1-55 管理局
搬入口の空気は明らかに先より重くなった。
危うく死者が出るところだった――その事実が現場の人間を緊張させる。荷役たちは黙々と箱を積み直し、縄を締め直し、滑車の鎖を点検し始めた。怒鳴り声は減ったが、目の光は強いままだ。
アシュレイは工具台のそばに立ち、逃げない意思を示した。
そのまま視線を動かす。誰が来るのか。どこから来るのか。何を見て、何を言うのか。
リュカは半歩後ろにいる。
背筋を伸ばしているが少しだけ固い。
「アシュレイ……」
リュカが小声で呼んだ。
「どうした」
「さっき、紙の線、赤かったよね?」
「ああ。深い赤に近い反応だ」
「赤ローブの……?」
リュカの言葉が途中で震えた。二十年前の夜の記憶ではなく、恐らく今の恐怖心から出た震えだ。
アシュレイはすぐに肯定もしないし、否定もしない。断定は思考を鈍らせる。
「まだ決めるな。
ただ、普通の設備刻印の反応じゃないのは確かだ。――だから、詳細に記録する」
記録。
その一語でリュカの呼吸が少し落ち着く。怖さを行動へ移せるからだ。
少し離れたところで腕章の男が現場の取りまとめをしている。
自分の責任が問われると悟った顔をしている。怒鳴っていた頃より目が冷たい。
「おい! 管理局を呼べ! 今すぐだ!」
呼ばれた若い荷役が走り去る。
走る足音が遠ざかるにつれ、現場の空気が「待ち」に移った。
待ち時間ほど厄介なものはない。
焦りを生み、余計な言葉を生む。余計な言葉は相手に糸口を渡す。
アシュレイは余計なことを言わない代わりに、ポケットの中で紙片の折り目を確かめた。
反射剤の線が消えないよう布に挟んで保っている。
いまは保存が最優先だ。
それから数分後。
遠くから足音が複数、規則的に近づいてきた。
荷役の動きではない。
役人の歩き方だ。急いでいるが乱れない。
やって来たのは、管理局の印章が付いた腕章をつけた男が二人。
その後ろに書記らしい若い女が一人。板に紙を留め、羽根ペンを持っている。
そして――その少し後ろに、荷役の群れとは違う静かな影が一つ混じっていた。
灰外套ではない。別人だ。
だが顔の作り方がどこか似ている。周囲に溶け、目だけで状況を把握する種類の人間。
リュカが唇をほとんど動かさずに言った。
「……変なの、いる」
「どれだ」
「最後。影みたいな人。歩くの静かすぎ」
良い判断だ。
管理局の男の一人が現場に入ってくるなり、巻き上げ機と荷台を見上げ、次に床の結露を一瞥した。
視線の動きが速い。慣れている。事故処理のプロだ。
「状況を説明してください」
腕章の男(現場責任者)が前へ出る。
「荷車の荷が落ちかけた。こいつが勝手に触って止めた」
現場責任者はアシュレイを指差した。
責任の所在を一瞬でも外へ押し出したい様子だ。
管理局の男がアシュレイを見る。
「あなたは?」
「旅の魔道具店主だ。落ちる寸前に荷締めを締め直した。怪我人が出るのを見過ごせなかった」
言葉は短く、事実だけを述べる。
正義感は混ぜない。混ぜると揉み消しの口実になる。
管理局の男は腕章の男へ向き直る。
「監査記録は?」
「……今は、ない。急いでいた」
管理局の男の眉がぴくりと動いた。
“ない”は、現場で一番嫌われる答えだ。
もう一人の管理局の男が巻き上げ機へ近づき、蒸気弁の位置を確認し、口を開いた。
「蒸気圧が高い。誰が調整した?」
腕章の男が一瞬だけ言葉に詰まる。
「……いつもの設定だ」
「いつもの、でこの結露は出ません」
管理局の男が即座に切り捨てた。
現場がざわつく。
これで揉み消しはさらに難しくなった。
その時、後ろの影が控えめに口を挟んだ。
「恐らく設備の経年が原因です。
湿度が高い日には結露が――」
言い方が柔らかい。責めるつもりがない声。
だが、その柔らかさには“早く終わらせたい”意図が見える。
管理局の男が振り返る。
「あなたは?」
影の男は胸元の札を少し持ち上げた。
見えた印章は歯車と鎖。――輪が多い。ズレた印だ。
「委託の監査補助です。現場の混乱を避けるため、手伝いに伺いました」
委託。監査補助。
“監査代行”ではない。言葉を変えてきた。
存在しない役職名を捨て、合法の皮へ寄せたのだ。
