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1-6 心の内に

 クローヴ魔道具店の午後はゆっくりと色を変えていった。

 外の光が傾き、工房の奥に長い影を落とす。


 リュカはカウンターの上で足を抱え込み、封筒を膝の上に乗せたまま、じっと動かなかった。

 午前中は落ち着かなかった胸の痛みも、今は静かに沈んでいる。

 沈んだのではなく、沈めているだけだった。


 扉の外からは、ときおり子どもの笑い声や荷台を押す音が聞こえる。

 世界は普通に流れている。

 店の中だけが取り残されていた。


「……アシュレイ、おそい」

 呟く声は小さく、工房に吸い込まれて消えた。


 リュカは封筒を胸に抱きしめる。

 中に何が書かれているのかは分からない。

 けれど、触れているだけで胸の奥がざわついた。


 ノアという名前。

 知らないのに、知りたくない気がした。


「なんでだろ」


 理由はわからない。

 言葉にできない。

 でも、胸の真ん中が、きゅっと固くなる。


 そのとき――工房の奥の棚で、小さな音がした。

 カタン。

 乾いた、軽い落下音。


 リュカは跳ねるように振り向いた。

 棚の二段目から、ガラス製の測定器が傾いて落ちかけている。

 リュカは素早く駆け寄り、両手で受け止めた。


「……っ、あぶない」


 抱えたまま、しばらく動けなかった。

 ガラス越しに見える内部の液体は、淡く青く光っている。

 液体が揺れるたび、弱い光がリュカの指にまとわりついた。

 それはいつも見てきた魔道具。

 けれど、今日は違って見えた。


「なんで、落ちたの……?」


 工房は閉めたままだ。

 誰もいない。

 風も入っていない。

 それでも、物がひとりでに落ちた。


 リュカは測定器を棚に戻し、そっと指先を離した。

 その瞬間、胸の奥で何かが一瞬だけ『欠ける』感覚が走った。


「――っ」


 思わず胸に手を当てる。

 痛みではない。

 熱でもない。

 ただ、『抜けた』ような感覚。

 すぐに戻った。

 けれど、確かに存在した。


「……やだ」

 誰にも届かない声で呟く。


 涙ではないのに、視界の奥がじんと滲む。

 リュカはゆっくりと深呼吸をした。

 呼吸をしても、空気は肺に届かない。

 けれど、落ち着かせる方法はそれしか知らない。


「アシュレイ、まだかな……」


 小さな声が工房に漂う。

 静けさは優しさではなかった。

 ひとりきりでいるという事実だった。


 リュカは寝台の上に腰を下ろし、膝を抱える。

 昼間と同じ姿勢なのに、意味が違う。


「わたし、ひとりじゃないよね」

 問いかけではなく、確認だった。

 けれど、返事はない。

 その静寂が、いちばん怖かった。


        *


 資料を片付け終えたリゼットは机に手を置いたまま、アシュレイをじっと見ていた。


「帰るんでしょ」

「ああ」

「リュカに、ちゃんと話すのね」

「……話せることだけ」

「違うわ」


 リゼットは淡々と告げた。


「あの子が知りたいのは、言葉じゃなくて、あなたが嘘をつかないことよ」


 アシュレイは目を伏せる。


「嘘をつくつもりはない」

「つかなくても、隠せば同じ」


 反論できなかった。

 リゼットは白衣のポケットから、小さな黒いケースを取り出す。


「持っていきなさい」

「これは?」

「補助安定板の新型。応急処置用」


 アシュレイは手を伸ばし、受け取る。

 小さなケースなのに、ずしりと重く感じた。


「使わずに済むなら、それが一番よ」

「使うとしたら」

「限界がきた証拠」


 短いやり取り。

 そのひと言ひと言が胸に沈んでいく。


「アーク」

 リゼットの声が柔らかくなる。


「帰り道で泣かないでよ」

「泣かない」

「泣くでしょ」

