1-59 安心の形
部屋へ戻る廊下は昼の光が差しているのに妙に冷えていた。
宿の中というのは外より安全に見える。だが今日に限っては逆だ。外は人目があるが、宿は閉じた箱になる。
アシュレイは扉を開ける前に、先ず取っ手の位置を見た。
誰かが触った痕――指の油、拭った跡、爪の細い線。
何もない。少なくとも、ここはまだ触れていない。
「入るぞ」
リュカが頷き、アシュレイが先に足を踏み入れるのを待った。
部屋は整っていた。
旅装の袋、簡素な机、窓。
窓枠に蒸気の街の空気が薄く滲んでいる。
問題は見えるものではなく、“見えないもの”だ。
アシュレイは先ず窓の鍵を確かめた。
次に、床板の軋みを一歩ずつ拾った。
人が歩いた痕は床音の偏りとして残ることがある。宿の床は古く、音が素直だ。
「リュカ。そこから動かないでくれ」
「うん」
リュカは素直に椅子へ座った。
その素直さが僅かにアシュレイを揺らす。二十年前、彼女はここまで素直ではなかった。
今の彼女は違う。だからこそ、守り方も以前のままではいけない。
アシュレイは鞄を開け、道具を机に並べた。
針金。小さな鈴。粉。薄い板。糸。
派手な魔法陣は用いない。目立つものは相手の警戒を煽る。必要なのは、相手が気づかない形での検知だ。
リュカが机の上を見て首を傾げる。
「アシュレイ、なにするの」
「先ず、来たかどうかを判別する。
次に、侵入経路を調べる。
最後に、仮に入ってきても“すぐには触れない”ように細工する」
「触れないように……止める?」
「そう願いたいところだが違う。侵入を遅らせる。
遅れれば護衛が間に合う可能性が高くなる。そうすれば俺やノアが動ける」
リュカはその言葉を反芻し、ゆっくり頷いた。
「遅らせて……時間つくる」
「そうだ」
アシュレイは床へしゃがみ込み、扉の下の隙間へ細い糸を通した。
糸の先に針金の小さな輪がある。輪の内側には鈴。
扉を開ければ糸が引かれて鈴が鳴る――ただし、鈴はそのまま鳴らさない。
アシュレイは鈴に薄い布を巻いた。音を小さくするためだ。
音が大きいと相手は引く。
音が小さければ相手は気づかず入る可能性がある。
こちらは入った瞬間を知りたい。ただ追い払いたいわけじゃない。
次に窓。
窓枠の内側へ粉をほんの一筋だけ撒く。白い粉ではない。灰色の粉でもない。
透明に近い、光で角度が変わる粉。踏むと摩擦でわずかに輝く。
「それ、なに」
「足跡を調べる粉だ。
窓から入ったら床に筋が残る」
「すごい……!」
「昔からあるものだ」
そう言いながら、アシュレイは内心で自分に言い聞かせていた。
――すごくない。だから頼りすぎるな。
道具は時に裏切る。最後は自身の目と感覚で判断する。
リュカは椅子の上で背筋を伸ばし、まるで見習いのように見ている。
その視線がアシュレイに小さな責任を付け足す。
「リュカ。ひとつだけ頼む」
「なに」
「今夜、眠る前に怖かったことを教えてくれ。
言えば、こちらは準備できる。
言わずにいると問題が後で大きくなる」
リュカは一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。
それから少しだけ声を絞り出す。
「……わたし、眠ったら、動けないよ」
「そうだな」
「もし、来たら……わたし、ただの荷物みたいになる」
言い方が生々しくて胸が詰まる。
だが、それを言えたことは大きい。
アシュレイは立ち上がり、リュカの前に膝をついて視線を合わせた。
慰めの言葉ではなく手順を示す。
「だから、眠る前に“手順”を決める。
お前が眠る位置。護衛の位置。俺の位置。
それと――お前の寝床に触れるのは俺だけにする」
リュカが小さく頷く。
「……うん」
「それから、もしお前が眠っている間に何かが起きたら、俺は迷わない。
だから今言っておく。
……お前は荷物なんかじゃない。俺の同行者だ」
リュカは目を丸くして、次に少しだけ目尻を下げた。泣きそうな顔だ。
でも泣かない。胸の奥で堪えている。
「……うん」
その短いやりとりの間に、扉が三回控えめに叩かれた。
「クローヴ殿。ノア・シルエルです」
ノアの声。
アシュレイは一瞬だけ呼吸を整え、扉の検知糸を踏まないよう気をつけながら開けた。
ノアが立っていた。短くまとめた黒髪、乱れなし。
だが、目の奥がいつもより硬い。
「失礼します」
「入れ」
ノアは部屋に入り、リュカへ一礼した。
「リュカ殿。先ほどはよく観察されました。おかげで、記録が残せました」
「うん。それが役目」
リュカは少し照れたように視線を逸らし、それでも胸を張った。
アシュレイはその姿を横目で見ながらノアに問いを投げた。
「ユナの件、書類は動かせるか」
「はい。宿の下働きの身分照会を回しました。
それと、倉庫区画管理局へ“宿周辺の不正接触”として正式な連絡を入れます。