アシュレイの中で歯車が噛み合った。
ノアの一次回答――「監査代行は存在しない。ただし委託はある」。
目の前の男はその“委託”を盾にして入り込んできた。
リュカがアシュレイの袖をぎゅっと掴む。
「……あれ、うそっぽい」
「全くのうそ、というより混ぜている」
「混ぜてる?」
「ありそうな話に少しの嘘を混ぜると、真実に見えることがある。そういうやり方だ」
アシュレイは深呼吸を一つだけし、管理局の男へ視線を向けた。
いま、攻めるべき相手は影の男ではない。管理局の“正規の目”だ。
その目に刺さる形で違和感を残す。
「管理局の方。ひとつ確認したい」
「どうぞ」
「この蒸気弁の設定は今日“誰が”触りましたか。
設備は経年でも壊れるが、設定の変化は人の手によるものだ」
影の男がわずかに笑う。
“そんなものは分かるはずがない”とでも言いたげに。
だが管理局の男は笑わなかった。
紙を持つ書記へ指示する。
「弁の操作記録は?」
書記が板を見て首を振る。
「この現場の操作記録は……提出されていません」
管理局の男が腕章の男を睨む。
「提出しなさい。今すぐ」
腕章の男が顔色を変える。
提出できない。すれば不正が露呈する。
影の男がすぐに間に入る。
「現場は混乱しています。記録は後ほどまとめて――」
「いえ、今必要なことです」
管理局の男が冷たく言い切った。
この男は揉み消しを嫌うタイプだ。アシュレイは当たりを引いた。
影の男の目が一瞬だけ細くなり、すぐに柔らかい顔へ戻る。
「……失礼しました。では、現場の聞き取りを」
影の男が荷役の一人へ近づこうとした瞬間、リュカが小さく息を吸った。
そして言った。
「……その人。さっきいなかったのに、いまは、全部知ってるような顔してる」
声は大きくない。
だが、管理局の男の耳に届く距離だ。
影の男が一瞬、動きを止めた。
管理局の男がリュカを見る。次にアシュレイを見る。
「……その子は?」
「旅の同行者です。観察が得意でして」
「得意、ですか」
管理局の男は影の男へ視線を戻した。
「あなた、いつからここに?」
「今来ました。連絡を受けて――」
「誰から」
影の男が僅かに言葉に詰まる。
それを答えると糸が出る。しかし答えないと疑われる。
「倉庫区画の連絡網です」
「名を」
影の男は笑みを保ったまま、言葉を整えた。
「……現場責任者から、と聞いております」
腕章の男が慌てて手を振る。
「お、俺は呼んでない! 管理局を呼べと言っただけだ!」
現場がざわつく。
影の男の笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。
アシュレイはここで決定打は打たない。
打てば相手はすぐに引く。引いて地下へ潜る。
必要なのは「疑いを公の紙に載せる」こと。
アシュレイは管理局の男へ言った。
「この場で“委託監査補助”が何をしたか、記録してください。
誰が呼んだか、何を見たか、誰に聞いたか。
――それを残すだけで、次の事故を防げます」
管理局の男が頷く。
「書記。記録に。
……そしてあなたも、名前と所属を」
影の男が名乗るしかなくなる。
その瞬間、背後から声がした。
「クローヴ殿」
聞き慣れた、凛とした声。
振り返ると、ノア・シルエルが現場へ入ってきていた。綺麗にまとめた黒髪に乱れはない。
ただし目が鋭い。武器を携えてきたようだ。
「照会の返答が出ました。
――その印章、刻印技師組合の登録にありません」
影の男の顔から血の気が引く。
ほんの一瞬だけ。だが確かに。
ノアは続けて管理局の男へ一礼した。
「アルケディア宮廷魔法師、ノア・シルエルです。技術監修として駐在しております。
当該印章の照合結果と、倉庫区画の委託契約の写しを提出します」
管理局の男の目が変わった。
“公”がここで合流した。
アシュレイは胸の奥で小さく息を吐いた。
ここから先は殴り合いではなく、確認のための刺し合いだ。
制度と記録で、矛盾を洗い出すために。
リュカがアシュレイの袖をつかんで囁いた。
「ノア、来たね」
「ああ」
影の男が笑みを保ったまま一歩退いた。
動きが逃げる前のそれだ。
事故を揉み消そうとする勢力が、ここでようやく炙り出された。




