「灯台なんて使用人でも管理できる」と婚約破棄されたので、本当にお任せしました
「セレナ・ルクスフィール。今日をもって、私はお前との婚約を破棄する」
アルビオン王国の第二王子ユリウスは、王宮の大広間に集めた貴族たちの前で言い放った。
王家の紋章を背負い、金髪を整えたユリウスの隣には、一人の令嬢が寄り添っている。
シーグラン侯爵令嬢マリベル。
桃色のドレスに、宝石を散らした金の髪。王都の流行を誰より早く取り入れることで知られる、可憐な少女だった。
対するセレナは、海風に耐えるための厚い青の外套をまとっていた。王宮の華やかな装いには似つかわしくない。だが、それがルーメリア港の灯守にとっての正装だった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「まだ分からないのか」
ユリウスは呆れたように鼻を鳴らした。
「お前は毎日、港の外れにある灯台へ籠もっている。王家の婚約者でありながら、夜会にも茶会にもろくに参加しない。潮臭い外套をまとい、手には火傷の痕まである。そんな女を王家へ迎えれば、私まで田舎者だと笑われるではないか」
大広間から、控えめな笑い声が上がった。
セレナの生家であるルクスフィール家は、アルビオン王国最大の港町ルーメリアを代々治めている。
同時に、沖合の小島に立つルーメリア大灯台を管理する灯守の一族でもあった。
大灯台の最上階には、青白い炎がともっている。
初代灯守が海の精霊から授かったと伝えられる聖火だ。
灯守の血を引く者が毎日魔力を注ぎ、祈りを捧げ、炎を整えなければならない。セレナは幼い頃から一日も欠かさず、その務めを果たしてきた。
「聖火の管理には、毎日の調整が必要です」
「火を灯すだけだろう」
ユリウスの言葉に、マリベルが可愛らしく笑った。
「ユリウス様。あまりセレナ様を責めてはお気の毒ですわ。ルーメリアの方々は、昔からの方法しかご存じないのでしょう」
「昔からの方法?」
「わたくしの父が治めるマレス港にも、大きな灯台がありますの。けれど、管理は使用人に任せていますわ。魔石を交換して火をともすだけですもの」
マリベルは扇で口元を隠し、セレナへ得意げな視線を向けた。
「灯台の管理が大変なお仕事だなんて、少し大げさではありませんこと?」
マレス港は、王国で二番目に大きな港町だ。
王都にも近く、外国の宝石や衣服が集まるため、貴族からはルーメリアより洗練された都市だと思われている。
マレスにも灯台はある。
だが、そこにともる火は聖火ではない。
ルーメリア大灯台から流れる加護を受け取り、周囲へ広げるための中継灯だ。魔石さえ交換すれば使用人でも維持できるのは、根幹となる聖火をセレナが守っているからだった。
その事実は、長い平和の中で忘れられていた。
「マレス灯台の火と、ルーメリアの聖火は異なります」
セレナが説明しても、ユリウスは片手を上げて遮った。
「言い訳は不要だ。マリベルにできて、お前にできないはずがない」
「わたくし自身が火をともしているわけではありませんわ」
「使用人にもできるという意味だ。なおさら同じではないか」
マリベルは困ったような表情を作ったが、ユリウスの誤解を訂正しようとはしなかった。
彼女は以前からセレナの婚約者という立場を欲しがっていた。
王国最大の港町を治めるルクスフィール家より、王都に近いマレス港を治めるシーグラン家の方が王家にふさわしい。田舎の灯守より、自分のように流行と社交へ通じた令嬢こそ王子妃になるべきだと信じている。
「これからはマリベルが私の婚約者となる」
ユリウスはマリベルの肩を抱いた。
「王家としても、王都に近いマレス港との結びつきを強める方が有益だ。お前にはルーメリアへ戻り、これまで通り灯台を管理することを命じる」
「婚約は破棄するが、聖火は守れということでしょうか」
「当然だ。それがルクスフィール家の役目だろう」
「王家は、私の務めを不要だと判断されたのでは?」
「お前は不要だが、仕事まで放棄してよいとは言っていない」
