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1-64 侵入経路

 広間を出た瞬間、音の層が一枚剥がれた。

 食器の触れ合い、笑い声、湯気の匂い。そういう生活の騒がしさが後ろへ引き、代わりに廊下の静けさが前へ出る。静けさは見えないものを見せる。


 アシュレイは歩幅を変えず、しかし視線の拾い方だけを変えた。

 床板の沈み。壁の擦れ。灯りの揺れ。扉の隙間。

 静かな場所では些細なものも形を作る。


 リュカは言われた通り背後に回り、ノアは左斜め後ろ――三人の位置関係が自然に組み上がる。

 ノアがいると視界が広がる気がした。魔法ではなく、視野を広げる訓練の成果だろう。


 入口に近い廊下の角へ向かう途中、アシュレイは一度だけ振り返った。

 追手はない。

 それが逆に不安を煽る。追わないということは、別の手段があるということでもある。


 角を曲がる手前に掃除道具の棚があった。

 昨夜の侵入者が下働きの格好だったことを思い出す。

 掃除道具は最も自然な偽装の手段だ。


 アシュレイは棚の前で立ち止まり、布巾の山を眺めた。

 棚に記載された数と合っているか。使った形跡はあるか。

 布が濡れているのは夜に使った証拠になるが、朝の時間帯の、しかも畳まれた山の中に濡れているのが混じっているのは不自然である。


 ノアが声を落とす。


「クローヴ殿、気づきましたか」


「……一枚だけおかしいな」


 アシュレイが指を差す。

 布巾の端にわずかな赤茶の染み。血ではなく、油と何かが混ざった色だ。

 そして、布の織りが他より粗い。宿の備品ではなく、外から持ち込んだ布だ。


 ノアが頷く。


「昨夜の者が置いた可能性が高い。

 ……掃除道具棚に“戻す”ことで、宿の内部の犯行に見せかける」


「そうする理由――誰かを庇っているのか」


 アシュレイの言葉に、ノアが一瞬だけ眉を寄せる。


「……庇う、あるいはそうさせられている」


 脅し。

 何かを恐れ、頑なに口を割らない料理長。

 線が一本繋がる。


 リュカが棚を覗き込み、鼻をひくひくさせた。


「くさい」


「何の匂いだ」


「……あぶら。あと、こな。昨日の匂い」


 昨夜、鍵穴に残っていた油。拡散粉。

 リュカの感覚は時々推理の近道になる。魂が欠けているからこそ、余計とも思える情報まで落とさず拾うのかもしれない。


 アシュレイは布巾を紙で包み、封筒に入れる。

 封緘はノアに任せる。


 ノアが封を押しながら言う。


「検分の場で出せます。宿の備品と異なる布

 ――料理長への圧力が強まります」


「強めすぎると、余計に口が閉じるだろう」


「恐怖で口を割らない者は、恐怖の方向が変われば開きます。

 “守っている相手”が守れないと悟った時に」


 ノアは証人や現実の扱い方を知っている。


 廊下の角へ出ると、入口の外気が再び流れ込む。

 温まった空気が朝の終わりを知らせていた。

 正午が近い。


 宿の裏口へ通じる小さな扉がある。

 昨夜の侵入者は窓へ跳んだが、逃走の導線は複数ある。窓は明らかに“派手”だ。

 逃走に使うなら裏口を先ず考えるだろう。


 アシュレイは裏口の扉の下を見た。

 埃の筋。誰かが最近ここを通ったなら、埃は流れる。


 ――擦れている。


 しかも、今朝の時間帯にしては新しい。

 湿り気が残る筋。夜の結露を踏んでいる。


「ここは使われたな」


 アシュレイが言うと、ノアは即座に護衛へ合図を送った。

 護衛が二名、廊下の端へ走り、裏口の外を確認しに行く。


 その間にノアは扉の鍵穴を見た。

 そして息を吐く。


「……昨夜と同じ匂いです」


「同じ手が動いたか」


 アシュレイは扉の木目を眺め、指先で空中をなぞった。

 鍵穴の周囲に僅かなの擦れ。

 薄刃の差し込み痕。糸を切るための刃と同じ種類。


 ――彼女は宿の中へ入るときと同様に、宿の外へ出ていた。


 つまり、侵入も逃走も宿の内部に協力者がいなくても成立する。

 だが、料理長を脅す者は確かに存在する。

 料理長の恐怖が内部によるものの可能性はまだ残っている。


 護衛が戻ってきた。


「クローヴ殿。裏口の外に車輪の跡が一筋ありました。

 小型の荷車……いや、手押し台車のような跡です」


「台車?」


 ノアが眉を寄せる。


「粉を運ぶ。衣装を運ぶ。あるいは――回収物を運ぶためか」


 アシュレイの中で昨夜の侵入者の視線が思い出される。

 寝床へ走った視線。

 欲しかったのは“道具”だけではない。

 リュカの存在そのものも目的になり得る。


 アシュレイは短く言った。


「検分の前に、もう一つだけいいか。

 料理長に庇っている者の名を言わせる」


 ノアが頷いた。


「はい。

 ただし、こちらが脅して言わせるのではなく、

 ――料理長が“言った方が生きる”状況を作ります」


 その言い方はノアらしい。

 彼の優しさは理屈の形をしている。


 リュカが袖を引いた。


「アシュレイ。わたしもいく?」


「ああ。だが前には出るな」


「うん。横だね」


「横だ」


 その確認が終わったところで、廊下の奥から宿の主人が走ってきた。

 真っ青な顔で、口が乾いている。


「た、大変です……! 料理長が……料理長が……!」


 ノアが静かに言う。


「落ち着いてください。何が」


「『俺じゃない! 俺は言われたんだ!』って……!

 それで……『赤いローブの女が……』って……!」


 アシュレイとノアの視線が一瞬で交わる。

 深律教団。

 赤いローブの女。

 夜の侵入が教団の末端か、あるいは教団に繋がる“下請け”である可能性が上がった。


 ノアが主人の腕を掴み、声を低くする。


「誰が聞きました」


「わ、私と……護衛の方が……!」


「その場へ案内してください。今すぐ」


 約束の時間を待つ必要はない。

 口を開いた瞬間が最も情報を引き出せる。


 アシュレイはリュカに目的地の方を示して言った。


「行くぞ」


 廊下の静けさが一気に足音で破られる。

 隠れていた線が再び動き始めた。


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