1-50 囮
宿の中庭を渡る風が干し草の匂いを運んできた。
厩舎の鍵が鳴るたびにリュカの視線がそちらへ吸い寄せられる。心配を断ち切ろうとしているのに、身体の反応が先に出る。
アシュレイはその横顔を見て、言葉の代わりに歩幅を少し落とした。今は急ぐ状況ではない。急げば相手の思う壺だ。
「クローヴ殿」
背後から声があった。
振り返ると、ノアが宿の廊下を抜けてきたところだった。手には封筒と数枚の書類束。紙の匂いが染みついている。
「一次回答の続報です。『監査代行』を名乗る者は正式には存在しません。
ただし……似た名目での“委託”はあります。倉庫区画管理局が、民間の荷役組合に監査補助を委託する例がある、と」
「荷役組合か」
「はい。名目は合法です。ですが、その中に特例を混ぜることは可能です」
ノアは言い切り、アシュレイの目を見た。
忠告というより確認に近い。
「つまり、相手は制度の範疇だと言える。
言い逃れの余地があります」
「厄介だな」
「はい。厄介です。だからこそ、こちらは“記録”を先に積みます」
アシュレイは頷き、本題へ移った。
「追跡媒体の照会は?」
「レヴァル・アーシェの刻印技師組合に照会を回しました。
共鳴式の追跡箔は製造工程に癖が出ます。銘打っていなくても判別可能です」
そこまで言いながら、ノアの視線がリュカへ向いた。
リュカは反射的に背筋を伸ばす。
「リュカ殿。大丈夫ですか」
「……大丈夫。ちゃんと聞いてる」
言い切ってから、リュカはアシュレイを見上げた。
そこにいることが自分の役割だと確かめるように。
アシュレイは短く肯定し、話へ戻る。
「俺たちは目立つ場所に立つ。相手が確認しに来る場所だ」
ノアが眉をひそめた。
「……囮に?」
「ああ。だが、派手にはやらない。
相手が欲しいのは騒ぎじゃない。情報だ。
だから、それを取りに来れるだけの時間を作る」
ノアは一呼吸おいてから、丁寧に聞いた。
「場所の当ては?」
「二つある」
アシュレイは指を二本立てた。
「一つ目は倉庫区画の表口。
監査代行を名乗る連中がいちばん出入りしやすい。
もう一つは旧荷捌き場の裏――吐き口の近辺。
回収役が来る」
ノアの表情が硬くなる。
「吐き口の近辺は危険です。
……クローヴ殿、失礼ですが、護衛を振り切って突っ込むタイプですよね」
「振り切れるわけがない。加えて、今日は歩くと決めた」
リュカがすかさず口を挟む。
「走らないで、歩く。相手に手続きさせる」
ノアが小さく息を吐き、少しだけ笑った。
「助かります。……本当に」
当たり前のことでも、彼に丁寧な口調で言われると妙に真剣に聞こえる。
アシュレイは話を切り替えた。
「ノア、ひとつ頼む。
“正規の照会”とは別に、倉庫区画管理局の中で、今日の出入予定表を引っ張れないか」
「できます。ですが、理由が必要です」
「理由は作ればいい。追跡媒体が出た。厩舎への不正接触があった。
“事故予防”を名目にする」
ノアは頷き、即座に紙へ書き始めた。
ペンが動く。文字が形を持つ。制度が回り出す。
「承知しました。
クローヴ殿、こちらもひとつ提案があります」
「言ってくれ」
「囮は“本体”である必要はありません。
相手が追跡箔で取っているのは共鳴です。
共鳴するものを別に作りましょう」
アシュレイの目が細くなる。理解が早い。
「……デコイを置け、と」
「はい。
クローヴ殿のキャリッジに仕込まれていた追跡箔は回収しました。
ですが、相手が同種の媒体をもう一枚持っていれば、再度仕込む可能性があります。
なら、こちらから共鳴の餌を撒くことで、相手の動線を引きずり出せます」
