ヴェーラー
「神代君……」
呼ばれた瞬間、足がわずかに止まる。
振り返る前に、声の主は分かっていた。
「黒崎さん」
視線を合わせると、黒崎はほんの少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「君たちの家族を殺したゲヒュールを嗅ぎ回ってるらしいけど……やめてくれないか」
胸の奥が、微かにざわつく。
名前を出されなくても、あれのことだと分かる。
「なぜです?」
「君のナイフ、フクスの牙から出来てるんだろう。なら分かるはずだ。あれが、どれだけ強いか」
無意識に、腰のナイフへ意識が落ちる。
触れてはいないのに、冷たさだけが伝わってくる気がした。
「ええ。それで?」
黒崎は一度、視線を外した。
「フクスに勝てるとは言わない。でも――それに近い奴がいる」
その言い方に、わずかな違和感が残る。
“近い”という言葉が、やけに曖昧だった。
「……ヴェーラー」
「偏食種だ。全部で十体。今、動きが確認できてるのは一体だけ」
「フェアツヴァイフルング。絶望だけを喰う個体」
絶望。
その言葉だけが、妙に重く沈む。
「そいつか……」
口にした瞬間、喉の奥がわずかに乾く。
記憶と結びつくには、十分すぎる響きだった。
「だから諦めろ、って話だ。やるならフクスを使う。君が前に出る必要はない」
「分かりました、と言うと思いますか」
自分でも驚くくらい、声は平坦だった。
「……言わないだろうね」
黒崎は苦く笑う。
一拍、空気が止まる。
「なら約束してくれ。見つけても、一人で突っ込まないこと」
「勝てない。復讐も、そこで終わる」
“終わる”という言葉だけが、やけに引っかかった。
終わる、のはどっちだ。
「……分かりました」
そう言いながら、納得していない自分がはっきり分かる。
黒崎は小さく息を吐いた。
「それと、もう一つ」
「他の九体――本来は監視下にあったはずなのに、揃って消えた」
「前触れかもしれない」
空気が、少しだけ重くなる。
「……そいつらは、何を喰うんですか」
「………」
黒崎が言葉に詰まるのを初めて見た気がした。
「黒崎さん?」
「……言葉にしにくいんだ」
「?」
「“そんな感情、本当にあるのか?”っていう類でね」
違和感。
けれど、どこが引っかかっているのかが分からない。
「でも、喰ってたんですよね」
「……たとえば、“しっと”って分かるかい」
「誰かを見て……その人がうまくいってると、妙に不快になるとか」
「同時に、ああなりたいと思ってしまうとか」
言われている内容は理解できる。
けれど、それが“感情”として結びつかない。
「……」
少し考えて、首を横に振る。
「いや……自分は自分でしょ。他人は他人です」
その言葉に、嘘はない。
「だろう?」
黒崎はわずかに笑う。
「皆そう答える。僕もそうだ」
「だから分からない」
静かな声だった。
「それを、あいつらは喰っていた」
理解できないものを食べる存在。
その事実だけが、じわりと現実感を帯びる。
「……」
言葉が出ない。
ただ、さっきまでよりも世界が少しだけ歪んで見えた。




