表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/20

1-7 帰る場所

 リュカは休息状態に入り、静かなまま動かない。

 寝台に横たわる小さな身体は、まるで時間から切り離されたようだった。


 アシュレイは椅子に座り、背筋を伸ばしたまま目を閉じない。

 昼間、リゼットに言われた言葉がまだ胸の奥に残っている。


 ――帰って、ちゃんと触れてあげて。


 触れることだけが答えではない。

 しかし、触れなければ届かないものがある。


 アシュレイは寝台の近くに置いた小さな魔導灯を調整し、光量をわずかに弱めた。

 影が伸び、工房の奥まで静寂が満ちていく。


 しばらくして――


 かちり。


 静かな音がした。

 アシュレイは顔を上げる。

 音の発生源は入口でも窓でもない。


 壁際の棚に置かれた、古い懐中時計。

 祖父の遺品であり、壊れたまま動かないはずの時計だった。

 針が、ひと目盛りだけ動いていた。


「……なぜ動く」


 アシュレイは立ち上がり、懐中時計を手に取る。

 内部のゼンマイは切れ、魔力回路もとうに途絶えている。

 修理しようとしたこともあったが、部品が特殊すぎて手が出せなかった。

 それが――止まったまま動いた。

 偶然とは思えない。

 だが、説明できる要素もない。


 アシュレイは懐中時計をしばらく見つめ、ゆっくり元の位置に戻した。

 その瞬間、寝台のほうから微かな声がした。


「……アシュレイ……?」


 驚くほど小さな声。

 眠っているはずのリュカが、薄く目を開けていた。


「どうした」

 アシュレイは椅子に戻り、視線を合わせる位置まで身体を屈めた。

 リュカは胸元を押さえていた。


 昼間と同じ仕草。


「また、すうってした」

「いつからだ」

「いま」


 リュカは目を閉じ、か細い声で言う。


「ちょっとだけ。すぐ戻ったけど」


 アシュレイは呼吸を忘れそうなほど静かに息を吸った。


「苦しいか」

「ううん。苦しくない。……でも、いなくなりそうだった」


 淡々とした言葉なのに、胸の奥を強くえぐった。


「怖いか」

「……わかんない」


 リュカはゆっくりと首を振った。


「怖いって気持ち、よくわかんない。でも、アシュレイが見えないほうが、もっとやだ」


 アシュレイはその言葉を正面から受け止めるしかなかった。


「大丈夫だ。俺はここにいる」

「ずっと?」

「ああ」

「ほんと?」

「ほんとだ」


 嘘ではなかった。

 守れるかどうかは別として、言葉だけは揺れなかった。


 リュカは安心したように目を細めた。


「じゃあ、まだ止まらない」

「休め」

「止まらないって言ったのに」

「休むことと、いなくなることは違う」

「むずかしい」

「俺にも難しい」


 リュカは小さくくすりと笑った。

 その笑いは弱いのに、確かに存在していた。


 アシュレイは魔導灯の位置を少し調整し、リュカの顔が影にならないようにした。

 その指先がわずかに震えていることだけは、誰にも隠せなかった。


 やがて、リュカの呼吸音が静かに落ち着き、再び動作を最小に戻していく。


 アシュレイは椅子に座り直し、工房の天井を見上げた。

 梁の間に積もった埃、吊り下げられた古いランプ、祖父が残した工具。

 どれも変わらないはずの風景。


 ――なのに。

 変わらないということが、もう脆かった。


 そのときだった。

 扉の外で金属の擦れる音がした。

 夜更けにしては早すぎる時間。

 客の気配ではない。


 アシュレイは立ち上がり、入口へ向かう。

 扉に影が落ちた。

 ノックはなかった。代わりに、扉板に掌が触れる鈍い気配。

 相手は立っているだけで精一杯のようだった。


 扉の向こうから、擦れるような呼吸音が届く。


「――クローヴ殿」


 声がした。

 低く、掠れて、痛みを押し殺した声。聞き覚えがある。

