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1-56 逃走記録

 ノアの提出した写しが管理局の男の手に渡った。

 紙が一枚、二枚と重なるたびに場の空気が変わる。正当性の重みが増していく。


 管理局の男は先ず印章の照合結果に目を落とし、次に委託契約の写しを確認した。

 読む速度は速い。読み慣れている目だ。


「……登録にない印章。契約書にも該当する補助員名がない。

 あなたは“委託監査補助”ではない」


 影の男は笑みを貼り付けたまま首を傾げた。


「手続きの遅れでしょう。現場は――」


「現場は理由にならない。書記、ここに記録を」


 管理局の男は淡々と命じた。

 書記が羽根ペンを走らせる。紙の上に影の男の存在が固定される。

 その瞬間、相手は自由を失う。逃げたくても逃げられない。


 影の男の笑みがわずかに硬くなる。

 それでもまだ破綻は見せない。それがこの手の人間の仕事だ。


 ノアが一歩前へ出た。

 表情は冷静。口調は穏やかなまま刃だけを通す。


「失礼します。

 あなたの印章は刻印技師組合の登録に存在しません。

 さらに、組合が把握している“共鳴式追跡箔”の製造工程と一致する刻印痕がこちらの案件で見つかっています」


 管理局の男が眉を上げる。


「追跡箔?」


 ノアは頷き、しかし詳細はすぐには出さない。

 いまこの場で出しすぎると相手が対策を始める。必要なのは“記録の入口”だ。


「はい。

 事故の予防と設備の安全確認のための情報として、後ほど正式に提出します」


 影の男が小さく笑った。


「宮廷魔法師殿。あなたがここまで関与する案件ですか?

 これは倉庫区画の小さな――」


「小さな事故を見逃しては、取り返しがつかない事態になり得ます」


 ノアは言い切った。

 丁寧な口調のまま、否定の余地を潰した。


 管理局の男が影の男へ向けて言う。


「身分証を。今すぐ」


 影の男はためらうふりをして、胸元へ手を伸ばした。

 だがその動きがほんの僅かに遅い。

 本物ならここで遅れない。出したくないから遅れるのだ。


 リュカがアシュレイの袖を掴んで囁いた。


「……時間かせいでる」


「そうだ。逃げ道を作るつもりだろう」


「逃げる?」


「ああ。だが、“逃げた記録”が残る」


 アシュレイは落ち着いた声で答え、視線を路地の方へ流した。

 逃げ道は二つ。さっき灰外套が消えた蒸気管の陰。

 もう一つは搬入口の奥、倉庫の影へ抜ける通路。


 護衛がすでにさりげなくその両方へ位置をずらしている。

 露骨に塞がない。塞ぐと相手が暴れる。

 逃げようとした瞬間に届く距離で圧をかけている。


 管理局の男が影の男の札へ手を伸ばした。

 掴む――その時点で影の男は決断する。出すか、逃げるか。


 影の男は出さなかった。


 代わりに笑みを残したまま、ほんの半歩退いた。

 退いた足が結露で滑ったように見える。

 偶然を装った動き。だが、滑り方がまるで準備されたかのような動きだ。


「おっと……失礼」


 その言葉と同時に、影の男の袖口から何かが床へ落ちた。

 粉だ。灰色の粉。蒸気の結露に触れると、薄い霧のように広がる。


「――っ、目が!」


「離れろ!」


 現場がざわつく。

 荷役の男たちが咳き込み、書記が反射的に後退する。

 管理局の男も一瞬だけ目を細めた。その一瞬が致命的な隙になる。


 影の男はその隙に身を翻し、蒸気管の陰の路地へ滑り込んだ。


「止めろ!」


 護衛が動く。

 だが、影の男は速い。速いが走っているわけではない。

 人の流れに紛れる逃げ方だ。角を曲がり、荷役の群れの中に隠れる。


 ノアが即座に叫びそうになるが、止めた。

 代わりに冷静な声で指示を飛ばす。


「護衛! 追跡は二人まで!