貴族たちが笑う。
王子妃としては不要。
しかし王国を守るためには、今まで通り休まず働け。
ユリウスは、それを当然の命令だと考えているらしい。
「承知いたしました」
セレナは静かに頭を下げた。
「婚約破棄をお受けいたします」
「聞き分けがよくて助かる」
「同時に、王家との契約に基づく聖火の供給も終了いたします」
ユリウスの笑顔が止まった。
「何を言っている」
「ルーメリアの聖火は、王家とルクスフィール家の契約により、アルビオン王国全土へ加護を分配しています。婚約とともに両家の契約を解消されるのでしたら、王家へ加護を提供する義務もございません」
「そのような話は聞いていないぞ!」
「契約書には記載されています」
「古い書類の話など知らん。都合よく解釈するな」
セレナはこれ以上説明しなかった。
「それでは、失礼いたします」
「待て。勝手に灯台の火を消すなよ」
「ルーメリアの聖火は消しません」
セレナは振り返り、初めてユリウスの目を真っ直ぐに見た。
「ルーメリア港に暮らす皆さんは、私の務めを理解してくださっていますから」
翌日の夕方、セレナはルーメリア港へ帰った。
石造りの桟橋には漁船と商船が並び、荷運び人たちが忙しく働いている。魚を売る女性、網を直す老人、船の間を走り回る子供たち。誰もがセレナの姿を見つけると声をかけてきた。
「セレナさん、お帰り」
「王都はどうだった?」
「今日は風が強いぞ。灯台へ渡るなら気をつけな」
婚約破棄の知らせは、すでに早馬で届いていた。
だが、腫れ物に触るような態度を取る者はいない。
漁師の一人が、焼いた魚を包んだ紙を差し出した。
「王宮の連中は見る目がねえな。これ、食ってけ」
「ありがとうございます」
「礼なんかいい。毎晩、俺たちを帰してくれてるのはセレナさんだろ」
それはルーメリアでは当たり前の認識だった。
船乗りは、暗い海の先に見える青白い灯を頼りに帰ってくる。
漁師たちは、聖火が強い夜には魔物が沖へ逃げていくことを知っている。
灯台の外壁を修理する職人も、食事を運ぶ住民も、セレナ一人へ仕事を押しつけようとはしなかった。
彼女が聖火を守り、町の人々が彼女の暮らしを支える。
ルーメリアでは、それが何百年も続いてきた。
セレナは港から小舟に乗り、沖の小島へ渡った。
大灯台の最上階では、青白い聖火が静かに揺れている。
「お帰りなさい」
背後から男の声がした。
長い銀髪を後ろで束ね、濃紺の外套をまとった青年が、窓辺に立っていた。
ノア・アクアリオ。
世界一の水魔術師と呼ばれる男であり、海流、海中魔力、海の魔物に関する研究の第一人者だ。
「ノア様。いつからこちらに?」
「昨日からです。王都で婚約破棄が行われると聞いたので、あなたが帰るまで聖火を見ていました」
「聖火に異常はありませんでしたか」
「ありません。ただ、王家へ流れていた魔力の経路が切れかけています」
ノアは聖火の周囲へ浮かぶ魔法陣を見上げた。
セレナには炎としてしか見えないが、彼には複雑な魔力の流れが見えている。
「やはり、王家との契約が加護を分配していたのですね」
「ご存じだったのですか」
「小さい頃から、この聖火を研究していますから」
ノアは幼い頃、海難事故に遭ったことがある。
乗っていた船が魔海の霧に呑まれ、海魔に囲まれた。誰もが死を覚悟した時、遠くからルーメリアの聖火が一度だけ強く輝き、霧も海魔も退いたという。
それ以来、彼は水魔術を学び、海と聖火の研究を続けてきた。
「王宮の方々は、マレスの灯台が同じ役割を果たせると考えているようです」
「無理ですね」
ノアは即答した。
「マレス灯台は、ここから送られた加護を拡散するだけの設備です。たとえるなら水路です。水源が止まれば、水路だけ残っていても意味はありません」
「そのことを、王家へ説明していただけますか」
「何度も報告書を出しました。難しい理論は分からないと返されました」
ノアは肩をすくめた。
「ユリウス殿下からは、灯台守に取り入る変人と呼ばれました」
「申し訳ありません」
