1-61 心の揺れ
粉の湿った匂いがまだ部屋に残っている。
水で濡れた床は冷え、灯具の火が小さく揺れている。光で影が伸び、部屋の角がいつもより深く見えた。
護衛が二人、扉の左右に立ったまま動かない。
それは緊張の表れであり、同時に訓練の結果でもある。
――いまこの部屋は戦場の跡だ。
アシュレイは窓枠の下に膝をつき、指先で布の繊維を拾い上げた。
布の端が引き裂かれ、細い糸が数本残っている。服の種類。色。織り方。
それが分かれば、宿の備品か外部の布かが割れる。
拾い上げた糸を封筒に入れ、封をする。
その作業が終わった頃、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
乱れのない足音。
急いでいるように見せない足音。
「クローヴ殿」
ノアの声だった。
扉が軽く叩かれ、開く。
ノアが入ってきた。短くまとめた黒髪にも乱れはない。
しかし目だけは動揺が見えた。
驚きと怒りと、遅れたことへの焦り――それを礼儀で押し固めたような目だ。
「ご無事ですか」
「無事だ。リュカも眠っている」
アシュレイが言うと、ノアの肩がほんの僅かに落ちた。
息を吐くのを我慢していたのが見て取れた。
ノアは部屋に入る前に護衛へ短く指示を飛ばす。
「廊下の角、階段、裏口――配置はそのまま。
今夜は抜けを作らないでください。
それと、下働きの名簿をすぐに回収。宿の主人をこちらへ」
護衛が頷き、片方が廊下へ出ていく。
ノアは床の痕跡と粉の残滓を一瞥し、眉を寄せた。
「……拡散粉。倉庫区画のものと同種です」
「俺もそう見た」
アシュレイは窓の下の光る筋を指で示した。
撒いた粉が足跡を拾い、床に“逃走線”が残っている。
「窓へ跳んだ。
扉の糸は切られたが、鈴は鳴らさないように対処した。
相手は下働きの服で侵入。名は……ユナ、と呼ばれていた」
ノアの目が鋭くなる。
「……本人ではない可能性もありますね」
「ああ。
それと、俺をよく知っている風だった。
寝ている女に張り付く“趣味の悪い男”だそうだ」
ノアが一瞬、言葉を失う。
「こちらの内情が漏れて……」
「漏れているな。
だから、今回の相手は偶然じゃない。狙いは最初からここにあった」
ノアは床板へ視線を落とした。
自分が入れた刻印が淡く残す筋――接触回数の記録がまだある。
「……刻印の反応が残っています」
ノアはしゃがみ込み、指先を床板へ近づける。
浮いた痕跡の情報を読み、短く言った。
「三歩で停止。右足の内入り。
……癖が伺った話と一致します。昼の追手と同一か、同系統の訓練者」
アシュレイは頷き、窓枠に残った布の繊維を入れた封筒を差し出した。
「これも残っていた。
粉の残りと合わせて、封緘に乗せたい」
「承知しました」
ノアは封筒を受け取り、その場で宮廷の封緘を押した。
押す指に迷いがない。迷う暇がない。
そして、ノアは声を落とした。
「……屋根の上で、何かが介入したと」
「した。相手の腕が動かなくなった。
俺は窓の内側からしか見ていない。
ただ――匂いがした。乾いた煙草と古い革の匂いだ」
ノアの目が微かに揺れた。
確信に近いものに触れた時の揺れだ。
「……リュドラ殿」
「だろうな」
「クローヴ殿。今夜の件は、記録としては“護衛の介入”で通します。
屋根の件を紙に載せると、管理局が動けなくなります。
――“正体不明”は役所が嫌う文言です」
「分かっている。俺も言いふらす気はない」
ノアは小さく頷き、顔を上げた。
「では、ひとつだけ。
相手を“回収”したなら、尋問ができます。
こちらの側の手で、短く、確実に」
アシュレイは迷わず首を振った。
「こちらは深くは知らない方がいい。
知らないまま進む方が、相手の読みを外せる」
ノアの口元がほんの少しだけ歪んだ。
納得ではない。悔しさに近い。
「……クローヴ殿は、いつもそうですね。
自分が泥を被る方を選ぶ」
「泥を被っているわけじゃない。
合理の話だ」
「合理、ですか」
ノアは言う。
けれどその声に感情が混ざる。合理の仮面に、正直な心が触れる。
アシュレイは返す言葉を探し、結局、短く言った。
「……心配するな」
「します。
私はクローヴ殿を守る役目があります」
「役目、か」
その言葉に、ノアは少しだけ目を逸らした。
役目と言えば感情を隠せる。
だが隠し切れていない。
