1-60 闖入者の狙い
日が落ちると宿の空気は急に閉鎖的になった。
廊下の灯りは一定の間隔で揺れ、階下の酒場からは笑い声が上がる。だがその声は、壁を一枚隔てただけで遠くなる。
リュカは寝床の端に座り、指先で布をつまんでいた。
眠る前の癖だ。眠ると動けなくなることを身体が知っているからか、わずかな手触りにしがみつく。
アシュレイは机の上に今夜必要なものだけを残した。
封筒――ノアから預かった照会番号と担当者名。
針金――結び直し用。
小さな灯具――火は弱く、影が強く出る角度に調整。
そして多様な工具。彼の戦いは”残すこと”にある。
護衛は廊下側に一人、階段の角に一人。
外部に数を見せない位置で守る。ノアの言った通りに配置されている。
アシュレイは一度だけ窓を見た。
粉は撒いた。窓枠に触れた痕が出ればすぐに分かる。
それでも心が落ち着かないのは、相手が窓から来るとは限らないからだ。
「アシュレイ」
リュカが小さく呼ぶ。
「どうした」
「眠くなってきた」
声がわずかに震えている。
彼女にとっての眠気とは動けなくなる合図だ。
「……もう一度手順を確認する」
アシュレイは椅子を引き、リュカの前にしゃがんだ。視線の高さを合わせる。
「先ず、お前は壁際にいてくれ。窓から一番遠い位置、今の場所でいい。
次に、俺はここにいる。扉が見える位置で寝床にも手が届く位置。
護衛は廊下だ。ノアの刻印は床板にある。
鈴が鳴ったら俺が起きる。いや、鳴らなくても俺は起きてる」
「寝ないで……大丈夫?」
「やるしかない」
リュカが一瞬だけ笑いかけて、すぐ真剣に戻った。
「もし、来たら」
「来てもお前に触れさせない。
寝床に触れるのは俺だけだ」
リュカは小さく頷き、そして、ようやく言った。
「……怖い」
「言えたな」
「怖いけど……がんばる」
「頑張るもんじゃない。そこにいればいい」
その返しに、リュカの目尻が少しだけほどけた。
緊張がほどけると眠気が増す。彼女は寝床へ潜り、身体を丸めた。
「……キャリちゃん、だいじょうぶかな」
「キャリッジは厩舎にある。鍵は二重、護衛もいる。
触ろうとした事実がある以上、油断はしない」
リュカは短く「うん」と答え、瞼を重そうにする。
眠りに落ちる直前、彼女はいつもの言葉を残した。
「傍にいるからね」
「ああ」
リュカの呼吸がゆっくりになり、まるで糸が切れたように動かなくなる。
その眠りは死に似ている。
だからアシュレイは毎回その瞬間に胸の奥が冷える。
――守る。
彼は椅子に腰を下ろしたまま背筋を伸ばし、扉と窓と床板の気配を順番に拾った。
耳は微弱な音を拾う。鼻は微かな匂いを拾う。目は小さな影をも拾う。
時間が流れる。
階下の笑い声が一度大きくなり、やがて小さくなった。
水差しを片付ける音。食器の重なる音。
宿が夜の終わりへ向かう音。
その時、廊下の灯りが一瞬だけ揺れ方を変えた。
風ではない。人の影が灯りの前を横切った揺れ方だ。
アシュレイは動かない。
そのまま耳だけを尖らせる。
――足音がない。
相手は足音を消す訓練を受けている。
あるいは、特殊な靴底で歩いている。
いずれにしても厄介だ。
扉の下の鈴は鳴らない。
アシュレイは窓へ視線を投げた。
粉は光っていない。窓枠にも異常なし。
――残るのは、廊下側。
だが扉を開けずに入る方法がある。
鍵穴の回転角を読む魔導線。
つまり相手は鍵を“回せる”だけの情報を集めている。
鍵を回し開ける。
その瞬間に鈴は必ず鳴る。
相手は用心深く音が鳴らないようにするはずだ。
――鳴らないように糸を切る。
アシュレイは椅子から立たず、足先だけを扉の方へ滑らせた。
扉の下に通した糸の張りがわずかに変わった。
張りが緩む気配。
来た。
彼は椅子の背へ手を置き、音を立てないように体重を移す。
机の下に隠した針金を一本、指に挟む。
扉の下から細い刃が差し込まれた。
糸を切るための薄刃。
刃が糸に触れる直前――アシュレイは針金で糸を結び目から外した。
鈴が鳴らないまま糸が切れる。
切った相手が手応えを感じる程度に。
成功したと思った瞬間に油断が生じる。
扉の鍵が静かに回った。
音はほとんどない。鍵穴に油が差されている。――昼に嗅いだものと同じ匂い。
扉がわずかに開く。
隙間から入ってきたのは宿の下働きだった。
肩に布。手に小さな桶。
夜に掃除をする姿に見える。
だが、呼吸が違う。
労働者の呼吸ではない。
“やることが決まっている者の呼吸”だ。吸う量が一定で、吐く量が短い。
女――背丈は低くない。髪は布巾で隠している。
顔を上げないまま、部屋へ一歩入る。
アシュレイは声を出さない。
声を出せば休止状態のリュカが“驚く”。外界の異常は体内の魔力の揺れを増やす。
相手が狙うのは、むしろその揺れかもしれない。
女は桶を置くふりをし、視線を寝床へ走らせた。
――リュカの位置を確認する視線。
次の瞬間、女の手が袖の内側へ入る。
何かを取り出す動き。粉か、糸か、刃か。
アシュレイはそこで初めて声を落として言った。
「――ユナ、か?」
