1-54 縄の結び目
鎖が鳴った。
ただの軋み方ではない。金属が限界に触れる音――これ以上は持たないという悲鳴だ。
二段に積まれた木箱の上段がわずかにずれた。
ずれは小さい。しかし、重心が一度ずれると、人の手では戻せない。戻すとすれば、重心がまだ“揺れの内側”にいる時だけだ。
「――っ!」
荷役の男が声を上げ、反射的に手を伸ばす。
伸ばした瞬間に足元の石畳で滑った。蒸気の結露が原因だ。
男の靴が半歩だけ空を踏む。
アシュレイはその一連の動きを見て、心の中で確信した。
偶然ではない。
結露の溜まり方まで作られている。蒸気弁の圧が上がっているからだ。
リュカが息を詰めた。
小さな指がアシュレイの袖を掴み、震えが伝わってくる。
「落ちる……!」
上段の木箱が傾く。
落ちる方向には人がいる。荷役の男がいる側。
もし落ちれば潰れる。骨が折れるだけでは済まない。
ここで護衛を呼べば止められるかもしれない。
だがここで止めれば相手はさらに地下に潜る。次はもっと静かに、もっと確実に殺しに来る。
――だから掴む。
アシュレイは身体を前に出した。しかし走らない。
目立てば、相手に「介入の意思」を見せる。
彼はあくまで“偶然そこに居合わせた魔道具店主”として、最短の一歩で現場へ入った。
そして、手を伸ばした。
箱ではない。
箱に手を出せば、荷の下敷きになって終わる。
彼が狙ったのは、箱を固定している縄――荷締めの結び目だった。
結び目は最初から緩められていた。
そうでもなければ、二段積みの揺れでここまで傾かない。
アシュレイは指先に力を入れず、結び目の“癖”だけを掴み、短い針金で締め直す。
人力だけではない。
結び目の戻りを利用して、揺れの範囲を一瞬だけ狭める。
その一瞬で十分だった。
傾いた箱が止まる。
完全には戻らない。だが、落ちる角度ではなくなった。
荷役の男がその隙に箱を押さえ、別の男が縄を引き直す。
「……助かった!」
現場に安堵の声が走る。
だが安堵はすぐ怒りに変わる。誰かが叫ぶ。
「誰がこんな結び方した! 危ねえだろ!」
アシュレイは息を乱さないよう、胸の奥だけで呼吸を整えた。
いまの動きで身体に反動は来ていない。
《クロノス》を使ったわけではない。ただ、体幹に負担が乗っただけだ。
――だが、掴むべきものは別にある。
アシュレイは視線を蒸気弁の足元に置いた反射剤の紙片へ向けた。
湿った紙の上に、細い線が浮いている。
赤ではない。
金でもない。
しかし確かに、深い赤に近い光沢が線として滲み出ている。
刻印の反応。
しかも、ただの蒸気設備の刻印ではない。
触った者の癖までが残る線。
灰外套の男が巻き上げ機の影から半歩だけ出た。
誰よりも早く状況を確認し、誰よりも早く“次の手”に移ろうとしている。
アシュレイはその男へ目を向けないまま、紙片を拾い上げた。
拾う動作は自然に。工具を拾うように。
そして紙片を掌の内側で折り畳む。
線が乾く前に保存するためだ。
リュカがアシュレイの背後から震える声で言った。
「……アシュレイ、すごい」
「運が良かっただけだ」
嘘ではない。
理屈が運を掴んだ。
荷役の責任者らしい腕章の男が、怒鳴りながら現場へ降りてきた。
「何が起きた! 誰が縄を――」
その視線が灰外套の男とすれ違う。
灰外套の男は何も言わない。ただ、目だけで合図を返す。
腕章の男が一瞬だけ頷き、すぐに怒鳴り声を上げ直す。
「――おい、誰だ! 勝手に触った奴は!」
アシュレイはそこでわざと名乗った。
ここで名乗るのは危険だ。だが名乗らないと“勝手に触った”として即座に拘束される。拘束されれば紙片が奪われる。
「落ちそうだったから止めた。
俺は旅の魔道具店主だ。怪我人が出るのを放置できなかった」
腕章の男が鼻で笑った。
「魔道具店主? ここは倉庫だ。余計な首を突っ込むな」
「余計じゃない。人が死ねば、ただの事故では済まなくなる」
アシュレイは言葉を選んだ。
“死”を引き合いに出すと場が荒れる。だが、むしろここは荒れていい。荒れるだけ相手が動きにくくなる。
腕章の男の顔色がわずかに変わる。
周囲の荷役たちがざわついた。命が絡むと、彼らは黙っていられない。
「……誰がそんな話を――」
アシュレイは紙片を握った掌を背中側に回したまま、言った。
「縄の結びが甘かった。蒸気圧も上がってる。結露も多い。
“事故が起きやすい条件”が揃ってる。
原因を確認するのが普通だろう」
普通。
その言葉は制度の言葉に近い。
荷役の男たちが頷く。現場の“普通”は命を守るためにある。
灰外套の男が少し距離を取って路地の方へ移動し始めた。
逃げる。今回のは“失敗”だ。
失敗したらすぐに引く。引いて、次の場所でやり直す。
アシュレイは追わない。
追えばただの揉み合いになる。
追うのは――紙の方だ。制度が男を追う。
リュカがアシュレイの袖を引いた。
「……行かないの? 逃げるよ」
「泳がせる。今は“証拠”がある。
逃げた先にまた線が繋がる」
「証拠……この紙?」
「そうだ」
アシュレイは掌の内側で紙片をさらに折り、ポケットへ入れた。
乾かないよう布の内側へ。
それから、腕章の男へ向き直る。
「ここは危ない。蒸気弁の調整を見直せ。
それと、責任者を呼べ。監査でも管理局でもいい。
でないと今日のうちに、誰かが死ぬ」
わざと大きな言葉を置いた。
そうすることで、相手は“否定するために”動かざるを得ない。
もし動くなら、その動きは記録される。記録されるほどノアの書類が効く。
腕章の男が歯噛みし、怒鳴る。
「……分かった! 管理局を呼ぶ!
だが、お前も逃げるなよ!」
「逃げる理由がない」
アシュレイは淡々と返し、リュカへ目を向けた。
「リュカ、今の男――灰外套の。どっちの路地へ行った」
リュカは即答した。
「右。蒸気管の陰。足の運び方でわかる」
「よし。覚えておいてくれ」
アシュレイは呼吸を整えた。
事故は止めた。だが、それは始まりに過ぎない。
次は管理局の人間が来る。
そして、恐らく存在しない監査代行が紛れ込む。
彼らは“事故”を本物の事故にしたい。
だから、必ず今の事を揉み消しに来る。
アシュレイは揉み消しに来た手に紙の刃を刺す。
ノアが紙を振るい、アシュレイが現場の線を握る。
そしてリュカはアシュレイの横で見る。
見て、違和感を言葉にする。
蒸気の街の底で、虚線が一本、確かに露出した。