「なぜあなたが謝るのですか」
ノアは真顔でセレナを見た。
「僕は、あなたの仕事を尊敬しています。あなたが毎日どれほどの魔力を使い、炎を制御し、この海を守っているか知っています。理解しようとしなかった者の言葉で、その価値が変わることはありません」
セレナは返事に迷った。
王宮では、何度説明しても理解されなかった。
ルーメリアの住民は感謝してくれるが、聖火の仕組みを正確に知る者は少ない。
ノアだけは、セレナ自身さえ感覚で行っている調整を数値にし、その重要性を証明しようとしてくれていた。
「ありがとうございます」
「事実を述べただけです」
ノアは聖火へ向き直る。
「王国全土への供給を止めますか」
「はい。ただし、ルーメリアの結界は維持します」
「分かりました。僕が魔力の流れを切り分けます」
「よろしいのですか⋯⋯?王立魔術師であるノア様が協力すれば、反逆と見なされるかもしれません」
「僕は昨日、王立魔術師を辞任しました」
セレナは目を見開いた。
「なぜですか!」
「海を理解しようとしない王家へ仕えても、研究成果を役立てられません。それに、今後はルーメリアで聖火を研究したいと思っています」
「長期間の滞在になりますよ」
「望むところです」
ノアは少しだけ笑った。
「あなたのそばなら、研究対象にも困りませんから」
二人は夜通し、聖火へつながる魔力の経路を整えた。
ルーメリア周辺を守る流れだけを残し、マレス港、王都、海軍施設へ向かっていた加護を閉じる。
聖火は消えなかった。
むしろ、これまで王国全土へ薄く広げられていた力がルーメリアへ集まり、青白い炎は以前より強く輝いた。
翌朝、ルーメリア港には一隻の被害もなかった。
海は穏やかで、魔物の姿もない。
一方、マレス港では異変が始まっていた。
「どうして灯台の火が弱くなっていますの!」
マリベルは灯台の管理人を怒鳴りつけた。
「魔石は交換しました!しかし、何度灯しても炎がすぐ消えてしまうのです!」
「そんなはずありませんわ!ルーメリアの女は、火をともすだけだと言っていましたでしょう?」
「そのようなことは申しておりません」
「同じようなものでしょう!」
マリベルは使用人から火種を奪い、自ら灯台へ火を入れた。
炎は一度だけ大きく揺れ、すぐに消えた。
夜になると、沖合に黒い霧が現れた。
魔海だった。
これまでも魔海は存在していた。
しかし、ルーメリアの聖火が生む結界に阻まれ、アルビオン王国の沿岸へ近づけなかったのだ。
その夜、マレス港の船が三隻戻らなかった。
翌朝には沖から海魔の群れが現れ、港へ停泊していた商船を襲った。倉庫が壊され、船着き場が崩れ、海岸沿いの住民が内陸へ逃げ出した。
マレス港は王都から近い。
港を越えた魔海の霧は川を遡り、数日も経たないうちに王都の外壁まで到達した。
「ルーメリアの灯守を呼び戻せ!」
王宮で、ユリウスは机を叩いた。
「今すぐ聖火を元に戻させろ!」
使者はルーメリアへ向かった。
しかし、数日後に持ち帰った返答は短かった。
「セレナ様は、王家との契約はすでに終了したと申しております」
「命令に従えと言え!」
「ルーメリアの住民が町への立ち入りを拒んでおります」
「平民風情が王家の使者を拒むだと?」
「ノア・アクアリオ様も、王家の権限はルーメリアへ及ばないと」
ユリウスは顔を歪めた。
「ノアまで、あの女にたぶらかされたか」
「殿下、どうしましょう」
マリベルが涙を浮かべて縋った。
王都へ逃げてきた彼女のドレスは汚れ、髪も以前のようには整っていない。
「マレスの屋敷も、港の倉庫も失いましたわ!あの女が意地悪をしなければ、このようなことにはならなかったのに⋯⋯!」
「安心しろ。私が必ず罰を与える」
「でも、魔海が王都まで⋯⋯!」
「海軍が追い払う」
だが、海軍の艦船は聖火の加護を失い、出航直後に魔海の霧へ呑まれた。
魔物の群れが王都の水路から侵入し、城下町は混乱に陥った。王族は城の奥へ逃げ込み、騎士たちは住民を守るより先に王宮の門を閉ざした。
