1-67 小勝利の代償
検分が終わると部屋の空気が少しだけ軽くなった。
証拠は封緘され、記録は紙に乗り、保安局の女は「街として動く」と言い切った。倉庫区画の男も「上へ回す」と頷いた。
――公が動く。
それは確かな勝利だった。
だが同時に、相手にとっては“すぐに切るべき線が増えた”ということでもある。
宿を出て階段を降りる途中、アシュレイは背中に視線を感じた。
広間の客の視線ではない。
それよりも冷たい、確認の視線。
振り返らない。振り返った瞬間、相手に気づいた瞬間を渡す。
アシュレイは歩幅だけを少し落とし、ノアと並ぶ位置を整えた。
リュカは半歩後ろにいる。
袖を掴むか迷って、結局掴まない。
彼女もまた、場の空気を読むことを覚え始めている。
玄関先で保安局の女が宿の主人へ釘を刺すのが聞こえた。
「今夜は戸締まりを増やすこと。裏口も見張りを置いて。
――“下働き”を勝手には入れない。二度目はないわ」
主人が何度も頷いている。
頷きながら目が泳いでいるのが見えた。
彼は何も守れない。守られる側だ。
通りに出ると、昼の街の顔が戻ってきた。
蒸気管は白い息を吐き、露店は客を呼び、子どもが笑って走る。
何も起きていないように見える。
だが、そう装っている姿が、この街そのものだ。
ノアが声を落とす。
「クローヴ殿。次にやるべきは二つ。
ひとつは、倉庫区画の帳面の男――口利きの特定。
もうひとつは、あなた方の退避です」
「退避?」
「ここに留まると、相手は必ずもう一手、派手に来ます。
公が動き始めた今、相手は裏へ退く。
――退く時、必ず“証拠”と“目撃者”を消します」
アシュレイは頷いた。
「料理長の口を塞ぐか」
「はい。あるいは“帳面の男”を消して、線を途切れさせる」
リュカが小さく言った。
「消すって……いなくなるの?」
「そうだ」
リュカの喉が鳴る。
恐怖がすっと体内を通る音がした。
アシュレイはリュカの頭に手を置きたくなる衝動を堪え、代わりに彼女の肩の近くへ手を寄せるだけにした。触れない。自分に課した約束だからだ。
「大丈夫だ。俺たちは消されない」
リュカが目を上げる。
「……ほんと?」
「ほんとだ。消される前に、動く」
それが答えだった。
この街で公が動くには時間がかかる。紙は刃だが、大きな刃は振りきるのが遅い。
その間に相手は闇の速さで走る。
ノアが短く頷く。
「キャリッジは今、厩舎の奥です。
今のうちに回収し、今夜出るのが最善です」
「今夜か」
「はい。
夜明け前に出れば、街の門番の交代も利用できます。
監視が強まるのは明日からです」
アシュレイは街を見た。
整っている。整いすぎている。
裏で確かに何かが動いている。
「……分かった。今夜出る」
その言葉を口にした瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
決めれば、迷いが減る。迷いが減れば、判断が速くなる。
ノアは一礼した。
「承知しました。
私が手配します。――目立たずに」
その時、通りの向こうで人の流れが一瞬だけ割れた。
誰かがぶつかったのでも、荷が倒れたのでもない。
人が“避けた”のだ。
アシュレイは視線を投げる。
黒い外套の男が露店の影に立っている。
帽子を深くかぶり、顔は見えない。
だが、普通じゃないことだけは、ここからでも分かる。
――帳面の男。
アシュレイが足を止める。
だが追わない。追えば逃げる。
逃げれば線が途切れる。
必要なのは、追跡ではなく記録だ。
ノアも気づいている。
彼は視線を動かさず袖の中で小さな符紙を滑らせた。
符紙は指先で折られ、風に乗るように消えた。
伝令の符だ。公の紙ではない。
男は一瞬だけこちらを見た。
帽子の影の下で目を光らせている。
そして、次の瞬間には人波に溶けた。
溶け方が上手い。
裏で生きる手合いだ。
リュカが小さく息を吸った。
「……いまの、だれ」
「線の中心だ」
「せん……?」
「後で説明する。今は覚えておけ。
“目が笑ってない”感じだ」
リュカは真剣に頷いた。
「……笑ってない目。覚える」
その会話の最中、遠くで叫び声が上がった。宿の方角だ。
叫びは一瞬で途切れ、次に金属が落ちる音がした。
昼の喧騒の中でもあまりに異質な音だった。
ノアの顔が変わる。
「……来た」
アシュレイの心臓が一度だけ重く鳴った。
公が動いた直後の、闇の速さ。
三人は走らない。
走れば目立つ。目立てば相手の思う壺だ。
だが速足で戻る。歩く速度の範囲を保つ。
宿の裏手に回ると、護衛が一人、血相を変えて立っていた。
「クローヴ殿! ノア殿!