女の肩がほんの僅かに跳ねた。
名で反応した。やはり“ユナ”として動いていたのだ。
女が顔を上げる。
目が合う。
目の奥に罪悪感がない。仕事の目だ。
「……起きてるのね」
声が宿の下働きのそれではない。
アシュレイの中で糸が一本切れた。
女は笑った。音のない笑い方。
そして言葉を続ける。
「寝てる女の子に張り付く男。
――いい趣味してる」
挑発だ。煽って距離を詰めさせるつもりだろう。
その瞬間に粉か刃が出される。
アシュレイは一歩も動かない。
そのまま机の影から薄い板――検知板を滑らせ、床板の刻印の反応を見る。
ノアの刻印が淡く光った。
女の足が床板に触れた回数が、微弱な光の筋として浮く。
三歩。止まる。右足がわずかに内へ入る。
――昼の追手の癖と同じだ。
同一人物か、同じ訓練を受けた者。
どちらにせよ線は繋がった。
アシュレイは声を低くしたまま言う。
「何が目的だ。リュカか。キャリッジか。俺の道具か」
女は肩をすくめた。
「どれでも、成果になる。
でも本命は――」
女の視線がアシュレイの首元へ落ちる。
そこに《クロノス・レイテンシ》が下がっていると思ったのだろう。
しかし、《クロノス》は首から外し、いまは鞄の奥に封じてある。
女の目がほんの一瞬だけ細くなる。
読みが外れたと気づいたか。
アシュレイはその一瞬を逃さない。
「……ここじゃない。探すなら鞄だ」
女が笑った。
「親切ね。……じゃあ、もらってく」
女の袖から灰色の粉がこぼれ落ちた。
搬入口で撒かれたものに似ている。
だが今回は床へ落とさず、宙へ投げた。視界を奪うつもりだ。
アシュレイは粉の軌道を見て、息を吸うのを止めた。
吸えば喉が焼ける。
止めたまま、机の下に用意していた水差しを粉の下へ滑らせて倒した。
水が床へ広がり、落ちた粉を吸着させる。
粉が湿れば拡散が鈍る。
視界は少し霞むが完全には奪われない。
女が舌打ちした気配がした。
次の瞬間、女の足が軽く止まる。
逃げるための動きだ。
アシュレイはここで初めて短く声を上げた。
「護衛!」
廊下の向こうで足音が大きく鳴る。
扉が開け放たれる音。
アシュレイの読み通りなら、女は扉へ向かう。
だが女は扉ではなく、即座に窓へ跳んだ。
窓枠に手をかける。
粉が光る。
事前に撒いた粉が女の足裏を伝って筋を作る。
逃走の線が床に残る。
アシュレイは素早く窓へ近づいた。
争わない。捕まえない。
――証拠を残す。
彼は針金を投げた。
窓枠に絡むように曲げた針金が女の脚絆に引っかかる。
女が体勢を崩し、窓枠に膝が当たる。
「っ……!」
女は振り返り、袖の中の刃を見せた。
刃は薄い。血を奪うための刃ではなく、糸や封を切るための刃。
その刃がアシュレイの腕へ伸びる――
次の瞬間、窓の外から重い音がした。
屋根の上を踏む音。
そして女の腕が見えない力で引かれたように跳ね上がる。
「……何――!」
女の声が途切れた。
窓の外の影が女の肩を掴んでいた。
顔は見えない。だが、手練れの動きだ。理屈ではなく、完成された型の速さ。
女が抵抗しようとした瞬間、影は関節を“正しく”外すように捻った。
骨は折れない。
だが腕はすでに動かない。
女は呻き、次の瞬間、影は女の襟を掴んで屋根の向こうへ消えた。
逃走でも回収でもない――”処理”の動きだ。
廊下側の扉が開き護衛がなだれ込む。
「クローヴ殿! ご無事ですか!」
「無事だ。リュカは――」
アシュレイは寝床を振り返る。
リュカは眠ったまま動かない。
だが、その胸は確かに上下している。
アシュレイは息を吐いた。
そして、窓枠の外を見た。屋根の上には誰もいない。
ただ、蒸気の中に一瞬だけ匂いが混じった。
――乾いた煙草と、古い革の匂い。
思い違いでなければ、それはリュドラ・カンナのものだ。
会ったことがなくても、伝え聞いた“それらしい”匂い。
護衛が声を落とす。
「……今のは」
「聞くな。見なかったことにしろ」
アシュレイは短く言って、床を見た。
粉の残滓。足跡の光る筋。
ノアの刻印が残した接触回数を示す筋。
窓枠に残る布の繊維。
そして、鍵穴に残る油の匂い。
残った。十分に残った。
アシュレイは机の上の封筒を掴み、護衛へ言った。
「ノアを呼べ。今すぐ。
“宿で侵入があった。下働きは偽装。目くらましの使用。窓から逃走。
――そして、外周の屋根で何者かが介入した”と」
護衛は頷き、走り去る。
アシュレイは寝床の横へ行き、眠るリュカに触れないよう布団の端だけを整えた。
いまの彼女に触れないのは、彼の中の約束だ。
小さな声で言う。
「……守ったぞ」
返事はない。
それでも、その胸の奥が少しだけ温かくなる。
相手は成果を取りに来た。
しかし思うようにいかなかった。
そして、こちらは“線”を掴んだ。
見えない支援――《アーク・プロトコル》の影が確かに動いた。
アシュレイはその事実をまだリュカに言わない。言えば彼女は少なからず気負う。
それはまだ先でいい。
宿の夜は長い。
だが今夜は、迫り来る刃を一つ折れた夜だった。




