プライド
「今から君に、本気で威嚇する」
「……?」
神代はわずかに眉を寄せる。
「あー……」
フクスは視線を逸らした。
「私を舐めない方がいい」
軽く言ったはずの言葉が、やけに重い。
「本気で耐える気が無いなら、壊れるぞ」
「分かりました」
間髪入れずに返る。
フクスの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……やはり、やめないか?」
「どうしてですか?」
「未来を見た」
短く。
「どれも同じだ」
視線が落ちる。
「日常生活が出来なくなったお前を、幼馴染が支えている」
一拍。
「例外は……ほぼ無い」
沈黙。
「だってさ、やめなよ」
朱音が軽く言う。
「成功すれば……フェアツヴァイフルングに対抗できますか」
フクスは迷わない。
「出来る」
「それだけのリスクだ」
神代は小さく息を吐いた。
「白崎さん」
視線は逸らさない。
「もし俺が壊れたら、殺して捨ててください」
一瞬、空気が止まる。
「澪には……上手く誤魔化してくれると助かります」
朱音は顔をしかめた。
「嫌すぎる役割なんだけど……」
「はぁ……分かった」
フクスが言う。
「始める」
――その瞬間。
何も、起きていない。
はずだった。
だが。
空気が、重い。
音が遠い。
視界の端が、歪む。
心臓の音だけが、やけに近い。
「……っ」
俺に付いているゲヒュールが、必死に恐怖を喰っている。
だが、追いつかない。
呼吸が、合わない。
吸っているはずなのに、足りない。
フクスは動いていない。
ただ、そこにいるだけだ。
なのに。
身体が、拒絶している。
――違う。
拒絶じゃない。
「――ッ!」
腕が勝手に前に出る。
光が走る。
無意識のまま、バリアが展開される。
「……は」
理解が追いつかない。
攻撃の意思は無い。
分かっている。
なのに、防いでいる。
違う。
防いでいるんじゃない。
壊れないように、繋ぎ止めている。
「恐怖は、拒絶でもある」
フクスの声だけが、近い。
「危険から離れるための反応だ」
一歩。
距離は変わらないのに、近づいた気がした。
「だがな」
空気が沈む。
「それは“まだ余裕がある状態”の話だ」
視界が揺れる。
足元の感覚が消える。
「本物は違う」
短く。
「崩壊だ」
音が消える。
思考が遅れる。
「拒絶なんて選択肢は無い」
「壊れるだけだ」
白く焼ける視界の中で、
逃げろ、と本能が叫ぶ。
だが。
動けない。
「お前は今」
声だけが鮮明に届く。
「感じていないんじゃない」
一拍。
「壊れるのが遅れてるだけだ」
――その理解と同時に。
思考が、途切れる。
何も考えられない。
空白。
そのはずだった。
だが――
浮かぶ。
澪の顔。
動けず、守られたあの時。
胸の奥に残ったもの。
惨めさだけか?
今は違う。
あの時、何も出来なかった自分が――
許せなかった。
繋ぎ止める。
崩れるはずの思考を、無理やり引き戻す。
もし今、隣に澪がいたら。
守れずに、死なせるのか?
――そんなの、許せるか。
胸の奥で、何かが噛み合う。
知らない感情。
だが、確かにそこにある。
「……いい」
フクスが、わずかに笑う。
「その匂いだ」
声が低くなる。
「忘れやしない」
一歩、踏み込む。
「土壇場でそれを引きずり出すか」
「奪ったはずなのに」
楽しそうに。
「……言ってはなんだが」
「壊して良かったよ」
神代の視線が、かろうじて上がる。
「そのおかげで、もう一度会えた」
一拍。
「プライドってやつにな」
――プライド。
これが?
下らないとすら思う。
だが。
それでも。
それが、繋いでいる。
崩壊を、押し留めている。
気づけば。
恐怖が、薄れていく。
喰われている。
今度は、追いつく。
やがて。
何も、感じなくなる。
フクスの威圧は続いているはずなのに。
静かだった。
「はぁ……」
フクスが息を吐く。
「成功だな」
少しだけ肩をすくめる。
「正直、どう説明するか困ってたよ」
白崎朱音は困り顔で言った。
神代は、まだ息が荒い。
「……強化、されたんですか」
フクスは答えない。
ただ、顎で示す。
「使ってみろ」
神代は手をかざす。
バリアを張る。
――何も起きない。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
フクスが、にやりと笑う。
一歩近づく。
前足を差し出す。
それを、神代の手に触れさせる。
瞬間。
フクスの前足が、崩れる。
音もなく。
形を保てず。
「フクス!」
朱音の声が響く。
フクスは気にも留めない。
「治らんな……」
軽く眺める。
「後で黒崎迅のリンクスに頼むか」
神代は、固まったまま言う。
「……すみません」
フクスは、わずかに笑った。
「いや」
「礼を言うよ」
視線が細まる。
「久しぶりに、“好きな味”に出会えた」