 残りはこの場を確保、証拠保全を優先!」


 管理局の男が舌打ちした。


「……逃がしたか」


「いえ、まだです」


 ノアがきっぱり言う。


「逃走の事実は記録されました。

 さらに、粉を落とした。

 ――それ自体が犯罪です。あなた方の権限で追えます」


 管理局の男は書記へ怒鳴る。


「記録しろ! 今の行動、全部!」


 羽根ペンが紙を引っ掻く音がこだまする。

 影の男の逃走が紙の上で固まっていく。


 アシュレイは咳き込む荷役の男たちの様子を見ながら、床の粉の落ちた位置を確認した。

 灰色の粉は単なる目くらましではない。

 蒸気設備の結露と反応して広がるなら、蒸気圧の高い場所を選んで撒いたことになる。

 つまり、相手は始めからここが蒸気圧過多だと知っていた。――だから事故を作れた。


 アシュレイは管理局の男へ言った。


「粉を採取できるか。

 設備用の粉なら配管係の使用記録がある。

 使用記録がないなら、外部から持ち込んだ証拠になる」


 管理局の男が頷く。


「採取する。書記、封緘を!」


 書記が震える手で封緘袋を取り出した。

 それを見てリュカが小さく言った。


「……勝った」


 アシュレイは頷き、しかし付け足す。


「まだ序の口だ。勝ちはまだ遠い。

 だが入口を作れた。これは大きい」


 ノアがアシュレイへ近づき、声を落とした。


「クローヴ殿。良い判断でした。

 そして――あなたが拾った“線”の紙片、今ここで私に預けてください。

 公の封緘で守ります」


 アシュレイは一瞬だけ迷った。

 預ければ安全だ。だが、自分の手を離れる。

 しかし今は安全が最優先だ。


 アシュレイはポケットから紙片を出しノアへ渡した。

 ノアはすぐに封筒へ入れ、宮廷の封緘を押した。

 迷いがない。まるでこの瞬間のために練習してきたようだ。


「……ありがとうございます」


 ノアが穏やかに言う。

 感情が混ざっている。礼儀の中に安堵がある。


 リュカがぼそっと言った。


「ノア、すごいね」


「仕事ですから」


 ノアはいつもの返しをして、その後、ほんの少しだけ目を柔らかくした。


「……そして、仕事以上でもあります」


 アシュレイは咳払いで誤魔化し、話を戻す。


「灰外套の男は?」


 護衛の一人が戻ってきて報告する。


「見失いました。蒸気管の裏で人波に紛れたようです。

 ですが、すでに逃走方向と目撃情報の聞き込みを始めています」


 ノアが頷く。


「十分です。

 逃げた方向は記録。目撃情報はすぐ紙に落ちる。

 ――クローヴ殿、ここから先は私が管理局と詰めます」


 アシュレイは言う。


「できることは?」


「宿へ戻ってください。

 今日、この場であなた方が見せたのは“十分な存在感”です。

 これ以上残れば、焦った相手が本気で命を狙いに来るでしょう」


 リュカが眉を寄せる。


「殺しに……」


 ノアは言葉を濁さない。


「はい。

 だから今は引きましょう。引くのも戦いの内です」


 アシュレイは頷いた。

 引く。

 逃げではなく、次の線を張るための戦略だ。


「分かった。宿へ戻る」


 リュカがアシュレイの袖を掴む。


「いこう?」


「……ああ」


 蒸気の街の搬入口でひとつの虚線が記録に残った。

 赤い線の正体はまだ分からない。

 だが、揉み消しを企んだ者の顔は露呈し、逃走の事実も固定された。


 次に来るのは“反撃”だ。

 だからこそ、今は一度呼吸を整える。

 そしてその時が来るまで、次の手を理屈で組み上げる。


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