「泣かない」

「じゃあ、泣きそうな顔で帰らないで」


 アシュレイはわずかに表情を動かした。

 ほとんど、笑いに近いものだった。


「……努力はする」

「できることだけ、すればいいの」


 そう言ってから、リゼットは視線をそらすように机に向き直った。


「アーク」

「なんだ」

「――帰って、ちゃんと触れてあげて」


 アシュレイは息を止めた。


「怖がってるのは、あの子じゃないわよ」


 言葉が胸に刺さる。


「怖がってるのは、あなたのほう」


 アシュレイは何も言わず、ただ鞄を肩にかけた。

 扉を開けると、冷たい風が吹き込む。


「早く帰って」

「……ああ」


 その一言に、リゼットは微笑んだ。


「いってらっしゃい、アーク」


 扉が閉まり、錠前の音がひとつだけ響いた。


 夕暮れの街をアシュレイは歩く。

 足は早くないのに、胸だけが前へ走っているようだった。


 工房の角を曲がり、店の扉が見えた瞬間。

 アシュレイは立ち止まった。


 リュカが――窓の向こうで、小さな影になって座っていた。

 床に座して丸くなり、うつむいたまま動かない。

 夕日の光が彼女の髪に薄く縁を描いていた。


 アシュレイは息を吸う。

 胸の奥でひどく静かに何かが軋む。


「……ただいま」


 扉を開ける前に、そう言った。

 それは誰にも届かない声だった。

 けれどその瞬間、工房の中で、リュカの指がわずかに動いた。


 扉の前で一度だけ深呼吸をしてから、アシュレイは取っ手に手をかけた。

 きぃ、と、いつもの軋んだ音が鳴る。

 工房の中の空気は朝と同じようで、どこか違っていた。

 ほの暗い空間に夕方の光が細く差し込んでいる。


 リュカは扉から少し離れた場所――カウンターの手前あたりで、床に座り込んでいた。

 膝を抱え、顎を乗せ、扉の方を見ていたはずの視線は、いまは床に落ちている。


「……ただいま」

 今度はちゃんと声に出した。


 アシュレイの声にリュカの肩がぴくりと動く。

 ゆっくりと顔が上がる。

 琥珀色の瞳がこちらを捉えた。


「おかえり」


 それだけだった。

 いつもの調子より少し小さい声。

 それでも、確かに『待っていた側』の言葉だった。


 アシュレイは靴を脱ぎ、鞄を下ろす。

 いつも通りの動作。

 けれど、今日は妙にぎこちない。


「遅くなった」

「うん」


 リュカは立ち上がろうとして、少しふらついた。

 アシュレイが思わず手を伸ばす。

 小さな肩がその手に触れた。


「……大丈夫か」

「だいじょうぶ」


 反射的にそう答える。

 でも、その声はかすかに掠れていた。


 アシュレイはすぐに手を離さなかった。

 リゼットの言葉が、背中を押していた。


 ――帰って、ちゃんと触れてあげて。


 普段ならもう離している距離。

 今日は、ほんの少しだけ長く触れていた。


「何か、あったか?」

「ううん、べつに」

 いつもの返答。しかし、目は逸らす。


「店には、誰か来たか」

「……ひとり」


 リュカは胸元をぎゅっと押さえた。

 さっきまで抱えていた封筒の感触が、まだそこに残っているような気がした。


「王都の人。紋章のついた封筒、持ってきた」


 アシュレイの眉がわずかに動く。


「どこにある」

「……こっち」


 リュカは彼の手からそっと離れると、カウンターの上へと歩く。

 そこには、板の上にきちんと置かれた封筒がひとつ。

 昼からずっと、その位置から動かしていない。


「なくさないように、見てた」

 リュカはそう言って、封筒に触れた。

 指先が少しだけ震えている。


 アシュレイは封筒を手に取った。

 王家紋章と、細かな文様。そして見慣れた署名。


「……ノア・シルエル」

「アシュレイの、知ってるひと?」

「ああ。学院のときの後輩だ」

「ふーん」