アシュレイは短く笑った。
「実技だけじゃなく頭も回るな」
「クローヴ殿ほどではありません」
さらっと返すのがまたずるい。
リュカが腕を組み、得意げに頷く。
「ノア、えらい」
「ありがとうございます、リュカ殿」
アシュレイは厩舎へ視線を投げた。
デコイ――共鳴の餌。
作成には、キャリッジに積んでいる余り物が使える。金属片、古い刻印板、廃材。店主の荷はこうして役立つ時がある。
「今すぐ作る」
厩舎の中はひんやりしていた。
木の柱に干し草、壁際にキャリッジ。金属の肌が朝の光を鈍く返す。護衛が扉の傍で立っている。
アシュレイはキャリッジの側面箱を開け、金属片の束と古い刻印板を取り出した。
その中に、共鳴の癖が似た合金板が一枚ある。蒸気都市の部品はたいていが同じ規格で回っている。
「これを使う」
ノアが頷く。
「刻印の“振動”を合わせます。共鳴式の追跡は音叉のようなものです。
似た音を出す板があれば、相手は少なくとも一度は引っかかります」
「その瞬間を追うか」
「はい。
見失わないように。刻印は便利ですが、万能ではありません。
最後は必ず自分の目で確認します」
リュカは少し離れて見ていたが、不意に言った。
「ねえ、これって、危ないやつ?」
「危ない。近づくな」
「近づかないよ。……見るだけ」
リュカは言って、本当に一歩下がった。
その素直さにアシュレイの胸が少しだけ軽くなる。
ノアが革袋から細い粉を取り出し合金板の縁へ刷り込んだ。粉は灰色で、光を吸う。
次に、小さな留め具を板に噛ませ、普通の布袋へ入れる。
「これを置く場所が重要です」
「表口だ。倉庫区画の出入りが見える位置に置く」
「承知しました。
ただし、クローヴ殿が持っていくのではなく――」
ノアは護衛へ視線を投げた。
「宮廷の護衛が運びます。
“拾得物の保全”という名目で倉庫区画管理局へ届けるふりをし、途中で置く」
護衛が頷く。
手続きで隠し、手続きで罠を張る。これが公の強みだ。
アシュレイは頷いた。
「よし。俺とリュカはその様子が見える場所に立つ。
相手が食いつくのを待つ」
ノアがさらに念を押す。
「クローヴ殿。待つ間、決して単独で路地へ入らないでください。
相手は制度の顔を被っています。揉め事を起こす必要がない。
つまり、静かに攫うこともできます」
リュカが眉を寄せる。
「……やだ」
アシュレイはしゃがみ込み、リュカの目線に合わせて言った。
曖昧な言葉ではなく、今の状況として伝える。
「だから、路地へは入らない。
人が多くいる場所、光がある場所に立つ。
俺の横から離れるな」
「うん。わかった」
リュカは短く頷いた。
怖さを飲み込んだ上での返事だと分かる。だからこそアシュレイは言葉を一つ足した。
「怖いなら、怖いと言っていい。
疎通ができれば次の手が打てる」
リュカは一瞬だけ唇を噛み、それから小さく言った。
「……怖い。だから、言うね」
「それでいい」
ノアがほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……いいですね」
アシュレイは立ち上がり、鞄の留め具を確かめた。
「行くぞ。倉庫区画の表口だ」
「承知しました、クローヴ殿。
――私が書類を回している間に、クローヴ殿は相手の“目”を拾ってください」
紙と目。
制度と現場。
噛み合った歯車がようやく前へ進み始めた。
リュカが小さく呟く。
「キャリちゃん、留守番……がんばれ」
そしてアシュレイの袖を掴み、いつもの合言葉を言う。
「横だからね」
「ああ。頼むぞ」
その言葉を携えて、二人は厩舎を出た。




