表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/64

1-52 蒸気穴

 倉庫区画の外周へ向かうにつれ、通りの音が少しずつ変わっていった。

 露店の呼び込み、車輪のきしみ、荷役の掛け声――それらが遠のく代わりに、蒸気管の低い唸りが近づく。


 アシュレイは歩幅を落としすぎないよう注意しながら、角を曲がるたびに視線だけで背後を確かめた。

 追手が付くのは当然だ。今知りたいのは、付いている者の質だ。


 リュカはアシュレイの半歩後ろに位置を取り、左右の壁と路地の端を目で追っている。

 宣言したとおり、見ることを続けている。

 幼い身体でその緊張を保つのはきついはずだが、目だけはぶれない。


「アシュレイ」


 リュカが小声で呼んだ。


「どうした」


「さっきの人の声……くろいのおねーさんっぽくない。ノアっぽくもない」


「……そうだな」


 アシュレイも同意した。

 名は出さないという作法は似ていたが、言葉の重みが違う。

 あれは連絡係だ。伝言だけを落とし、姿を消す役。

 つまり、《アーク・プロトコル》がこの街にも手を伸ばしている証拠でもある。


 さらに外周へ。

 建物の表側は整然としているが、裏は急に粗くなる。石壁の継ぎ目が荒れ、配管が外に露出し、修理痕がつぎはぎになっていた。

 表の顔と裏の顔。都市の二枚性がここに露呈している。


 やがて道が細くなった。

 荷車が通るための道ではない。人が一人、二人すれ違える程度の幅。

 頭上には蒸気管が走り、地面の溝には水が溜まりやすい。足を置く場所を選ばないと靴が濡れる。


 アシュレイは足元を見ずに歩いた。

 足元に意識を持っていかれると、目線が落ちる。落ちた目線では背後の刃に気づけない。


 伝言の通り、古い配管の残骸が見え始めた。

 壁際に半分埋まった鉄の輪。折れたバルブ。使われなくなった管の切り口がむき出しのまま錆びている。


 そして――地面が息をしていた。


 壁の手前、石畳の継ぎ目から蒸気が漏れている。

 煙突から吐く蒸気ではない。地面の下で生まれた蒸気が逃げ道を探して染み出している。

 鼻腔に湿った金属の匂いが刺さる。


 リュカが思わず立ち止まりかけ、アシュレイの袖を掴んだ。


「……ここ?」


「だろうな」


 アシュレイは立ち止まらない。

 立ち止まるには“止まる理由”を作る必要がある。ここで止まれば、相手に「警戒した」と教えることになる。


 代わりに、壁際の壊れたバルブの前を通り過ぎるふりをして、さりげなく息を吸った。

 蒸気の匂いの中に別の匂いが混じっている。


 油。

 それも、機械の整備油――新しい油だ。


 最近、ここを触れた者がいる。

 しかも、蒸気穴を「放置」ではなく「運用」している。


 アシュレイは角をひとつ越え、蒸気穴の見える位置から少し外れた壁の陰へ入った。

 ここなら通りからは見えにくいが、蒸気穴へ来る者の足は見える。

 立ち止まっても、“陰で休んでいる旅人”に見える範囲だ。


「リュカ。ここに立て。壁を背にしろ。視線は穴じゃなく、穴へ続く道」


「うん……」


 リュカは言われた通りに壁へ背を付け、道の入口を見る。

 震えてはいない。だが指先が少しだけ白い。力が入っている。


 アシュレイは腰を落とす。しゃがむのではなく、いつでも動ける半端な高さ。

 手は鞄の留め具に触れておく。武器ではなく、道具を取り出すためだ。針金、粉、薄板。

 それらの日用道具が彼の武器だ。


 待つ時間は短く感じた。

 蒸気穴の白が濃くなったり薄くなったりする。周期がある。地下の圧が変わるのだろう。

 その周期に合わせて、遠くの蒸気管の唸りもわずかに変わった。


 そして足音。


 重くない。

 しかし、迷いがない。

 荷を運ぶ足ではない。状況を知っている者の足取りだ。


 リュカがアシュレイにだけ聞こえる息で言った。


「……来た」


 アシュレイは頷く。


 現れたのは二人だった。

 一人は灰色の外套。袖が少し短い。右手の甲に小傷。

 倉庫表口で餌を確認した男だ。

 もう一人は荷役組合の腕章を付けているが、歩き方が違う。荷役の歩き方ではない。


 灰外套の男が蒸気穴の前でしゃがみ込み、地面の継ぎ目へ手を当てた。

