲雀娘と猫かぶり狼
「――可愛い可愛い雲雀さん。諦めて、私のものになりなさい」
繊細なレースに包まれた手が頬を甘く撫でた。
吐息を間近で感じる程の距離で、蜂蜜を溶かしたような瞳に見つめられる。
反射的に引いた腰は驚くほどの強さで固定され、動くことができない。
いったいぜんたい、何故このような状態に陥っているのだろうか――理解不能な現状に、逃避してしまいたかった。
アルクス・コロナ――誰が名付けたかわからないが、この大地は《虹の王冠》と称される。
七色の宝珠を司る七つの国が在り、多種多様な種族がそれぞれ住まう。
七つの内、六つの国は海上に浮かぶ大陸に在るが、残る一国は、空の上に存在している。空の国へ渡るには、地上の端に位置する二国からのみ移動手段があり、他国からは行き来をすることが難しい。
天空に位置するのは、緑の宝珠を守りしヴェルデ。そこより遥か地上を見下ろすと、王冠のような形をした大地が見える。縦長に三本の柱のように走る大地はそれぞれ、左から順に橙のラランジャ、青のアズゥ、藍のコルデアニルという。三国を底で繋ぐのが黄のアマレロであり、王冠の左右に虹の端を留めるが如く、雲のような形をした国をそれぞれ赤のベルメリオ、紫のヴィオレッタと呼んだ。
赤と紫から時折架けられる、空と地を繋ぐ橋は、それは美しい七色をしており、古の時代の遺物である魔具による転移の魔術が使用されている証であった。
――これは、天空の都ヴェルデの物語。
天空の楽園と謳われる緑の国ヴェルデ。その色のとおり、緑の美しい国である。宝珠の力で空に浮かぶ大地で鳥と共に生きる人々は、自らも背に翼を持つ者が多いが、地上の赤紫との行き来も多い為、移住の権利を得た他種族も暮らしている。
高度故に朝夕は寒さが厳しい日が多いが、その分日中は陽の光が降り注ぎ、汗ばむ程の陽気になる。独自の耐性を着けた植物達は非常に生命力が高く、薬としても良く効いた。自然とそこに生きる者達も、急激に変わる気候に強い印象を受けるが、王の治める首都は、古代の遺物である目に見えない障壁に包まれており、そこは常春の都と呼ばれていた。一年を通して気候の急な変化が少なく、正に春のように穏やかな空気が漂っているのだ。それは緑の宝珠の恩恵でもある。神がこの世を去る時に遺していったと言われる宝珠には、大地を浮かせ、人々の暮らしを豊かにする不思議な力がある――それは正に、神の御技に違いないと、人々は信じていた。
五十年に一度、アルクス・コロナの国々には、それぞれの宝珠を浄める為に神子と呼ばれる存在が生まれる。宝珠の恩恵は強いが、その力は無尽蔵ではない。動き続けることで歪みが生まれ、蓄積されていく。それを浄化し正す力を持つ者が、聖なる者たる神子である。その清めの力こそが、神の子と呼ばれるゆえんなのだ。
首都は城壁都市でもある。壁の中央に聳えたつ荘厳な白亜の城では、その日、神子の御披露目があっていた。此度の神子は見目麗しい、優美な猫を思わせる容色の持ち主である。金の髪は陽光を弾き、蜂蜜色の瞳はつり目がちだが愛らしい。
可愛らしくも美しい清楚な美少女だ、と、一人の少女は思った。
父に連れられて登城したが、王族の一人である今回の神子は背に純白の二対の翼を持っている。王家の人々が揃うと、その翼といい美しい容姿といい、非常に目の保養になる。
神子について口上を述べる宰相の声を右から左に流しながら、彼女は父の影に隠れてきらびやかな世界を見ていた。
彼女は眩しいものが苦手だった。この国自体が総じてきらきらとしているが、出来れば一生引きこもって薄暗い部屋で暮らしたい。理想を言うならば、地上に降りてもっと目に優しい所に移住したい。そんな、ヴェルデに住まう者にしては異端な思考の持ち主なのだ。
それには、とある理由があるのだが。
(ああ、あの翼はもふもふしてみたい……)
ぼんやりと神子の翼を眺めていると、その榛の瞳と視線が合わさった。突然のことに目を見開き、少女は頭を下げると完全に父の背中に引っ込む。どくどくと心臓が激しく脈打ち、同時に冷や汗がどっと流れ出る。
(だ、大丈夫大丈夫、まだ大丈夫……っ!)
少女が自分を落ち着かせていると、ほう、と居並ぶ人々が感嘆の溜め息をついたのがわかった。素晴らしい銀の毛並みの狼が一匹、王より神子に賜れたのだ。
披露目の日に神子は成人し、護衛且つ眷属として獣を一体、王より授けられる。前回の神子は獅子であったそうだ。狼は神子をじっと見つめると、自然と頭を垂れ、彼女の足元に寄り添う。金と銀の組み合わせは非常に麗しい。
それを見た少女は――
(あああ、やっぱりもふもふしたい!)
ふさふさの尻尾が「もふかろう」と囁きかけてくるような幻聴を耳にしていた。つまり、非常に残念な思考回路を巡らせていたのだった。
(神子の御披露目があってから、物語がはじまる……)
暫くのち、少女は父と帰途につく為馬車に揺られながら物思いに耽っていた。
(やっぱり成敗されちゃうのかな……うう、痛いのは嫌だ……!そもそも私、ヒロインの邪魔をする気ないから……!)