 短い相槌。

 それ以上、何も言わない。


 アシュレイは封を切らずに、しばらく封筒を眺めていた。

 中に何が書かれているのか、想像はつく。

 だが、それよりも――


「預かってくれて、ありがとう」


 ぽつりと、その言葉がこぼれた。

 リュカはきょとんとした顔でアシュレイを見上げ、それから少しだけ頬を染めた。


「べつに。わたしの仕事だもん」

「店員なのか」

「うん。今日からそういうことにする」

「勝手に決めるな」

「でも、アシュレイ以外、わたししかいないし」


 もっともな理屈だった。

 アシュレイは否定も肯定もしないまま、封筒を懐にしまった。

 工房に、一瞬だけ静けさが満ちる。


「……痛そうだな」


 アシュレイがぽつりと言った。


「え?」

「膝」


 リュカは自分の膝を見る。

 床に長く座っていたせいで、うっすらと赤くなっていた。


「あー。ちょっと、しびれた」

「立てるか」

「立てるよ」


 そう言ってみせたものの、一歩踏み出したとたん、足が僅かにもつれた。

 アシュレイは反射的に身体を支える。

 小さな身体が胸元にぶつかってきた。


「……っ」


 リュカは目を丸くしたまま、数秒動けなかった。


「大丈夫か」

「だいじょうぶ……」


 声が近い。

 アシュレイの胸の鼓動が、かすかに耳に届く。


 リュカは慌てて一歩下がった。

 けれど、胸の奥のざわつきは、さっきよりも強くなっていた。


 ――離れたくない。

 その感覚が一瞬だけ頭をよぎる。

 しかし、言葉にはならない。


「ごめん」

 リュカが小さく言う。


「謝る必要はない」

「でも、転びそうになった」

「それは俺が受け止めた」

「……そっか」


 たったそれだけの会話。

 それなのに、工房の空気が少し変わった。


 アシュレイは寝台の方へ視線を向けた。

 白い布が、いつものように端正に整えられている。


「今日は、早めに休んだ方がいい」

「眠くない」

「眠くなくてもだ」

「止まるの、きらい」


 リュカの声がほんの少しだけ低くなる。


「止まってるあいだ、アシュレイ見えないから」


 その言葉に、アシュレイは息を止めた。


「……俺は、ここにいる」

「でも、見えない」

「見えないだけだ」

「見えないの、やだ」


 はっきりと言った。

 幼くて、我儘で、でも筋の通った拒絶。


 アシュレイはゆっくりと歩み寄り、寝台の手前に椅子を引き寄せた。


「じゃあ、見えるところに座っている」

「ずっと?」

「起きている限りは」


 リュカは目を瞬かせる。


「ほんとに?」

「ああ」

「うそつかない?」

「つかない」


 即答だった。

 それは約束の言葉であり、同時に、逃げ場を自分で塞ぐ宣言でもあった。


 リュカはしばらくアシュレイを見つめ、それからぽつりと言った。


「……アシュレイ」

「なんだ」

「さっき、ちょっとだけ、いなくなった気がした」


 アシュレイの表情がわずかに強張る。


「胸のここがね――」

 リュカは自分の胸を指で、とん、と叩いた。


「空になったみたいに、すうってなって。すぐ戻ったけど」

「それは――」


 アシュレイは言葉を飲み込んだ。


 診断結果が頭をよぎる。

 魂固定の位相の揺らぎ。

 補正限界。

 期限。


 全部、リュカにはまだ早すぎる現実。


「ごめん」

「なんでアシュレイが謝るの」

「……俺が、気づけなかったからだ」

「気づいてたよ」


 リュカは首を横に振る。


「さっき、アシュレイの顔見たとき、いつもより悲しい顔してた」

「そんなつもりはない」

「でも、そう見えた」


 それは観測結果だった。

 彼女なりの、唯一の真実。


「ねぇ、アシュレイ」

「なんだ」

「わたしのこと、助けたい?」


 アシュレイは即答しかけて、喉で言葉が止まった。

