1-57 伝令
倉庫区画を離れると空気が少しだけ軽くなった。
胸の奥に溜まっていた圧が抜ける。あの搬入口は、都市の暗部だったのだと改めて思い知らされる。
アシュレイは歩幅を一定に保った。速すぎず、遅すぎず。
焦っているように見せない。だが油断しているようにも見せない。
追う目があるなら、今も見ている。だからこそ、歩き方さえ隙を作らない。
リュカは半歩後ろにいる。
ときどきアシュレイの袖を掴みたそうにするが、我慢している。
我慢が続くほど緊張が増す。それを分かっているから、アシュレイは言葉を一つだけ足した。
「掴みたいなら掴め。今はいい」
リュカがすぐに袖を掴み、息を吐いた。
「……ありがとう」
握る力が強い。
だが震えてはいない。
表通りへ戻るにつれ、店の匂いと人の声が増えた。
焼いたパン、甘い茶、鍛冶の煙。
旅人の荷、子どもの笑い声。
整った街の顔が戻ってくる。
だからこそ危険は増える。
人が多い場所は隠れる場所が多い。紛れる場所が多い。
アシュレイはさりげなくショーウィンドウのガラスへ視線を投げた。
反射で背後を確認するためだ。
――二人、一定距離で付いている。
護衛ではない。歩き方が違う。荷役でもない。
追手だ。
アシュレイは息を乱さずに進む。
気づいていないふりをする。
その態度を見て相手は動く。
だが、今は宿へ戻るのが優先だ。
リュカが小声で言う。
「……いる」
「いるな」
「さっきのやつじゃないね」
「歩き方が違う。灰外套は止まる時に重心を置く。
今のは……軽いまま、次の動きを探っている。伝令の足だ」
リュカは頷き、背筋を伸ばした。
「ちゃんと見てるからね」
「頼むぞ」
途中、露店が並ぶ広場を横切る。
香辛料の瓶が陽を反射し、薄い布が風に揺れている。
アシュレイはその中でわざと足を止めた。
止める理由がある場所で止める――自然を装う。
露店の一つで小さな金具を手に取る。
昨日買ったものと同じ系統。針金留めに使える。
「いくらだ」
「二枚だよ。旦那、目利きだねえ」
売り子が笑う。
背後の足音が一瞬だけ止まり、距離が詰まる。
詰まった瞬間に垣間見る。
追手が焦れている。こちらが宿へ戻るのを止めたいのか、宿へ着く前に何かを仕込みたいのか。
アシュレイは銅貨を置き、金具を袋へ入れた。
そして、歩き出す前に言った。
「リュカ、右。手すりのある路地」
リュカが目を丸くする。
「え、入るの? 路地だめって」
「入る路地は選ぶ。
あそこは人がいる。出口が二つ、光も差している。路地全部がだめなわけじゃない。だめなのは、逃げ場がない路地だ」
リュカはすぐに理解し、頷いた。
「……あそこはだめじゃない」
二人は広場の端の路地へ入った。
そこは裏路地というより、店の裏手を通る通路だ。木の手すりがあり、窓が多い。人の気配が絶えない。
逃げ道も二つ。戻ることもでき、そのまま抜けることもできる。
追手の足音が路地の入口で一瞬だけ迷った。
入るか、入らないか。
入れば目立つ。入らなければ距離が空く。
その迷いが追手の質を示していた。少なくとも熟練者ではない。
アシュレイは路地の中ほどでわざと立ち止まり、手すりに手を置いた。
息を整えるふりをする。
そして、リュカにだけ聞こえる声で言う。
「いま、俺が振り返ったら相手は引く。
だから、代わりにお前が見てくれ」
リュカは驚いた顔をしたが、すぐに背筋を伸ばした。
自分に役割が渡されたのが分かったのだ。
「……見る。どこ」
「路地の入口。影の形と足の向き」
リュカは手すり越しにさりげなく視線を投げた。
そして、すぐに答えた。
「……二人。帽子。ひとり、右足が内側」
「右足が内側?」
「うん。たぶん癖。さっき広場で止まった時も、右足だけ先に止まった」
鋭い。
癖は同じ人間を追う時の最大の印になる。
アシュレイは頷いた。
「覚えてくれ。今夜、また見る可能性がある」
「今夜……くる?」
「くるかもしれない。
すでに相手の線は紙に落とした。
奴らとしても記録は消したいはずだ。
そのために、必ず動く」
リュカが唇を噛む。
「……こわい」
「怖くていい。その分だけ備えられる」
路地を抜けると、宿の通りが見えた。
中庭、厩舎、二重鍵。
そこへ戻れるというだけで身体の緊張が少しだけほどける。
だがアシュレイは自分を律した。
宿は安全地帯ではない。
そう見える場所ほど、相手は手を伸ばしたがる。
宿の門が見えた時、リュカが小声で言った。
「……二人、いなくなった」
「引いたな。
次は別の形で来る」
「別の形?」
「紙で来るか、金で来るか、刃で来るか。
いずれにしても、今夜までに一度は試すだろう」
宿の門をくぐる。
主人が顔を出し、慌てて頭を下げた。
「お帰りなさいませ……昨夜は大変――」
「話は後だ。先ず厩舎の確認だ」
主人が青ざめる。
「何か……?」
「何かが起きる前に確認する。
それが俺たちのやり方だ」
リュカが小さく言った。
「先に見る」
主人が頷き、二人を中庭へ案内する。
干し草の匂い。木材の匂い。
そして、二重鍵の金属音。
鍵はかかっている。
しかし――アシュレイの目が鍵穴の縁の痕跡に止まった。
朝のものとは異なる、新しい擦れがある。
リュカが息を吸う。
「……また、触った」
アシュレイは低く言った。
「触ったな。
すぐに調べる」
宿へ戻ることは最早休息ではなくなった。
ーー次の襲撃を迎える場所。