頭を抱えて静かに悶える娘を若干生暖かい眼差しで見つめる父。幼い頃から奇抜な行動が時折目立つ娘に、家人はもう慣れっこだった。最も、彼女が何を考えているのかは知る由もないのだが。
少女の名は、アルエット・オニクス。一男三女のオニクス伯爵家の末っ子。上の兄姉たちと少しばかり年が離れて生まれたので、家族に可愛がられて育ったが、どういうわけか本人は日陰や暗い色を好み、目立つことを厭う。生まれてすぐに病弱だったこともあり、薬師である母方の祖母の所で数年療養していたことが尾を引いているのだろう、と皆思っていた。
内実は、大分異なる。
そもそも、アルエットははじめ普通の少女であった。祖母も昔は王宮に仕えていた薬師であり、別に闇や暗色を好む質ではない。調合の時は汚れが目立たぬ黒服を着ていたがそれだけだ。
全ての原因は、五歳の時、足を滑らせ転んで強かに頭をぶつけた時――荒唐無稽に聞こえるだろうが、所謂「前世の記憶」を思い出したのが理由である。
前世の彼女はしがない中小企業の事務職に務める、平凡な女子社員だった。三十路を前に恋人の一人もいたことがなく、目立つのが嫌いで隅っこにいると落ち着くイキモノ。そんな前世の趣味は、読書と無料ゲームをプレイすること。
物心ついた時から身近にあったので当たり前のように思っていたが、この世界にはとにかく、もこもこもふもふした生き物が多い。それを改めて実感したことから、前世の記憶とカチリと当てはまったことがあった。
――もふもふパラダイス、と巷では有名だったゲームだ。ゲームタイトルは別にあるのだが、謳い文句が「もふもふと触れあいながら恋を育むRPG」という異色のものだった。とにかくもふもふ――動物の柔らかな毛や羽が空気を孕み、触れて形が変わってもすぐに元に戻る至上の柔らかさを表す擬態語――な生物がたくさん出現し、画面の前の人々を悶絶させたゲームであった。
触りたいけど触れない、ある意味ゲーマーをドMにするドSなゲームとも言われていた。これだけ聞くと若干いかがわしい。ストーリーの主旨としては、神子の浄化の力を増幅させるという特殊な能力を持つ主人公の少女もしくは少年が、もふもふと触れあいながら、各国の宝珠の浄化を手伝い、同時に出会った主要キャラクターと愛を育む物語、なのだが。
問題は、一国に一人はライバルキャラがおり、物語自体は特に年齢規制がなかったものの、全年齢対象だけで物足りなかった人の為に、有料且つ年齢規制を設けた裏の物語があったことだ。当然恋愛の部分が強いそれは、おててを繋いでデートのレベルから一気に大人向けな内容になり、ライバルキャラの蹴落とし方が、ライバルが差し向けた暗殺者に逆に襲われてしまうとか、他国に放逐されるとか、攻略対象に退治されたりとか、それどころかじゅうはっきんな目に遭った挙げ句に廃人になるとかとんでもねえバージョンなのである。ゲームは無料が基本だったが、好奇心に負けて課金した唯一のゲームだっただけに、衝撃は大きかった。
そして、その中で、緑の宝珠の国ヴェルデにおいて、攻略対象は二対の翼を持つ神子。主人公に嫉妬して嫌がらせをし続けた末に、神の子直々に天罰を下され消し炭にされていたのが――アルエット・オニクスなのである。ゲームの中の彼女は幼い頃から我が儘放題に育ち、ほしいものは何でも手にしてきた。綺麗なものを好み、神子を一目見た時から気に入ってしまう。主人公が少女、つまり神子が男である時は恋愛対象として、主人公が男で神子が女である時は、至上の美を愛でるように憧憬が高じた執着で、主人公に対して凄まじい嫌がらせを繰り返す――。
そんなこと、天地がひっくり返っても嫌だ。というか出来ない、というのが前世の事なかれ主義の日陰好き女による見解である。記憶が戻る前は正に我が儘娘になりかけていたから、頭を打って万々歳だった。
神子が美少女ということは主人公は男だろう、嫌がらせなんてする気は全くないし、神子にも関わらずに生きよう――アルエットはそう誓った。
これで安泰だ、そう思った時期がありました。
誰もいない部屋の中、壁ドンならぬ椅子の背ドンをされて、レースがふんだんに使われた手袋に包まれた手が、自分の不健康そうな青白い肌を撫で、黒い髪を絡めとる。その妖艶な手付きに鳥肌が立った。
蜂蜜を溶かしたようなどろりと甘い瞳には、捕食者の光が宿っている――。
「――私の可愛い雲雀さん。決して逃がさないよ」
何でも言うことをきいてしまいそうな美しい声を紡ぐ唇に悲鳴が吸い込まれていく。
――なんでこうなった、と、少女とばかり思っていた青年の、細身だががっちりした腕に囚われながら魂を飛ばした。
結局、主人公――女だったらしいが別の国で幸せになったと聞いた――に会うことは一生なかった。
二対の翼と狼のもふもふさを堪能できる権利だけは、素直に嬉しかった。
「もふもふ……しあわせ……」
でもやっぱり眩しすぎるから日陰に行きたい。そんなことを言うと、わざと一ヶ月はカーテンすら閉めさせてくれないのでもう何も言うまい。
もふかのう、なんて呟きながら、胸中で何度でも言う。
どうしてこうなった。
答える者はない。