1-62 当事者
夜は長かった。
椅子の脚が床に食い込み、濡れた木板が乾ききらないまま冷えていく。灯具の火は小さく、影は大きい。影があるほど、部屋の隅は何かがいるように見える。
アシュレイは椅子に背を預けなかった。
そうすると、呼吸が深くなって眠りへ滑る。
――意識を閉じた間に、リュカが変わってしまうことが怖い。
寝床の方へ視線を向ける。
リュカは動かない。
けれど時々、喉が小さく鳴り、胸が確かに上下する。それだけでアシュレイは「まだいる」と確認できる。
廊下では、時折、護衛の靴底が床を軽くこする音がした。位置を変える音だ。
夜番が交代したのだろう。過剰に音を立てないが、存在感は消さない。
見せない配置、消さない存在感。ノアの仕事は丁寧で、現場の癖が少ない。
――それなのに。
アシュレイの鼻は、まだ鍵穴の油の匂いを覚えていた。
昼に嗅いだ油。夜に嗅いだ油。
同じ手が動いた証だ。
机の上の封筒が目に入る。
布の繊維、粉の残滓、床板の筋、窓枠の擦れ――全部が“線”として残った。
線は紙に乗る。そして公が動く。
相手は焦る。やがて次の線が現れる。
理屈は通る。
だが胸の奥が落ち着かない。
その理由は分かっていた。
今回の侵入者は“ユナ”の姿だった。
宿の中にまだ、同じように“顔を借りられる者”がいるかもしれない。
――つまり、宿という箱は、中からも開く。
アシュレイは立ち上がり、窓の鍵を確かめ直した。
指先で直接触れない。布越しに確かめる。
異常なし。
そのとき、寝床の方から微かな音がした。
布が擦れる音。小さな足が動く音。
アシュレイは反射で身構え、次にすぐ力を抜いた。
起きたのではない。眠りの中の動きだ。
リュカの口がかすかに動いた。
「……キャリちゃん……」
寝言だった。
それだけで胸が締め付けられる。
アシュレイは寝床へ近づき、布団の端に手を置いた――触れない程度に、布を少し整えるだけ。
そして、声を極限まで小さくして言った。
「大丈夫だ。ここにいる」
返事はない。
リュカは小さく息を吐き、また動かなくなった。
時間が流れる。
外の蒸気の流れが、少しずつ弱くなる。
街が夜の働きを終え、朝へ切り替える音だ。
扉が小さく叩かれた。
「クローヴ殿。ノア・シルエルです。――朝の報告を」
アシュレイは扉へ向かい、鍵穴と取っ手の痕を一瞥してから開けた。
ノアが立っていた。艶のある黒髪は乱れていない。
だが、目の下に薄い影がある。寝ていない証拠だ。
彼もまた夜を椅子で越えたのだろう。
「失礼します」
ノアは一礼し、部屋に入った。床の濡れ跡を見て眉を寄せる。
「清掃はさせませんでした。証拠が消えますから」
「正しい判断だ」
「後程、管理局の検分が入ります」
ノアは封筒を二つ取り出した。ひとつは宮廷の封緘。もうひとつは倉庫区画管理局の封緘だ。
「先ず、宿の料理長を押さえました。彼は逃げませんでした。
……ですが、口は固い。『倉庫の取引先が紹介した下働き』以上は言いません」
「ユナの正体は」
「名は偽名です。身分票が偽物でした。
ただし、作りが“雑”です。
雑に見せて足取りを散らすタイプでしょう。訓練者です」
ノアの言葉は淡々としている。
だが怒りが混じっている。声に棘がある。
「倉庫区画の担当者は?」
「今朝、私の名で直接呼びました。
検分は正午前。
クローヴ殿の証言は簡潔でいい。
“侵入があった。下働きの姿。拡散粉。窓から逃走”――」
「屋根の介入は?」
「記録上は護衛の介入です」
ノアは迷いなく言う。
そして、声を落とした。
「……ただ、裏で確認は取ります。
リュドラ殿が“回収”したなら、痕跡が残ります。
それを辿れば次の襲撃の線が読めます」
「できるか」
「はい。私が読みます。
クローヴ殿に背負わせません」
それが、いまのノアの本音だ。
背負わせたくない。
だが、それは未だに“役目”の仮面で包まれている。
アシュレイは短く頷いた。
「ありがとう」
ノアが一瞬だけ目を細め、すぐに表情を戻した。
「……それと、もう一点。