 『助ける』という言葉には、元に戻すという響きが含まれている。

 それは、もう叶わない。


 しかし――


「……失いたくない」


 選んだのは別の言葉だった。


 リュカの瞳が少しだけ大きくなる。


「それって、たすけたいってこと?」

「そうかもしれない」


 曖昧で不器用な答え。

 けれど、嘘はひとつもなかった。


 リュカはゆっくりと笑った。

 さっきまでの不安の影が、少しだけ薄くなる。


「じゃあ、いっしょにがんばろ」

「……俺がやることだ」

「わたしもやる」

「お前にできることは少ない」

「でも、ぜんぜんないわけじゃないでしょ」


 あまりにもまっすぐだった。

 アシュレイは目を伏せ、小さく頷く。


「……そうだな」

「じゃあ、わたしの仕事は『アシュレイがちゃんと帰ってくるのを待つこと』」

「それは今まで通りだ」

「あと、『アシュレイがたまに笑うようにすること』」

「難題だ」

「がんばる」


 即答だった。

 胸の奥にあったざわつきが、少し形を変えていく。

 痛みではなく、熱に近い何かに。


 リュカは寝台にちょこんと座り、布をめくった。


「じゃあ、ちょっとだけ止まるね」

「……ああ」

「見ててね」

「見ている」


 リュカは目を閉じる。

 魔力炉心が、わずかに音を落とす。

 完全なスリープ状態には入らない。

 ただ、動作を最低限まで落とす『休息』の形。


 アシュレイは椅子に腰を下ろし、静かに彼女を見つめた。

 さっきまで、いなくなりそうだと感じた存在が、目の前で静かに息をひそめている。

 息も、鼓動もない。

 それでも、『いる』と分かる。


 指先が、わずかに震えた。


「……大丈夫だ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


 工房の外では夕暮れが夜へと変わり始めていた。

 遠くで鐘が一度だけ鳴る。


 今日という日が、もう昨日とは違う一日になってしまったことだけは、ふたりとも薄々気づいていた。

 それでも――この工房に灯る小さな光は、まだ消えていない。


 アシュレイは背もたれに預けていた身体を起こし、少しだけ前へ身を乗り出した。

 逃げずに見るために。


 失いたくないものを、ちゃんと『今、ここにいる』と認めるために。

 工房の夜は、いつものようにゆっくりと深まっていった。


お読みいただきありがとうございます!

突然ですが、”物事”が急変するときに”予兆”がある感覚って、皆さんは分かりますか?

例えば、普段連絡を取らない友人のことをふと考えていたら急にその友人から結婚報告の電話がかかってきたり、「何だか妙に調子がいいな」と思って走っていたら突然膝が故障したり――。

そういった、言葉ではうまく表現できないけれど、”確実に何かが迫っている”感覚を、今、クローヴ魔道具店の二人は感じ取っています。

特にリュカは、日ごろから無邪気に遊んでばかりいる女の子に見えて、その実、アシュレイの一挙手一投足に自然と注意を向けているような”物事の機微に敏感な子ども”に似た繊細さを持っています。彼女本人はそのことを自覚はしておらず、まだその事実を曖昧な感覚的なものとして胸の奥に仕舞っています。

その感覚が時折胸を締め付けるのは、機械人形になる前の彼女の”アシュレイへの思い”が小さな体の内に残り続けているからです。

アシュレイは言葉を慎重に選びすぎる節があります。しかし、彼が何かを口にせずとも、彼女は曖昧ながらも何かの前触れとして感じ取っています。


リゼットから下されたリュカの診断。

その事実についてアシュレイがどのようにリュカに切り出していくのか。

そういった微妙な視点でも、どうか今後も不器用な二人を見守って下さると幸いです!

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