 学院で、廊下で、講堂の隅で――無遠慮に近づいてきたあの声だ。


 アシュレイは扉の錠前に手をかける。

 一瞬だけ、迷いが指先を止めた。開けた瞬間、ここへ『外』を持ち込む。それはリュカの傍に置くには危険すぎる。だが閉めたままにすれば、扉の向こうの人間は――死ぬ。


 短い逡巡の末、金具がかちりと鳴った。


 扉を開けた瞬間、冷たい夜気が工房へ流れ込む。

 それに押されるように、男の身体がふらりと倒れ込んできた。


「……っ」


 濃紺のローブ。胸元の王家紋章。中性的で整った顔立ち――だが、その顔は青白く、額には汗が浮いている。片腕を押さえ、袖口から乾いた血が滲んでいた。


「ノア・シルエル……?」


 名を呼ぶと、男――ノアは、唇だけで笑ったような表情を作った。


「……はい。宮廷のノアです。……すみません、こんな……」

「座れ」


 アシュレイは言い切ると、椅子を引き寄せて男を押し込むように座らせた。ノアは反論しようとしたが、言葉を吐く前に喉が鳴り、息が漏れた。


「自分で……大丈夫……」

「大丈夫な呼吸じゃない」


 アシュレイは棚から布と消毒液を取り出す。動きは早いが乱れていない。こういうときだけ、彼は迷いを捨てられる。目の前の“症状”が、理屈で分類できるからだ。


 袖をまくると、傷口が見えた。

 切り裂かれたというより、焼き切られている。だが焼け跡は円や直線ではない。何かが“線の途中で折れた”ように歪み、皮膚に不自然な模様を残していた。


 アシュレイの眉がわずかに動く。


「……魔術じゃないな」


 ノアが目を伏せた。


「……ええ。術式の気配が、ありませんでした」

「説明しろ」


 布を濡らし、傷口を拭う。ノアが歯を食いしばる。

 痛みに耐えているというより、悔しさを噛み潰している顔だった。


「リゼット・クロイが……攫われました」


 言葉が落ちる。

 工房の空気が、重く沈む。


 アシュレイは手を止めなかった。止めたら、何かが壊れる気がした。だが胸の内側では、冷たいものがひび割れる音がした。


「……誰に」


 声が低くなる。

 “誰に”と尋ねながら、“知っている”という恐怖が混じる。


「分かりません。ただ……」


 ノアは息を吸い、吐き出すように続けた。


「工房の結界が、内側から破られていました。侵入痕が薄い。なのに、そこに“印”が残っていた。魔法文字じゃない……でも、見た瞬間に、頭の奥が痛くなるような……」


 アシュレイは消毒液の匂いの奥に、別の“匂い”を感じた気がした。

 世界が薄くなるときの、あの不快な空気。


「声も……ありました。言葉じゃない、鈴みたいな、割れた音で……空間が、歪んで……」


 それだけで十分だった。

 魔術ではなく、世界の深層を撫でる“線”。教団のやり方。


「教団か」


 アシュレイが呟くと、ノアは一度だけ頷いた。


「……たぶん。断言できません。でも、あれは……学院の事故の記録で読んだ“揺らぎ”と似ていました」


 学院。事故。跡地。禁じられた研究。

 繋がってはならない言葉が、次々と頭の中で結ばれていく。


 アシュレイは布を替え、傷口を保護布で覆った。


「……リゼットは?」

「抵抗できませんでした。……いえ、抵抗した形跡はあります。でも、意識を奪われたみたいに……一瞬で」


 ノアの声が、わずかに震える。


「追おうとした私も、この有様です。……情けない話ですが、歯が立たなかった」

「責めてない」


 アシュレイは即答した。責める余裕などない。

 彼は立ち上がり、棚から薬包と水を取ってノアへ渡す。


「飲め。話はそれからだ」


 ノアは受け取り、喉を鳴らして飲み下した。

 その間、寝台から微かな衣擦れが聞こえる。


 リュカが、起き上がっていた。

 完全には動いていないが、目は開いている。琥珀色の瞳が、ノアとアシュレイを交互に見た。


「……アシュレイ」


 その声は弱い。だが、ちゃんと刺さる。


「だれ?」