倉庫区画の“委託監査補助”の偽装は、今朝の時点で使えません。
相手がこちらの名を把握しました。
次からは、別の札で動く必要があります」
「別の札?」
「旅人札。商人札。あるいは――事件の当事者として。
つまり、あなた方が“巻き込まれている”ことを公にします」
アシュレイは眉を寄せる。
それを公にするのは危険でもある。
しかし、隠すほど相手はやりやすい。
公にすれば確かに相手は動きづらい。代わりに、別の手段が増える。
ノアは続けた。
「私の提案は、“当事者札”です。
あなた方は被害者。宿への侵入があった以上、保護対象になります。
公が動く理由が増えます」
「保護が増えるほど、目も増える」
「はい。だからこそ、位置を選びます」
ノアの視線が一瞬、寝床へ向いた。
眠るリュカ。
守るべき最優先がそこにある。
アシュレイは息を吐いた。
「分かった。検分の場には出る」
「ありがとうございます」
ノアが頭を下げ、次に付け足す。
「……そして、昨夜の件で一つ、確定しました。
相手は“あなたの荷物”だけでなく、“あなたの事情”を知っている。
つまり、あなた方の周辺情報が漏れています。
宿だけではなく、街の中での言動も、しばらく控えてください」
アシュレイは思わず口元を歪めた。
「今さら控えろってのも難しいな」
「難しいですが、お願いします。
呼称は刃になります」
ノアが真剣すぎて、アシュレイは冗談で返せなかった。
代わりに、少しだけ譲歩する。
「……リュカの前では変えない。だが外では気をつける」
「それで十分です」
ノアが少しだけ安堵した顔をし、扉へ向かった。
出る前に、もう一つだけ言う。
「クローヴ殿。
キャリッジは今朝、厩舎の奥へ移しました。
厩舎係のミルは信用できます。護衛も増やしました」
「勝手に動かしたのか」
「許可を取る暇がありませんでした。申し訳ありません」
ノアは謝罪を口にしながら、きちんと正当化もする。
彼のやり方は合理的で、だからこそ信頼できる。
「いい。……助かる」
ノアが出ていく。扉が閉まる。
湿った床と、眠るリュカ。
正午前には検分という予定。
アシュレイは寝床へ戻り、リュカの顔を見た。
小さな頬。閉じた瞼。
彼女は“守られていること”を知らないまま眠っている。
――知らない方がいい。今は。
アシュレイは椅子に戻り、ようやく水を一口飲んだ。
喉が少しだけ痛い。粉を吸っていないつもりでも、空気は汚れている。
この街の夜はジワジワと誰かの息を削る。
そのとき、リュカがふっと目を開けた。
起きる時はいつも唐突だ。死に似た眠りから、生に引き戻されるように。
彼女は一瞬、天井を見て、次にアシュレイを見た。
「……アシュレイ、まだいる?」
「ああ。ここにいる」
「夜、こわかった?」
起き抜けの質問が鋭い。
昨夜”頼れ”とノアに言われ、そして自分も本音を口にした。
だから、ここで嘘はつけない。
「……怖かった」
リュカは少しだけ目を丸くし、次に、慎重に言った。
「わたしも、こわかった。
でも、起きたら、アシュレイが横にいた」
胸が少しだけ温かくなる。
アシュレイは笑うのを我慢して、短く答えた。
「横だ」
リュカはそれだけで安心したように息を吐き、そして急に眉を寄せた。
「……キャリちゃん、だいじょうぶ?」
「大丈夫だ。今朝、厩舎の奥へ移した。守りも増やした」
「だれが?」
「……ノアが」
リュカが目を輝かせる。
「ノア、えらい!」
「そうだな」
その会話が少しだけ、部屋をいつもの朝にした。
夜に閉じた箱がわずかに開く。
だが、開いた隙間から入ってくるのは朝の光だけではない。
後に控えた検分。料理長の証言。消えた“ユナ”。
そして、内情を知る敵。
虚線はまだ途切れない。
むしろ、線は濃くなっていく。
アシュレイは鞄を開け、封筒を確かめた。
戦うための紙。
次の一手のための準備。
「飯を食う。検分までに頭を回す」
リュカが頷き、いつもの調子で言った。
「うん。アシュレイ、朝ごはん」
言い方が少しだけ明るい。
アシュレイはその明るさにまた救われた。




