1-52 蒸気穴
倉庫区画の外周へ向かうにつれ、通りの音が少しずつ変わっていった。
露店の呼び込み、車輪のきしみ、荷役の掛け声――それらが遠のく代わりに、蒸気管の低い唸りが近づく。
アシュレイは歩幅を落としすぎないよう注意しながら、角を曲がるたびに視線だけで背後を確かめた。
追手が付くのは当然だ。今知りたいのは、付いている者の質だ。
リュカはアシュレイの半歩後ろに位置を取り、左右の壁と路地の端を目で追っている。
宣言したとおり、見ることを続けている。
幼い身体でその緊張を保つのはきついはずだが、目だけはぶれない。
「アシュレイ」
リュカが小声で呼んだ。
「どうした」
「さっきの人の声……くろいのおねーさんっぽくない。ノアっぽくもない」
「……そうだな」
アシュレイも同意した。
名は出さないという作法は似ていたが、言葉の重みが違う。
あれは連絡係だ。伝言だけを落とし、姿を消す役。
つまり、《アーク・プロトコル》がこの街にも手を伸ばしている証拠でもある。
さらに外周へ。
建物の表側は整然としているが、裏は急に粗くなる。石壁の継ぎ目が荒れ、配管が外に露出し、修理痕がつぎはぎになっていた。
表の顔と裏の顔。都市の二枚性がここに露呈している。
やがて道が細くなった。
荷車が通るための道ではない。人が一人、二人すれ違える程度の幅。
頭上には蒸気管が走り、地面の溝には水が溜まりやすい。足を置く場所を選ばないと靴が濡れる。
アシュレイは足元を見ずに歩いた。
足元に意識を持っていかれると、目線が落ちる。落ちた目線では背後の刃に気づけない。
伝言の通り、古い配管の残骸が見え始めた。
壁際に半分埋まった鉄の輪。折れたバルブ。使われなくなった管の切り口がむき出しのまま錆びている。
そして――地面が息をしていた。
壁の手前、石畳の継ぎ目から蒸気が漏れている。
煙突から吐く蒸気ではない。地面の下で生まれた蒸気が逃げ道を探して染み出している。
鼻腔に湿った金属の匂いが刺さる。
リュカが思わず立ち止まりかけ、アシュレイの袖を掴んだ。
「……ここ?」
「だろうな」
アシュレイは立ち止まらない。
立ち止まるには“止まる理由”を作る必要がある。ここで止まれば、相手に「警戒した」と教えることになる。
代わりに、壁際の壊れたバルブの前を通り過ぎるふりをして、さりげなく息を吸った。
蒸気の匂いの中に別の匂いが混じっている。
油。
それも、機械の整備油――新しい油だ。
最近、ここを触れた者がいる。
しかも、蒸気穴を「放置」ではなく「運用」している。
アシュレイは角をひとつ越え、蒸気穴の見える位置から少し外れた壁の陰へ入った。
ここなら通りからは見えにくいが、蒸気穴へ来る者の足は見える。
立ち止まっても、“陰で休んでいる旅人”に見える範囲だ。
「リュカ。ここに立て。壁を背にしろ。視線は穴じゃなく、穴へ続く道」
「うん……」
リュカは言われた通りに壁へ背を付け、道の入口を見る。
震えてはいない。だが指先が少しだけ白い。力が入っている。
アシュレイは腰を落とす。しゃがむのではなく、いつでも動ける半端な高さ。
手は鞄の留め具に触れておく。武器ではなく、道具を取り出すためだ。針金、粉、薄板。
それらの日用道具が彼の武器だ。
待つ時間は短く感じた。
蒸気穴の白が濃くなったり薄くなったりする。周期がある。地下の圧が変わるのだろう。
その周期に合わせて、遠くの蒸気管の唸りもわずかに変わった。
そして足音。
重くない。
しかし、迷いがない。
荷を運ぶ足ではない。状況を知っている者の足取りだ。
リュカがアシュレイにだけ聞こえる息で言った。
「……来た」
アシュレイは頷く。
現れたのは二人だった。
一人は灰色の外套。袖が少し短い。右手の甲に小傷。
倉庫表口で餌を確認した男だ。
もう一人は荷役組合の腕章を付けているが、歩き方が違う。荷役の歩き方ではない。