――公の手が宿に届くようにします」
「助かる」
ノアは頷き、さらに声を落とした。
「もう一つ。
搬入口で逃走した男が撒いた粉の分析結果の速報です」
「早いな」
「刻印技師組合の知人に回しました。
蒸気設備の結露にも反応する拡散粉で、主用途は“非常時の視界遮断”。
正規の流通はありますが、購入記録が残ります」
つまり、買った者が追える。
ノアは封筒を一つ差し出した。
「こちらに照会番号と、管理局側の担当者名が書いてあります。
クローヴ殿が持っていた方が動きやすいでしょう」
アシュレイは受け取り、封筒の重みを確かめた。
紙の重み。今日の戦果の重みだ。
「今夜はどう見る?」
ノアは即答しない。
その代わり、リュカを一度見てから、アシュレイへ戻す。
「……恐らく今夜は来ます。
今日、“委託監査補助”の偽装を剥がしました。
相手は面子を失っています。挽回するには成果が要る」
「成果……」
「あなた方の“道具”か、“人”です」
言い方がはっきりしている。ノアは言葉を濁さない。
そしてそれは優しさでもある。濁すと備えが遅れる。
ノアは続けた。
「護衛を二名、廊下側に増やします。
ただし、過剰に増やすと相手が“火”を使います。
なので、見える数は増やさず、位置を変えます。
――廊下の角、階段、裏口。そこに置く」
アシュレイは頷いた。
「部屋の中で遅延罠を張った」
ノアが机の道具を見て、少しだけ口元を緩めた。
「……理術科首席らしい準備です」
「褒めても何も出ないぞ」
「出ますよ。溜息が」
さらっと言う。
アシュレイは咳払いで流し、話を切り替える。
「リュカが眠る間が問題だ」
ノアが静かに頷く。
「承知しています。
ですから、眠る前に“移動”だけは済ませましょう。
リュカ殿の寝床を壁際へ。窓から遠い位置へ。
それと――失礼ですが、私が一つ、刻印を入れても良いですか」
「系統は」
「寝床の床板に触れたら残る刻印です。
接触した回数が分かる。
相手が気づきにくい薄さで入れます」
アシュレイは即答した。
「やってくれ」
ノアは小さな符紙を取り出し、床板の端へ指先で貼った。
魔力が走る気配はほとんどない。見せない刻印だ。
リュカが見つめて、ぽつりと言った。
「ノア、かっこいい」
「……光栄です」
ノアは一瞬だけ視線を逸らした。照れではない。
何かを隠すような逸らし方――アシュレイはそれを見逃さない。
「ノア。何かまだあるな」
ノアは少し迷い、それから本音で言った。
「……クローヴ殿。
今夜、狙われる可能性があるのは、あなたです」
アシュレイは眉を寄せる。
「俺が?」
「はい。あなたが動くと、リュカ殿が動く。
あなたが倒れれば、リュカ殿を連れ出しやすくなる。
相手はそれを狙います。
ですから、お願いです。――絶対に一人で廊下へ出ないでください」
ノアが丁重に懇願する。
その重さが胸に刺さる。
「分かった。努力する」
ノアが深く息を吐いた。ほんの少しだけ肩が落ちる。
「ありがとうございます。
……それと、もう一点。
宿の外周に、リュドラ殿の“影”も動いています。基本的にあなた方には接触しません。ですが――有事の際には必ず介入します」
《アーク・プロトコル》。
見えない支援がここでも働いている。
アシュレイは短く頷いた。
「借りが増えるな」
「借りではありません。……契約です」
「契約?」
「あなたが生きている限り、こちらも動ける。
あなたが倒れたら、私たちのこれまでが無駄になる」
その言い方はノアらしい。
優しさを“合理”に包む。
リュカが椅子から降り、アシュレイの袖を掴んだ。
「アシュレイ、約束。ひとりで出ないで」
「ああ、約束だ」
ノアは一礼し扉へ向かった。出る直前、振り返って付け足す。
「……クローヴ殿。
もし今夜、危ないと感じたら、すぐに助けを呼んでください。
それだけで、私の判断が早くなります」
アシュレイは一瞬言葉に詰まり、短く答えた。
「……善処する」
「必ず呼んでください。クローヴ殿」
ノアは珍しく語気を強めた。
そして扉を閉める。
静かになった部屋でリュカが小さく笑った。
「ノア、怒った」
「怒ってはいない。……心配なのだろう」
「心配、いいこと?」
「悪くはない。
ただし、しすぎるのは悪いことだ」
リュカは首を傾げたが、すぐに頷いた。
「じゃあ、わたしも言うね。怖いって」
「言ってくれ」
窓の外で蒸気が漂い、街が白く息をする。
夜は確実に近づいている。
アシュレイは机の道具を一つずつ仕舞い直しながら、心の中で手順を繰り返した。
来れば鈴が鳴る。
窓を通れば粉で跡が分かる。
床板に触れればノアの刻印が反応する。
そして何より――リュカが眠る間、それらが安心の形として機能する。
投稿予定時刻を大幅に過ぎてしまい大変申し訳ありません。