 薄い革手袋。指先だけ感覚が残るタイプだ。


 指が石畳の隙間を探る。

 そして、引っかかった何かを引き上げる。


 小さな金属箔。

 共鳴式の追跡箔と同種だ。


 灰外套の男はそれを掌に乗せたまま、腕章の男へ小さく見せた。

 腕章の男が頷く。会話はない。

 つまり、すでに段取りが“決まっている”ということだ。


 灰外套の男が箔を指で折り曲げ、蒸気穴へ落とした。

 蒸気に吸われ、白煙の中へ消える。

 ――吸った。いま確かに吸い込んだ。


 アシュレイの背筋が冷える。

 追跡箔は餌ではなかった。

 相手にとっては連絡のための投げ札だった。共鳴で互いを呼び合う合図。


 リュカが唇を噛む。


「……ずるい」


「だが、理屈は単純だ。合図で集まる」


 灰外套の男は立ち上がり、周囲を見回した。

 視線が鋭い。

 獲物を探す目ではない。“見られているか”を確かめる目だ。


 アシュレイは目を逸らさない。ただし視線は合わせない。

 壁の陰にいる“何でもない旅人”の目線の角度を保つ。


 灰外套の男の視線が通り過ぎ、次に腕章の男が口を開いた。


「この周辺の封鎖は?」


「今は無理だ。宮廷が書類を回してる。余計な目が増えた」


 灰外套の男の声は低く、落ち着いていた。

 焦っていない。厄介だ。


「では、次の搬入口で取る。

 ……あっちは“事故”にできる」


「了解」


 灰外套の男が頷き、二人は来た道を戻り始めた。


 アシュレイは即座に追わない。

 追えば現場を見たことが気取られる。

 二人が曲がって消えるまで待つ。


 足音が遠のき、蒸気穴だけが白い息を続ける。


 リュカがようやく息を吐いた。


「……いまの、聞いた。次の搬入口、事故にするって」


「ああ。次は動く。そうせざるを得ない」


 アシュレイは立ち上がり、蒸気穴へ近づいた。

 リュカが反射的に袖を掴むが、アシュレイは首を振る。


「触るのは俺だけだ。お前はそこにいろ」


「うん……」


 蒸気穴の縁へしゃがみ込み、アシュレイは匂いを確かめる。

 油の匂いが新しい。やはり運用されている。

 石畳の継ぎ目の一部が微妙に削れているのも見えた。指を入れるための“癖”が付いている。


 彼は鞄から薄い紙片を出し、蒸気穴の上へかざした。

 蒸気の流れが紙を揺らす。だが、揺れ方に“脈”がある。一定ではない。

 どこかで弁が開閉している。つまり地下で誰かが制御している。


「……地下に配管の制御室がある」


 アシュレイが呟くと、リュカが目を見開いた。


「下に、人いるの?」


「その可能性が高い。だが今は降りない。

 降りた瞬間、こちらが“吐き口を知っている”と警戒される」


「じゃあ……どうするの」


 アシュレイは的確に答えた。


「ノアに紙を回させる。

 『蒸気漏れによる事故予防』でここを検査対象にする。

 公の目が入れば、地下の動きが鈍る」


 リュカは頷き、すぐに気づいて言った。


「でも、ノア、ここにいないよ?」


「呼ぶ」


 アシュレイは鞄の奥から小さな短冊状の紙と鉛筆を出した。

 封書にするほどでもない、伝言用の紙。

 書く内容は短く、曖昧にしない。ノアが動きやすい言葉にする。


 ――“蒸気穴/追跡箔/搬入口/事故”

 この四つを制度の言語へ翻訳して渡す。


 書き終えた瞬間、アシュレイは立ち上がり、周囲を見回した。

 ここで伝言を届ける役が必要だ。護衛に任せれば公の線が増える。

 だが、増えて困る線もあれば、助かる線があるのも事実。


 リュカがそっと言った。


「さっきの人……また来る?」


「可能性はある。

 だから、ここには留まらない。ここを視野に入れたまま、位置だけ変える」


「移動する」


「そうだ。相手の次の搬入口へ先回りする」


 リュカは拳を握る。


「見る。言う」


「頼むぞ」


 アシュレイは蒸気穴から離れ、外周の壁沿いに歩き出した。

 次の搬入口――“事故にできる場所”。

 相手がそう言った以上、そこには必ず罠がある。


 しかし、こちらが先に“形”を掴めば、罠も罠ではなく証拠になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