廊下が騒がしくなり、宿の主人が連れて来られた。
主人は青い顔で手を震わせている。
「す、すみません……! まさか夜に……!」
ノアがきっぱりと言った。
「謝罪は後です。
先ず名簿を。下働きの名、採用元、紹介状、今夜の当番表。
それと、今夜ここへ飲みに来た客の帳面。全部」
「は、はい……!」
主人が帳面を差し出す。
ノアは流れるようにページを繰り、必要な箇所に印を付けた。
「“ユナ”。紹介状なし。雇い主は……料理長の口利き。
料理長は誰から?」
主人がうろたえ、言葉に詰まる。
「し、知らないんです……! 料理長が……『倉庫区画の取引先から』と……」
アシュレイが口を挟む。
「倉庫区画と宿が繋がった。
昼の線が夜に伸びただけだ」
ノアは主人へ言い切った。
「料理長を拘束します。今すぐ呼んでください。
逃げたら襲撃者と共犯。逃げなければ、まだ疑いだけで済みます」
「ひ、ひえ……!」
主人が廊下へ走る。
ノアは護衛へ向き直った。
「今夜はこの部屋の前に一名追加。
ただし、外部から見えない位置で。
窓の外、屋根の巡回は――」
ノアは一瞬だけ言葉を切り、次に平然と続けた。
「……私の方で手配します」
その“手配”の中に、リュドラの影が混ざっているのだろう。
アシュレイは追及しない。追及すれば余計な説明が増える。
指示が終わると、ノアは寝床の方へ目を向けた。
眠るリュカの小さな身体。動きは小さいが、確かに生きている呼吸。
「……リュカ殿は起きませんでしたか」
「ああ。起こさずに済ませたかった」
ノアは静かに頷いた。
「正しい判断です。
リュカ殿が驚くと、相手にとって都合のいい状態になります」
「都合か」
「魂の固定が不安定な状態だと、感情の揺れは“隙”になります。
……深律教団が狙うのは、物だけじゃない。
心の揺れです」
アシュレイは目を伏せ、短く呟いた。
「……二十年前と同じか」
ノアはその言葉にすぐ返さなかった。
返せる言葉がないからだろう。
代わりに、ノアはゆっくりと、しかしはっきり言った。
「クローヴ殿。
今夜の襲撃で相手は一つ目標を失いました。
――あなたを“驚かせて崩す”計画です。しかしあなたは崩れなかった」
「崩れてないだけだ。恐れはあった」
アシュレイは思わず言っていた。
ノアの言葉がまだ耳に残っていたからだ。
ノアの目がわずかに柔らかくなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。
怖いと言っただけだ」
「それで十分です。
恐怖を口にできる人は、崩れにくい」
ノアは真顔で言い切り、そして少しだけ声を落とした。
「……そして、私も、少し怖かったです」
アシュレイが顔を上げる。
ノアはすぐに視線を逸らし、帳面へ目を戻す。
言ったことを後悔しているのではない。言ったことを表に出し過ぎないための動きだ。
部屋に静けさが落ちた。
その静けさの中で、眠るリュカが小さく息を吸い、吐いた。
まるで”そばにいること”を思い出すような呼吸だった。
アシュレイは寝床の端へ目を向け、声に出さずに言う。
――必ず守る。
ノアが帳面を閉じた。
「明朝、管理局へ正式な被害届を出します。
委託偽装の件と接続させます。
これで倉庫区画だけでなく、宿の側にも監視が入ります」
「相手はどう出る」
「焦ります。
焦れば、必ず“余計な線”を出します」
ノアは扉へ向かい、最後に振り返った。
「クローヴ殿。今夜は……お休みになれませんね」
「寝ない」
「なら、せめて水を飲んでください。
粉を吸っていなくても、喉は乾きます」
ノアは水差しの代わりを護衛へ指示し、静かに出ていった。
扉が閉まる。
残ったのは、湿った床と、小さな寝息と、紙に乗った新しい線。
アシュレイは椅子に座り直し、掌を見た。
震えてはいない。
だが、震えないように固めている。
そして、心の中で一つだけ、言えなかった名前を転がした。
――リゼット。
今夜、彼女がここにいればーー
いや、いればもっと危うい。だからこれでいい。
彼女は影で支える側にいる。――《アーク・プロトコル》の中心に。
そのいじらしさを、アシュレイはまだ直視できない。
直視してしまえば、守りたいものが増える。
守りたいものが増えると隙ができる。
だから、今夜はただ理屈で自分を立たせる。
夜が明けるまで、椅子に背を預けずに。