――倉庫区画の担当者が……!」
ノアが即座に問う。
「どこで」
「宿の離れ……帳面を置いていた机の前です。
倒れて……息はありますが、意識が……!」
アシュレイの目が細くなる。
狙いは料理長ではなく、帳面――記録だ。
「帳面は」
護衛が唇を噛む。
「……消えました」
ノアの拳が一瞬だけ握られた。
感情が出るのは珍しい。
それほどに、相手の手際が良いということだ。
「……口封じではなく、線切り。
最も効率のいい手です」
アシュレイは冷静に言った。
「勝利の代償だな。
公が動いたからこそ、相手も切る線を定めた」
ノアが護衛へ指示を飛ばす。
「保安局へ連絡。これは“妨害”です。
宿の周辺封鎖、出入りの記録を押さえる。
――そして、倉庫区画の担当者の身元を保護対象に切り替える」
護衛が走る。
宿の離れに入ると、倉庫区画の男が床に横たわっていた。
額に小さな傷。血は少ない。
脳震盪を起こしている。殺す気はないらしい。
殺せば事件が大きくなり、公がさらに動くからだ。
相手は公が動くのを避けたい。だから殺さず、線だけを切る。
ノアが男の脈を確かめ、息を吐く。
「生きています。
……睡眠系の薬粉が使われています。深律教団の手口に近い」
アシュレイは机の引き出しを見た。
空。中身がまるごと消えている。
それが最も雄弁だ。ここに記録があったことを証明している。
リュカが部屋の入口で立ち尽くし、小さく呟いた。
「……消された」
アシュレイはそこで初めてリュカの方を向き、はっきり言った。
「ああ。
だから、今夜発つ。
俺たちは消されないために旅をする」
リュカの目が揺れ、次に強くなる。
「……うん。
わたし、いくよ。
アシュレイの横にいる」
ノアが立ち上がり、顔を上げた。
いつもの礼儀正しい顔に戻っている。
だが目の奥に火種が残っていた。怒りの火種だ。
「クローヴ殿。
今夜の出発は確定です。
――私は見送りではなく、“手配”をします。
あなた方が街の外へ出るまで、線をこちらで引き受けます」
アシュレイは短く頷いた。
「頼む」
勝利では終わらない。
だが、負けてもいない。
線を掴み、そして切られ、さらに次の線へ向かう決断をした。
整った街の下で、深律教団は確かに息をしている。
その息を今夜、追い越す。
夜明け前。
キャリッジを回収し、門の交代を見計らい、街道での情報を次へ繋ぐ。
アシュレイは鞄の中の封筒を確かめた。
その分だけ次の場所でも戦える。
そして、リュカの隣で彼は静かに言った。
「――今を選ぶ」
リュカは小さく、しかし確かに頷いた。
「うん。今、アシュレイの横」
こちらまで読んでくださり誠にありがとうございました。
この度、誠に勝手ながら作者の都合により本話を区切りに休止させていただくことをお知らせいたします。
新連載の方に集中して参りますので、どうかそちらもお読みいただけると幸いです。
またリクエストなどございましたらご連絡ください。
それでは失礼いたします。