「ノアだ。学院の後輩」


 ノアが、痛みに顔を歪めながらも礼儀正しく頭を下げた。


「初めまして。……ノア・シルエルです。夜分にすみません」


 リュカはじっと見つめ、ぽつりと言った。


「……お昼の、のあ?」


 ノアが一瞬固まる。


「昼に……?」


 アシュレイも目を細めた。

 リュカが誰かに書簡を預かったと言っていた――あれか。


 しかし今は、それどころではない。

 アシュレイは話を切り上げるように言う。


「ノア。場所は」

「城壁外です。採掘場跡――昔、集会所の噂があった廃墟」


 アシュレイの脳内で地図が展開する。町の外れ。風下。エーテル濃度が乱れる地点。そこから先は――理屈が通じにくくなる。


「今夜行く」


 ノアが反射的に首を振った。


「危険です。あなたは魔法が……」

「危険は承知の上だ」


 アシュレイは言い切った。

 自分の弱点を他人の口から言われる前に、自分で踏みつける。


「俺は考える。お前は動く。役割はそれでいい」


 ノアの唇がわずかに動いた。反論でも礼でもなく――安心の形をした息だった。


「……了解です」


 その言葉の直後、リュカが寝台の端に手をついて、もう一度声を出した。


「……アシュレイ」

「動くな」

「わたしは……?」


 小さな問い。

 置いていかれる恐れが混じった問い。


 アシュレイは一瞬だけ、言葉を探した。

 “ここにいろ”という命令は、彼女にとって刃になる。

 だが一緒に連れていくには、まだ早い。危険の種類が違いすぎる。


「……ここにいろ」


 結局、言葉は硬くなった。


 リュカの目が揺れる。

 そこでアシュレイは、ひとつだけ付け足した。自分でも驚くほど、素直な言葉だった。


「お前がここにいてくれないと、俺は戻れない」


 リュカの瞳が丸くなる。

 “必要とされる”という感覚が、彼女の中でまだ言葉にならない形で広がっていくのが見えた。


「……待つ」


 リュカは小さく頷いた。


「ちゃんと、守る。ここ。アシュレイの……帰る場所」


 その言い方が、胸に刺さる。

 アシュレイは目を伏せ、短く返した。


「……頼む」


 頼む、と言った。

 お願いではなく、命令でもなく。自分の弱さを認めた言葉として。


 ノアが静かに立ち上がり、肩で息をしながら言った。


「クローヴ殿、すぐに動けます。傷は……これ以上は邪魔しません」

「無理をするな。倒れたらお前の価値が下がる」

「価値って……」


 ノアは苦笑し、次いで真面目に頷いた。


「……はい。倒れません」


 アシュレイは工具鞄を肩にかけ、扉へ向かった。

 開ける直前、寝台のほうへ一度だけ振り返る。


 リュカは寝台の端に座ったまま、両手で布を握っていた。

 目が合う。彼女は小さく口を開く。


「……ちゃんと、戻ってきて」


 それは命令でもお願いでもなく、誓いを引き出す言葉だった。

 アシュレイは短く頷く。


「戻る。必ず」


 言い切った瞬間、胸の奥で何かが決まった音がした。

 逃げ道が塞がれたのではない。帰り道が定まったのだ。


 扉を開ける。

 夜の冷気が二人の頬を撫でた。


 鈴がもう一度、からんと鳴る。

 工房の灯りは背中に残り、リュカの視線がその灯りの中に確かに刺さっていた。


 アシュレイとノアは城壁の外――“世界が薄くなる場所”へ向けて歩き出す。


 第一の事件は、もう始まっていた。


本話もお読みいただきありがとうございます!

本日は前回よりも1時間半ほど遅れての投稿になりました。申し訳ありません。

こんな感じで投稿時間にバラつきがあるため、18:00~21:00と幅を持たせての”投稿宣言”であります!

どうか、今後とも諦めることなくお読みいただけると幸いです!


よろしければ、ブックマーク・感想・評価をお願いいたします!

大変励みになります!!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