9
思わぬところで思わぬ相手から正確な発音で名前を呼ばれたせいか、じわじわと、言いようのない不安が込み上げてくる。おかしいな、なんでだろう。なんで私、「呼ばれたらまずい」って、思ったんだろう。
まさか「誰も私の名前をちゃんと呼んでくれない世界で、あなただけが呼んでくれたの」とかいってときめいちゃうフラグ? いやいや、やばいよ、相手が悪すぎるよ。
彼は私の耳元に唇を寄せて、嬲るように「ミツキ」と繰り返した。
「ミ~ツキ。ほら、僕練習したんですよ。だって、お嫁さんの名前くらいちゃんと呼べるようになってないと。ねぇ? それに比べてあなたのお仲間は酷いですよね。5年も一緒にいるのにまともに名前の一つも呼べないんですから。よほどあなたがどうでもいいのか、それとも……」
呼んではいけないのか。
「なに、言って……」
「僕達と違ってあなた方バケモノには翻訳魔法とやらが掛かっています。あなた、前に言ったでしょう。自分の名前は『満月』の事だって。それなら、彼らがその意味を意識して呼びさえすれば、発音に関係なくあなたの頭には本来の意味で再生されるんじゃないんですか? ほら、こんな風に。『満月』」
ぐあん、と頭が揺れた。
「どうですか、ミツキ? あ、今のは音として発音しました。ではもう一回、心をこめて呼ぶので僕の口の動きを見ていてくださいね。いきますよ。『満月』」
ぐああああん。
「うっ」
な、なるほど。単なるミツキ、とはまた違う。口の動きは「ミツキ」ではなかったのに、「満月」と聞こえた。
明らかに「私」を呼んでいるとわかる。心と頭に響く。だけど。
「あるいはそうかもしれませんが。でも、人の名前の意味なんて、意識したりはしない、でしょう?」
「でもあなたはきちんと発音されないのが不満だと、よく漏らしているでしょう」
そんな事までこいつに伝わっているのか。裏切り者は随分奥まで潜り込んでいるみたいだ。帰ったら、報告しないと。
「そんな不満を聞いたら、気まぐれにでも『呼んでみよう』って気になりませんかね? この、僕のように」
ね、「満月」と三度呼ばれて、私はたまらず耳を塞いだ。
これ以上聞いてはいけない。咄嗟にそう思った。
やめてきかせないできづかせないでよばないでゆうわくしないでわたしはあのばしょにいたいのあのばしょにいなきゃいけないのだってそとにでたらわたしはいきていけないしもとのせかいにかえるためにはぎるどのちからがひつようだしだからだからわたしはなにがあってもあのひとのそばにいなきゃいけないのいいこにしてなきゃいけないの
あの、声が。頭の中でわんわんと響きだす。ぐらぐらと視界が揺れて、また頭痛が始まった。
目の前の男が何やら口を動かしている。あれ、まだ何か言ってるみたいだけど、なんだろう……。
空気に薄い靄が掛かって、やけに何もかもがゆっくりになった。わたし、なにしてるんだろう。このひと、だれだっけ……。
「聞きなさい、『満月』!」
「ひっ」
強引に腕を耳から引きはがされ、ねじり上げられた。
痛みのせいで再び音が戻って、世界が動き出す。
「あなたはギルドのやる事に疑問を持たない。不満を表さない。なぜですか?」
「しらない。ぎ、疑問がないわけじゃない。不満だって、こうやって発散させてるし……」
「でも、逃げ出そうとしない。逃げるあてはいくらでもあるのに」
「逃げるほど酷い目に、遭ってない!」
「何をばかなことを。あなたはとても酷い事をされているのに。気付いてないだけですよ」
可哀想ですねぇ、と彼はおかしそうに嗤った。
そんなことない。
そりゃ、嫌な仕事をさせられたよ。でもそんなのはわかってたことだ。いつももらっているお給料はいわば、先払いの危険手当。何もしないけれど、もらえるものはもらっておくなんて、私にはできない。
だから私は、あくまでもイーヴンな立場で仕事をしただけだよ、そうでしょう?
「それについては同意見です。そのことではありません。そんなのは当たり前のことです。むしろ、それを嘆くような甘ったれでは困りますよ」
「じゃぁ、なんなんですか! まどろっこしい、はっきり言ったらどうなんですか!」
「知りたいなら一緒に来なさい、ミツキ」
このやろう!
私はめちゃくちゃに身体をねじって、腕の自由を取り返した。ぎゅっと身を縮めて、睨みつける。
「あなたが何を知っているのかは知りませんが! 私にとって、あそこが『家』なんです! 別館のみんなが大事です。彼らと離れるなんて、嫌だ、できない!」
「おかしなことをいいますねぇ。あなたはもうとっくに、大事なものなんか失ってるじゃないですか。元の世界の家族も友人も、もしかしたら恋人だって、もうあなたは失ってるんですよ? それなのに今更失うのが怖いだなんて」
「やめてよっ!」
「では、元の世界に残してきたものは、あのバケモノの楽園で得たものより価値がなかったんですか? そんなことはないでしょう? ね? ……あなたはもう、一番大事なものを失っているんです。だからもう一度失うくらい、なんてことないんですよ」
このやろう、このやろう! なんて酷い事言うんだ。そんなの、来たばっかりの頃にさんざん悩んださ! どうにかこうにか折り合いつけて、自分を誤魔化して、必死で生きてんだよ、こっちは!
こらえていた涙が、とうとう溢れだした。あぁもう最悪だ。苦しいし、悔しいし、悲しいし、つらい。
彼は私の涙を親指ですくいとって、ちろりと舐めた。うげぇ、なんつーことすんだよ、引くわぁ……。
「泣かせるつもりはなかったんですけどねぇ」
え、あそこまで人を追い詰めるような事言っておいて、そんなつもりなかったんだ、そうなんだ……? やっぱりドSの国の王子様は違う。
このヒトの国で生きるなんて絶対無理だ。
「困りました、涙を止める方法なんて一つしか知りませんよ」
「どうせいっ、息の根、止めるって、方法でしょ」
正解です、と彼は頷いた。
そして、ようやく私から身体を離して、立ち上がった。




