1-63 朝餉
宿の朝餉は質素だが温かかった。
麦粥に干し肉、刻んだ香草。湯気が立ち、木の器が小さく軋む。
階下の広間には旅人が数組、商人風の男たちが二人、そして地元の労働者らしい者が数名――客の顔ぶれは雑多で、だからこそ混ざる余地がある。
アシュレイは壁際の席を選んだ。
入口と階段が見える。窓も見える。
広間の真ん中はどれだけ明るくても死角が多い。
リュカは椅子によじ登り、器の縁に両手を添えた。
小さな身体でも動きは軽い。だが、その軽快さの裏に“動けなくなる夜”があることを知っている。
「アシュレイ、これ、あったかい」
「冷めないうちに食べろ」
「うん」
リュカは粥を口に運び、目を細めた。
甘いわけでも濃いわけでもない、ただ温かい味。旅の朝に必要なのはそれだ。
アシュレイは粥を口にしながら、広間の視線を拾った。
視線は常にある。旅人が珍しい、子どもが珍しい、男が一人で子どもを連れているのが珍しい――理由は無数だ。
問題はその中に異質な視線が混ざること。
入口が開き、冷たい外気が一瞬流れ込む。
宿の主人が笑顔を作って入ってきた。作り笑いだ。頬だけ動き、目は動かない。
主人は広間を一周見回し、そしてアシュレイの席へ真っ直ぐ近づいてきた。
手酷く絞られてきた人間の動きだ。誰に話しかけるべきか、もう決まっている。
「お、おはようございます……! 昨夜は……その……」
「話は後でいい」
アシュレイは短く切り、粥の器を置いた。
「料理長は」
主人の顔が引きつる。
「い、今、裏で……護衛の方が……」
「逃げたか」
「い、いえ! 逃げては……その、抵抗は……」
抵抗はした。
それと何かを隠している。
リュカが粥を飲みながら、小さく首を傾げる。
「料理長、わるいひと?」
主人が「いえっ」と過剰に首を振った。
「そんな! 彼は――」
「静かに」
アシュレイの低い声で主人の言葉が止まる。
広間での大声は諸刃だ。噂はやがて線になる。線は相手の餌になる。
「検分が入る。余計なことは言うな。
俺はただ予定通り動くだけだ」
主人は震えながら頷き、去っていった。
去る背が少し曲がっている。罪悪感か、恐怖か。どちらでも良い。重要なのは記録だ。
アシュレイは粥をもう一口飲み、干し肉をかじった。
噛むことで頭を回す。
空腹での推理は思わぬミスを生む。
その時、階段から降りてくる足音がした。
音は軽い。けれど雑ではない。歩幅が一定で、身体の軸がぶれない。訓練された足音。
ノア・シルエルが広間に現れた。
短くまとめた黒髪、整った身なり、宮廷魔法師の徽章は見せない。今は見せない方が混乱を避けられる。
だが、彼の存在そのものが目立つ。中性的な美しい顔立ちが、朝の粗い空気の中で浮く。
ノアは広間の視線を一瞬で読み、まっすぐアシュレイの席へ向かった。
そしていつも通りに言った。
「おはようございます、クローヴ殿。
ご一緒してもよろしいでしょうか」
「座れ」
ノアは椅子を引き、音を立てずに座る。
その所作だけで彼が“場を乱さない訓練”を受けているのが分かる。
リュカが目を輝かせた。
「ノア!」
ノアは一礼し、柔らかい声で返した。
「おはようございます、リュカ殿。
昨夜は……ご無事で何よりです」
「わたし、ねてただけ」
「はい。今は眠れることも強みです」
言い方が妙に優しい。
アシュレイはそれを横目で見ながら、ノアへ問う。
「検分の時間は」
「正午前です。担当は二名。倉庫区画から一名、街の保安局から一名。
――それと、料理長は拘束しました。今は別室です」
「口を割ったか」
「固いです。
口が固い者にも種類があります。
忠誠心から固い者と、恐怖で固くなる者。
料理長は後者です」
ならば、必ず恐怖の源がある。
その根源を突けば、線が出てくる。
アシュレイは干し肉を噛み、飲み込んでから言った。
「倉庫区画か」
「可能性は高いかと。
ただ、昨夜の侵入者の言葉――内情が漏れている点から、宿の内部情報だけではなく、あなた方の周辺情報の多くが把握されていると考えた方がいいでしょう」
ノアは声を落とし、しかし言葉を曖昧にはしない。
「……昨夜、影の介入があったと聞きました。
記録上は護衛の介入としましたが、実際は別の影でしょう」
アシュレイは曖昧に頷くだけにした。
広間で《アーク・プロトコル》の名を出すのは危険だ。
ノアも深追いしない。
代わりに、机の下で小さな紙片を差し出した。
「これを」
アシュレイは紙を受け取り、視線だけで読む。
短い暗号のような文。
“昨夜、回収。外周。負傷軽。拘束可。供述は不要。線のみ。”
そして、最後に癖のある筆跡がある。
リュドラ。
リュドラ・カンナの“影”が確かに動いたという報告。
必要な線だけを渡し、供述は不要。余計なものを背負わせない。
合理的だ。だが、なぜか冷たさは感じられない。
アシュレイは紙片を握りつぶすように折り、袖の内にしまった。
「……分かった」
ノアは視線を一瞬だけアシュレイの手元へ落とし、戻す。
彼は気づいている。しかし言葉にはしない。
今はそれが最善だと理解している。
リュカが粥を食べ終え、ノアに運ばれた皿を覗き込んだ。
「ノア、たべないの?」
「後でいただきます。今は――」
ノアは言葉を切り、周囲の視線を一度だけ掃いた。
「……ここは、少し落ち着きませんね」
リュカがきょとんとする。
アシュレイは代わりに答える。
「元から落ち着くような場所じゃない。混ざるための場所だ」
「混ざる?」
「雑多な者が混ざる場所は、異質な者がよく見える。そういう場所は狙われる」
リュカは少し考え、短く言った。
「じゃあ、ここ、あぶないね」
「ああ。だから、俺たちは敢えてここで飯を食う。
平然としていれば、相手から焦りを見せる」
ノアが小さく頷く。
「クローヴ殿らしい」
その言葉に、リュカが不満げに頬を膨らませた。
「アシュレイらしいって、なに」
「俺は俺だ。なにも変わらん」
「……ふーん」
小さなやりとりが広間の緊張を少しだけ緩める。
周囲の雑音が戻る。
すると、逆に“異物”が浮く。
その瞬間、アシュレイは感じた。
入口の近くで誰かが一度だけこちらを見て、すぐ視線を逸らした。
動きが早すぎる。旅人の好奇心ではない。
アシュレイは器を置き、立ち上がった。
「ノア。広間を出る。
リュカは俺の後ろだ」
「うん」
「承知しました、クローヴ殿」
三人はごく自然に席を立つ。
急ぐ素振りを見せれば追われる。だから平然と歩く。
追われるのではなく、追う側に回るために、自然と出る。
広間の外の廊下は少しだけ音が和らぐ。
静かな場所ほど、線がよく見える。
正午前までにもう一つ線が掴めそうだ。
アシュレイの頭の中で、虚線が色濃く伸びていった。




