1-66 裏の足音
正午前。
宿の前の通りはいつも通り整っていた。露店が並び、蒸気管からは白い息が細く上がる。旅人が行き交い、子どもが走る。表向きの顔はきれいに整えられている。
だが、その中へ異物が入ってくる。
保安局の制服。倉庫区画管理局の腕章。
公の足音は日常の音とは違う。目的がはっきりしている。
歩き方に迷いがない。だからこそ、周囲の目を集める。
宿の主人が玄関先で身を縮め、頭を下げ続けていた。
その姿が、宿の“箱”が今から開かれることを示している。
アシュレイは宿の玄関脇、半歩引いた位置に立った。
前へ出れば当事者が過剰に目立つ。
下がりすぎれば逃げ腰に見える。
リュカはアシュレイの横にいる。
今日はそれは、ただの癖ではなく護衛配置としての一部になっている。
ノアは少し離れた位置に立った。宮廷の徽章は見せない。
だが、保安局の者が彼を見る目は違う。彼らは“誰が強いか”を嗅ぎ分ける。
検分に来たのは二名。
一人は倉庫区画管理局の男――昨日と同じ顔だ。記録を取る目。
もう一人は街の保安局の女――短髪で、目つきが鋭い。現場を見分ける目。
倉庫区画の男が口を開いた。
「本件、宿への不正侵入と、倉庫区画の偽装監査の接続案件として扱う。
――関係者は、虚偽なく答えてください」
保安局の女がすっと視線を動かし、リュカを見た。
子どもを見る目ではない。
“守られている対象”を見る目だ。
アシュレイはその視線を遮るように一歩だけ位置をずらした。
あからさまに遮るのではなく、自然に影を作る。
露骨に守ると逆に狙われるのが常だ。
ノアが一礼し、淡々と告げた。
「本件は私が同席します。
証拠の封緘と提出、記録の整合を担います」
倉庫区画の男が眉を上げる。
「宮廷魔法師が?」
「はい。理由は後ほど文書で提出します」
文書。
それだけで、倉庫区画の男の態度が一段変わった。公の中で紙は刃だ。
「……了解した」
保安局の女が宿の主人を指差す。
「まず、侵入口の確認。昨夜の侵入はどこから?」
主人が震えながら答える。
「へ、部屋の……窓から……いえ、その……扉から……」
言葉が揺れる。
嘘ではなく、恐怖に揺れている。
ノアが淡々と助け舟を出す。
「侵入は扉から入った線が強いです。
ただし、逃走は確実に窓。
扉の鍵穴に油、糸を切る薄刃の痕、床板の接触刻印。
窓枠には足跡に伴う粉の筋と、布の繊維が残っています」
保安局の女の目が細くなる。
「……あなた、詳しいのね」
「職務です」
ノアの返しはいつも通りだが、少しだけ硬い。
昨夜の“遅れ”を取り返そうとしている。
倉庫区画の男が言う。
「現場へ案内しろ」
宿の主人が案内し、検分一行が階段を上がる。
アシュレイはリュカを伴い、最後尾に付いた。
最後尾は逃げやすい場所でもあるが、見落とされる場所でもある。
今はそれでいい。
部屋に入ると、湿った床と、乾きかけた粉の跡がまだ残っていた。
窓の下の光る筋も薄いまま残っている。
保安局の女がしゃがみ込み、指先で粉を拾おうとする。
ノアが即座に止めた。
「素手は避けてください。混ざります。
こちらの封緘袋を使って」
女は一瞬むっとしたが、すぐに頷いた。
「……分かったわ。慣れてるのね」
「慣れたくはありませんがね」
ノアの言葉に本音が混じる。
倉庫区画の男が窓枠の繊維を確認し、紙に何かを書きつけた。
記録が増える。
記録が増えるほど、相手は動きづらくなる。
その時、保安局の女がアシュレイへ視線を向けた。
「で、あなたが被害者? ……魔道具店の店主だって?」
「そうだ」
「昨夜、侵入者と接触した?」
「した。言葉を交わした」
「特徴」
アシュレイは短く、要点だけを出す。
「下働きの服。髪は隠していた。
呼吸は一定。右足が内に入る癖がある。
拡散粉と薄刃を使った」
保安局の女が目を細める。
「動きの癖まで見たの?」
「癖は嘘をつきにくい」
女は鼻で笑った。
「……理屈屋」
「それしか武器がない」
そのやりとりの間、リュカは黙っていた。
それが今日の彼女の役割だ。
だが、保安局の女はリュカへも質問を投げる。
「そこの子。怖かった?」
リュカの指がアシュレイの袖を掴む。
アシュレイは答えを代弁しない。ここでの代弁は彼女の“声”が奪われる。
ただ、横にいる。
リュカは小さく息を吸い、はっきり言った。
「……こわかった。
でも、アシュレイがいた。だから、へいき。横だからね」
保安局の女が一瞬だけ目を丸くし、次に口元を緩めた。
「”横だから”ってどういうこと?」
リュカは真顔で言う。
「横は、横」
アシュレイが咳払いで笑いを誤魔化す。
場の空気が一瞬だけ軽くなる。
そういう瞬間は、守りが薄くなる瞬間でもある。ノアの目が一段鋭くなった。
倉庫区画の男が言う。
「宿の関係者も確認する。料理長を出せ」
宿の主人が顔色を失い、護衛が料理長を連れてきた。
料理長は朝より目が赤い。泣いた目だ。
保安局の女が料理長を見て言った。
「話す気はある?」
料理長の口が震え、ノアを見て、次にアシュレイを見た。
そしてようやく頷く。
「……話す。話すから……娘を……」
ノアが短く告げる。
「娘さんは保護しました。無事です」
料理長の肩が落ち、涙がこぼれた。
恐怖の根源が移った。
教団から公へ。
それだけで彼は少しだけ話せる。
料理長は震える声で言った。
「……倉庫の帳面の男が……下働きの“ユナ”を置けって……
それで……夜に……赤い布の端……金の線……」
倉庫区画の男の眉が上がる。
「金の線?」
ノアが言う。
「深律教団の意匠です」
部屋の空気が変わった。
“宿の侵入”が、“教団の関与”の意味を持った瞬間だ。
名前や意味を持つと、公は動かざるを得ない。
保安局の女が唇を歪めた。
「……面倒なのが出てきたね」
アシュレイは短く言った。
「こっちが選んだ面倒じゃない」
「それもそうだね」
女は頷き、そして倉庫区画の男へ言い切った。
「この宿だけでは済まない。
倉庫区画の出入り、雇用の口利き、全部洗う。
――街全体として動く案件だ」
倉庫区画の男が渋い顔をしながらも頷く。
「……上へ回す」
上へ回る。
つまり紙が増える。
紙が増えれば、相手はさらに焦る。
ノアが静かにアシュレイへ視線を寄せ、声を落とす。
「クローヴ殿。
今日で街の表の顔は“知ってしまった”。
ここから先、相手は裏に戻ります。
――つまり、あなた方の旅は、まだ続くでしょう」
アシュレイは頷いた。
「止まる気はない」
リュカが小さく言う。
「……キャリちゃんもいく」
「ああ。一緒だ」
検分はまだ始まりに過ぎなかった。
通りに響いた公の靴音は、裏の足音を、次の場所へ追い立てる合図になる。




