11話「誰も知らない私」
「ママ…ママ…」
春子はこの別室で眠っているように、俺達には見える。しかし外の世界の春子は、夫と話をしているはずだ。自分が母親からどう扱われたかの話を。
外の世界で人と触れ合っているのに、この部屋に戻ると春子はその事を忘れている。外の世界に居るのは母親と同じ攻撃者だからだ。彼女はそう教わって育った。
何も全員が春子を虐待していた訳じゃない。でも、家庭に居た大人というのは、その後の人生で出会うであろうモデルとして記憶されてしまう。
春子が母親から虐待される日々を終えたのは、母親が家を出て行ったからだ。春子が7歳の時に。
幼い子供が親から過剰な罰を受け続け、そして親は居なくなった。損失に次ぐ損失なのだ。欠落だ。春子が母親を忘れられなくなるのは最もと思える。
外の世界では春子の夫の進さんが春子を説得していた。俺はそれを内側で聴いている。
外での言葉遣いや暮らしぶりは、春子は母親に教わった通りに行っている。彼女の生活にはまだ母親の規則が敷かれているのだ。
「春子。お母さんはもう居ないし、会えないよ。だから安全だよ」
進さんは、テーブルで向かい合った春子とそう話す。春子は首を振った。彼女は座ったまま猫背になり身を屈めている。
「ううん、お母さんはまだ居るよ。私ちゃんとしなきゃ」
「どうして。だって本当に居ないじゃないか…」
進さんには彼の世界が見えている。彼には悲惨な春子の人生は見えていない。彼と春子は結婚して一緒に住むようになったのだから、幸せの象徴とされる行為の中で不幸に苦しむ人間という図式が理解出来ないのだろう。
春子の心は、多分進さんとまだ出会っていない。彼女は結局この部屋に閉じこもって暮らしている自分しか覚えていない。
その後、春子は青い部屋で目を開けた。泣いたまま。
「七星さん…私…おはようございます」
春子が何もかもを怖がっているのは知っている。だから、彼女が謝るみたいに挨拶をするのが辛かった。
「嫌な夢でも見た?」
俺がそう言うと、春子は思い巡らしに目を寄せる。彼女の肩から布団がずり落ち、とさっと落ちた。
「お母さんが…私を追いかけて来て…それで私、逃げて…ごめんなさい」
彼女は、夫との話など忘れたかったのかもしれない。世界の全員が彼女の母親と同じだと、春子は思っているのだから。そんな夢を見ていたのだと思い込もうとした。もしくは、その夢も攻撃者と感じている者との話も、大して重みは変わらないのかもしれない。
「そう…嫌な夢だね。それに…」
話を続けようとした時、優馬が目の前に立っていた。奴の目が燃えている。その後ろには響子が走ってくるのが見えた。
「やめろ!落ち着け!」
「うるせえ!あんな母親死んで当然だ!俺がやる!」
優馬は放っておいても大丈夫だ。奴は怒鳴るだけ。ただし響子は春子を殺してしまう。きっと今、外の世界では春子が包丁を手にしているだろう。俺は迫り来る響子の刃を両手で止めた。
「七星さん!」
俺の手から血は出ない。でもその事に混乱した春子は気付かなかった。
俺が響子の両腕を掴んで床に押し倒すと、響子は足で俺の腹を蹴った。彼女の腕を押さえつけ続ける俺は、大声を出す力さえ奪われている。
「お前な…死ぬ事が幸福だなんて本当に思ってるのか…」
俺の心にちらとだけ〝本当はそれが一番の早道なんだ〟と閃きかけた。俺はそいつを全力をもって握り潰した。
「死ななきゃこの子は永遠に母親の奴隷よ!解放するんだわ!」
「カウンセラーに頼むんだ!」
「もう待ってられないわよ!これ以上苦しめられないわ!四六時中なのよ!この苦しみは!」
響子が床の上で首をじたじたと振り回しながら叫ぶ。俺は「違う」とどうしても言いたかった。だから彼女に聞いた。
「もう少しなんだ!なあ、そうだろ!?春子!」
響子を押さえながら春子を振り返ると、彼女は怯えて泣いていた。両膝を思い切り胸へと縮め、涙を拭いながら俺をぎりりと見詰める。
〝何故そんな目で俺を見るんだ〟
〝ああ、解ってる。君は助かりたくなんかないから…〟
「私…奴隷でもよかった…それでお母さんに愛されるなら…」
俺は膝で半分立ち上がったまま、春子から目を離せなくなった。でも、俺が泣く訳にはいかないんだ。
その時響子がまた暴れ出すかと思ったのに、響子はその悲しみに耐え切れず、泣き始めていた
優馬は窓を破ろうと両拳で叩いていた。
俺は?俺はどうすれば良かったんだろう?
つづく