灰外套の男が蒸気穴の前でしゃがみ込み、地面の継ぎ目へ手を当てた。
薄い革手袋。指先だけ感覚が残るタイプだ。
指が石畳の隙間を探る。
そして、引っかかった何かを引き上げる。
小さな金属箔。
共鳴式の追跡箔と同種だ。
灰外套の男はそれを掌に乗せたまま、腕章の男へ小さく見せた。
腕章の男が頷く。会話はない。
つまり、すでに段取りが“決まっている”ということだ。
灰外套の男が箔を指で折り曲げ、蒸気穴へ落とした。
蒸気に吸われ、白煙の中へ消える。
――吸った。いま確かに吸い込んだ。
アシュレイの背筋が冷える。
追跡箔は餌ではなかった。
相手にとっては連絡のための投げ札だった。共鳴で互いを呼び合う合図。
リュカが唇を噛む。
「……ずるい」
「だが、理屈は単純だ。合図で集まる」
灰外套の男は立ち上がり、周囲を見回した。
視線が鋭い。
獲物を探す目ではない。“見られているか”を確かめる目だ。
アシュレイは目を逸らさない。ただし視線は合わせない。
壁の陰にいる“何でもない旅人”の目線の角度を保つ。
灰外套の男の視線が通り過ぎ、次に腕章の男が口を開いた。
「この周辺の封鎖は?」
「今は無理だ。宮廷が書類を回してる。余計な目が増えた」
灰外套の男の声は低く、落ち着いていた。
焦っていない。厄介だ。
「では、次の搬入口で取る。
……あっちは“事故”にできる」
「了解」
灰外套の男が頷き、二人は来た道を戻り始めた。
アシュレイは即座に追わない。
追えば現場を見たことが気取られる。
二人が曲がって消えるまで待つ。
足音が遠のき、蒸気穴だけが白い息を続ける。
リュカがようやく息を吐いた。
「……いまの、聞いた。次の搬入口、事故にするって」
「ああ。次は動く。そうせざるを得ない」
アシュレイは立ち上がり、蒸気穴へ近づいた。
リュカが反射的に袖を掴むが、アシュレイは首を振る。
「触るのは俺だけだ。お前はそこにいろ」
「うん……」
蒸気穴の縁へしゃがみ込み、アシュレイは匂いを確かめる。
油の匂いが新しい。やはり運用されている。
石畳の継ぎ目の一部が微妙に削れているのも見えた。指を入れるための“癖”が付いている。
彼は鞄から薄い紙片を出し、蒸気穴の上へかざした。
蒸気の流れが紙を揺らす。だが、揺れ方に“脈”がある。一定ではない。
どこかで弁が開閉している。つまり地下で誰かが制御している。
「……地下に配管の制御室がある」
アシュレイが呟くと、リュカが目を見開いた。
「下に、人いるの?」
「その可能性が高い。だが今は降りない。
降りた瞬間、こちらが“吐き口を知っている”と警戒される」
「じゃあ……どうするの」
アシュレイは的確に答えた。
「ノアに紙を回させる。
『蒸気漏れによる事故予防』でここを検査対象にする。
公の目が入れば、地下の動きが鈍る」
リュカは頷き、すぐに気づいて言った。
「でも、ノア、ここにいないよ?」
「呼ぶ」
アシュレイは鞄の奥から小さな短冊状の紙と鉛筆を出した。
封書にするほどでもない、伝言用の紙。
書く内容は短く、曖昧にしない。ノアが動きやすい言葉にする。
――“蒸気穴/追跡箔/搬入口/事故”
この四つを制度の言語へ翻訳して渡す。
書き終えた瞬間、アシュレイは立ち上がり、周囲を見回した。
ここで伝言を届ける役が必要だ。護衛に任せれば公の線が増える。
だが、増えて困る線もあれば、助かる線があるのも事実。
リュカがそっと言った。
「さっきの人……また来る?」
「可能性はある。
だから、ここには留まらない。ここを視野に入れたまま、位置だけ変える」
「移動する」
「そうだ。相手の次の搬入口へ先回りする」
リュカは拳を握る。
「見る。言う」
「頼むぞ」
アシュレイは蒸気穴から離れ、外周の壁沿いに歩き出した。
次の搬入口――“事故にできる場所”。
相手がそう言った以上、そこには必ず罠がある。
しかし、こちらが先に“形”を掴めば、罠も罠ではなく証拠になる。




