1-58 鍵穴の魔導線
厩舎の扉の前でアシュレイは息を吸って吐いた。
干し草の匂いの中に微かに金属油の匂いが混じる。朝より濃い。
誰かが鍵穴に触れ、油を残した。
鍵穴の縁にある擦れは小さい。だが、作為の匂いがする。
鍵の出し入れで自然にできる跡ではない。工具を当てたような擦れ方だ。
――それも、急いでこじ開けた様子はない。慎重に音を立てずに“試した”と見える。
アシュレイは直接触れない。
指で触れれば自分の油が混ざる。
代わりに鞄から薄い布を出し、布越しに鍵穴の周りを軽く拭う。
布に残る匂いを嗅ぐ。油の種類を嗅ぎ分ける。
「……薄い整備油。倉庫の油に似てる」
リュカがすぐに言葉を返す。
「さっきの粉も似てる?」
「粉は別だ。あれは目潰しに過ぎない。
油が残るのは手癖だろう。
……ただ、同じ系統の人間が使う道具だ」
宿の主人が青ざめた。
「ま、まさか……鍵は護衛の方が持っておられますし……!」
「鍵を持っていても、扉に触られることはある。
鍵が開かれたかどうかじゃない。
触られた事実が問題だ」
主人は口を閉じ、何も言えなくなった。
ここで言い訳をさせると余計な口が増える。アシュレイは主人へ指示した。
「厩舎係を呼べ。昨夜のミル。
それと、門番の交代は済んだか」
「は、はい! ロウは……門から外しました。今は台所の雑用に……」
「よし。次に厩舎の出入り帳面。いま開いてくれ」
主人が慌てて走り去る。
リュカは扉の前でじっと鍵穴を見ていた。
小さな顔がいつもより真剣で、少しだけ硬い。
「アシュレイ……」
「どうした」
「キャリちゃん、見られたかな?」
「可能性はある。
見られただけならまだいい。
――触られたのは扉だ。中はまだ分からない」
リュカが唇を噛む。
「……やだ」
「俺が先に入る。
お前は護衛と一緒にここに残れ」
「うん……外にいる」
護衛が二人、扉の左右へ位置を取る。
アシュレイは鞄から細い針金と小さな板状の魔道具を取り出した。
魔法実技が壊滅的に不得手でも、道具で理屈は通せる。
板状の魔道具は祖父の工房で見つけた旧式の検知板だ。
魔力の強弱を見るのではない。残留の流れを見るためのものだ。
本来は素材同士の接触履歴を観測する用途に使われるが、ここでは触れた者の魔力が微量に擦れた場所に残るその微差を板が拾う。
アシュレイは検知板を鍵穴の周りに近づけた。
板の表面に淡い筋が浮かぶ。
薄い。だが、確かに残っている。
「……残留がある」
リュカが息を吸う。
「だれの?」
「まだ断定しない。
だが……匂いと筋の出方が、倉庫区画で見た線に似ている」
リュカの目が揺れた。
深律教団――という言葉が喉元まで上がってきて、飲み込んだ。
アシュレイはあえてそこで別の話題へ移る。
「鍵穴の中に異物があるか確認する」
針金を少し曲げ、鍵穴へ入れる。
引っかかりを探る。
――かかった。
朝と同じ。
だが、今回は薄い金属箔ではない。もっと細い。糸のようなもの。
アシュレイは針金で慎重に引き出した。
出てきたのは、髪の毛ほどの細さの金属線――魔導線。
針金の先端で光を反射する。
「……盗聴ではないな。
鍵穴の回転角を読むための線だ」
リュカが眉を寄せる。
「回転角?」
「鍵を回した角度が分かる。
――つまり、誰かが“鍵を開けようとした”か、あるいはすでに“開けた”後だ」
護衛の表情が硬くなる。
だがアシュレイは慌てない。慌てるほど相手が喜ぶ状況になる。
彼は検知板を扉の縁へ滑らせた。
扉と枠の隙間。
そこに残る筋を拾う。
筋は扉の外側が濃く、内側に向かって薄くなる。
「……開けてはいない。
回そうとしたが、止めた。
もしくは、途中まで回ったが、扉を押さえるだけの手がなかった」
つまり単独。
単独でこじ開ける気ではない。
試したのだ。中に誰がいるか、護衛がどれほど厳しいかを測る試し行為。
リュカが小さく言った。
「……試されたの?」
「ああ。
だが、試しは試しだ。
相手はまだ侵入していない」
主人が息を切らして戻ってきた。
厩舎係のミルを伴い、出入り帳面を抱えている。
「ミル、鍵穴に触った者を見たか」
ミルは即答する。
「見てません。私はずっと中庭の片付けでした。
でも……昼過ぎに、荷を運ぶ手伝いを頼まれて、門の外へ出ました」
「誰に頼まれた」
「宿の下働きです。名は……ええと、ユナ」
主人が顔色を変える。
「ユナは……今、見当たりません」
その言葉で一気に場が冷えた。
“逃げました”のが近いかもしれない。
アシュレイは帳面を受け取り、該当時間の記録を探した。
厩舎の出入り。鍵の受け渡し。荷運びの手伝い。
そこにユナの名は――ない。
「記録がない」
主人が言い訳をしようと口を開けるが、アシュレイは先に言った。
「書かない方が楽だ。
……だが、書かないとこうなる。
人の所在が掴みにくくなる」
主人が震える声で言う。
「ど、どうすれば……」
アシュレイは具体的に指示した。
「ユナの部屋と持ち物を押さえろ。
今すぐだ。
それと、門の外へ出たミルの時間帯、門番の記録を照合する。ユナが“外”で誰と接触したかが鍵だ」
護衛が頷き主人へ続く。
リュカが小さく呟く。
「……人、消えるの早い」
「段取りがあるからだ。
これだけの準備があるなら、必ず次の段取りもあるはずだ。
俺たちはその“次”を読む」
アシュレイは鍵穴から抜き取った魔導線を封筒に入れた。
さっきノアに渡した紙片のように、これは“公の封緘”に乗せるべき証拠だ。
証拠を守るためには公の力が要る。
そのためにはノアの名が要る。
アシュレイは護衛の一人へ言った。
「ノアへ伝えろ。
宿の厩舎の鍵穴に“角度計測用の魔導線”が仕込まれた。
下働きユナが消えた。
――倉庫区画と宿が繋がった可能性が高い、と」
護衛が走り出す。
リュカが袖を掴む。
「……今夜、来る?」
アシュレイは言葉を濁さずに答えた。
「可能性が高い。
相手は今日、倉庫で失敗した。
そういう輩は、“取り返す”ために動く。
挽回にいちばん確実なのは――」
リュカの目が大きくなる。
「……わたし?」
「お前かキャリッジ、もしくは俺の道具。
――だから今夜は備える。
そのためにまず部屋へ戻る。
お前が眠る前に、やることがある」
リュカは静かに頷いた。
怖さを抱えたまま、頷く。
「……やるよ」
厩舎の鍵穴の痕跡はただの傷ではなかった。
相手が宿に触れた証拠であり、相手が次に“どこを狙うか”を教える前触れでもあった。
夜は近い。
虚線の街道は、いよいよ宿の中へ伸び始めている。