ユリウスとマリベルが安全な地下通路へ逃げようとした時、大きな揺れが王宮を襲った。
地下水路から巨大な海魔が現れ、王宮の一部を破壊したのだ。
「こんな未来、聞いていない!」
ユリウスは叫びながら逃げた。
「なぜ火をともすだけの女がいないだけで、こうなるんだ!」
答えられる者はいなかった。
数日後、王都からの使者が再びルーメリアへ到着した。
今度は王命ではなく、救援を求める書状を持っていた。
セレナは港の集会所で書状を読み、静かに机へ置いた。
「行くのか?」
漁師の一人が尋ねる。
「ルーメリアを離れれば、結界は弱まります」
「なら行くな。あんたを捨てた王家だろ」
「ですが、王都には大勢の民がいます」
港町の人々は反対しなかった。
ただ、心配そうにセレナを見る。
ノアが地図を広げた。
「あなたが王都へ行く必要はありません。聖火を移動させればいい」
「移動できるのですか」
「本体は無理です。しかし、僕の水魔術で海と水路をつなぎ、ルーメリアの結界を王都まで一時的に伸ばせます」
「魔力が足りません」
「二人なら足ります」
ノアは当然のように答えた。
「王家を救うためではありません。助けを求めている民を救うためです」
セレナは頷いた。
二人は大灯台の最上階へ上がった。
セレナが聖火へ魔力を注ぎ、ノアが海水を通じて術式を広げる。青白い光は海面を走り、マレス港を越え、川を遡って王都へ届いた。
魔海の霧が薄れていく。
水路に入り込んだ海魔は力を失い、騎士と住民たちによって追い払われた。
壊滅寸前だった王都は、ようやく危機を脱した。
だが、王宮だけには結界が届かなかった。
「なぜ王宮を守らない!」
後日、捕らえられたユリウスは、ルーメリアから派遣された使者へ怒鳴った。
「私は第二王子だぞ!」
「セレナ様は民の救援要請を受けただけです。王家との契約は結び直しておりません」
「ならば、今すぐ契約を戻せ!」
「王家は今回の混乱により統治権を失いました」
ユリウスは言葉を失った。
逃亡を図った王族は騎士たちに拘束され、避難する住民を置き去りにした責任を問われていた。
マリベルもまた、マレス港の灯台は自分たちだけで管理できると虚偽の主張を繰り返し、被害を拡大させたとして侯爵家と共に爵位を失った。
王都とマレス港の復興は、ルーメリアの商人とノアの魔術師団が中心になって進めることになった。
セレナは王都へ移るよう求められたが、すべて断った。
「私はルーメリアの灯守です」
彼女がそう答えると、港町の住民たちは誇らしげに笑った。
夕暮れの大灯台で、セレナはいつものように聖火の調子を整えていた。
隣ではノアが炎の魔力を記録している。
「王都から、またあなたを海務大臣にという要請が来ています」
「お断りしてください」
「女公爵にという話も」
「必要ありません」
「では、僕との婚約はいかがでしょう」
セレナの手が止まった。
「それも、王都からの要請ですか」
「僕個人の希望です」
ノアは記録板を置き、真剣な顔でセレナを見る。
「僕は幼い頃から聖火に憧れていました。けれど、ここへ通ううちに分かったのです。僕が見たかったのは炎だけではありません」
「では、何を?」
「聖火を守り続けるあなたです」
セレナは窓の外へ目を向けた。
ルーメリア港には、今日も多くの船が戻ってくる。
桟橋では人々が家族を迎え、子供たちが灯台へ手を振っていた。
守りたかった景色が、そこにある。
「灯守の生活は大変ですよ」
「知っています」
「夜会にも、あまり出られません」
「僕も興味がありません」
「海風で髪が傷みます」
「水魔術で整えられます」
セレナは小さく笑った。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「はい。セレナ」
青白い聖火が、夕闇の海を照らしている。
その灯は王家のためではなく、海で生きる人々と、セレナを必要としてくれた町のためにともされていた。
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