地獄の始まり
俺の両親はいない。
幼い頃、事故で亡くなった。
それでも、不幸だと思ったことはなかった。
俺――神代蓮を受け入れてくれた家族がいたからだ。
幼馴染の澪が、必死に頼み込んでくれたらしい。
あの家で過ごした十年は、今思い出しても幸せだった。
……あの日が来るまでは。
俺たちは誰かに妬まれるようなことも、悪いこともしていない。
それなのに、あの夜――
化け物に襲われた。
後から知った。
あれはゲヒュールだったらしい。
幸せから絶望へ落ちる瞬間の感情が、
大好物の個体だったと。
今でも、憎んでいる。
澪の両親は、足がすくんで動けない俺を庇った。
それでも恐怖で動けない俺の手を、澪が掴んだ。
そして、引っ張って逃げてくれた。
警察署で保護されたとき、
俺は震えながら思っていた。
――あの時、恐怖さえなければ。
――俺が動けていれば。
大切な家族を、失わずに済んだんじゃないかと。
壁の向こうから、澪の泣き声が聞こえる。
その時だった。
声が聞こえた。
契約すれば――
そのいらない感情を食べて、力にしてやる、と。
何を言っているのか分からなかった。
それでも俺は、応じた。
後でゲヒュール対策課の人間が何か言っていたが、
その時の俺には何も聞こえていなかった。
「四十九日か……」
小さく呟く。
涙がこぼれる。
悔しいと思った。
惨めだと思った。
隣にいる澪を見る。
俺まで泣いてはいけないと思った。
一番つらいのは澪のはずだから。
「……澪?」
「そろそろ帰ろっか。」
澪はそう言った。
涙はなかった。
我慢している様子すらない。
その瞬間、俺は悟った。
――澪は、悲しみを捨てたのだと。




