1-49 監査代行
玄関へ向かう途中、リュカは何度も厩舎の方を振り返った。
扉は閉まり、二重の鍵が掛かっている。護衛もいる。それでも不安が完全には消えないのだろう。機械の胸の奥で言葉にできないざわつきが鳴っている。
アシュレイは歩幅を合わせ、余計な励ましはしなかった。
安心させる言葉が今は嘘になる。嘘は次の判断を鈍らせる。
玄関の前で宿の主人が深く頭を下げた。
「お部屋へご案内いたします。ノア様から、特別に――」
「先に確認したいことがある」
アシュレイは主人の言葉を遮り順序を正した。
先に部屋へ行けば話が遅れる。遅れた分だけ相手に余裕を与える。
「厩舎に入れるのは誰だ。鍵の管理は今、護衛が受け持っている。
だが、昨日から今日にかけて――キャリッジに傷が付いた。
移動中に触れられた可能性がある。誰がどのタイミングで近づけたかを知りたい」
主人は目を泳がせた。
不正の関係者の目ではない。
突然現れた問題に、頭の中で段取りが追いつかない目だ。
「……移動は、ノア様の護衛の方が……」
「護衛だけでは距離ができる区間がある。だから可能性を潰す。
厩舎係、荷運び係、門番、出入記録。全部だ」
主人は言葉を飲み込み、頷いた。
「承知しました。帳面は……こちらへ」
案内されたのは玄関脇の小さな事務室だった。
机と棚、そして木の匂い。紙の匂い。ここは宿の心臓だ。金銭と客と鍵の記録が集まる場所。
主人が帳面を出す。
アシュレイはページを開きながら、文字そのものより先に“汚れ”を見る。
よく使う帳面は手垢がつく。角が丸くなる。墨がにじむ。
その生活感があるかないかで、嘘の帳面か本物の帳面かが分かる。
この帳面は、使われている。
ページの端に指の跡がある。墨の濃淡も自然だ。
「昨夜から今朝までの、厩舎と荷運びの記録を」
主人は指を震わせつつページをめくり、該当箇所を示した。
厩舎の鍵の受け渡し、荷運びの依頼、馬車の出入り。
そこに“キャリッジ”という文字はない。そもそも宿の荷ではないからだ。
アシュレイは問いを変えた。
「“見慣れない荷車”が入ったという記録は?」
「記録は……通常の荷以外は、書きません。ですが厩舎係は覚えているはずです」
「呼んでくれ」
主人が慌てて人を呼びに行く。
その間、リュカが帳面の隅を覗き込み、ぽつりと言った。
「……ここの人、帳面、ちゃんとしてる」
「そうだな。ちゃんとしている。だからこそ、消されると違和感が残る」
「消される?」
「記録を消すのは難しい。だから“最初から書かない”方が楽だ。
書かれていないことは、嘘にも真実にもなる」
リュカは一瞬だけ難しい顔をして、それから頷いた。
「……じゃあ、覚えてる人、探す」
「そうだ」
程なくして、厩舎係が呼ばれてきた。
二十代くらいの男で、手が硬い。干し草の匂いが染みついている。働いている者の手だ。
「厩舎係のミルと申します。ご用件は」
「キャリッジに触った者を探している。
昨日から今朝まで、厩舎と敷地周りで、見慣れない人間を見たか」
ミルは即答しなかった。
考えてから答える。記憶を捏ねて言葉にする癖がある。嘘をつく人間の間ではない。
「見慣れない、ってのが……旅人は多いですし」
「旅人だけじゃない。働く手を持っている者もだ。
例えば、手慣れていて、物を見る目をしている」
アシュレイの言葉に、ミルの目が少しだけ鋭くなる。
分かった、という顔。
「……いました。今朝、門の外で荷を降ろしてた男です。
荷運びの人間じゃないのに、縄の締め方が倉庫人のやり方でした」
「特徴は」
「灰色の外套。袖が少し短い。右手の甲に小傷。
……すみません、俺、そういうの覚える癖があって」
その特徴に、リュカが息を吸った。
連絡工房の仕掛けが吐いた記録紙にあった特徴と一致する。
アシュレイは視線だけでリュカを制し、続けた。
「いつ見た」
「日の出前です。まだ通りが静かな時間。
門番と、二言三言、話してました」
「門番の名は?」
主人が横から口を挟む。
「門番はロウです。今、詰所におります」
アシュレイは頷いた。
「ロウを呼んでくれ」
主人が慌ててまた走る。
ミルは不安そうに喉を鳴らし、言い訳のように付け足した。
「俺が見たのは、門の外です。敷地内には入れてません。
だから……」
「十分だ。だが、入る気もないのになぜ門番と話した」
ミルが言葉を止める。
それが“答え”だ。門番が通した可能性がある。
リュカが不意に小さな声で言った。
「さっき、アシュレイ、鍵は護衛が持ってるって言った」
「言ったな」
「でも門番が通したなら、鍵無しで……開けたの?」
その一言が場の焦点をきゅっと絞った。
鍵がなくても、門は開けられる。
そして通常でない出入りなら、記録は紙ではなく口で残る。
アシュレイは短く褒めた。
「いい指摘だ」
リュカの頬が少しだけ赤くなる。
「……えへ。見る、言う、したね」
そこへ門番のロウが現れた。
三十前後。笑顔が上手い。人当たりがいい。
だが目は油断していない。相手の反応を測る目だ。
「お呼びでしょうか。お客様。……何かお困りで?」
アシュレイは回りくどい前置きを捨てた。
「今朝、門の外で灰色の外套の男と話したな」
ロウの笑顔が一瞬だけ遅れた。
完全には崩れない。だが遅れは出た。
「……いえ、旅人から道を聞かれただけで」
「袖が短い男だ。右手の甲に小傷。倉庫の縄を結ぶ手を持ってる」
ロウはすぐに眉を下げる。困った顔。
表情の作り方が上手い。
「人違いでは……」
アシュレイはそこで声を荒げない。
荒げれば、相手は被害者の位置に逃げる。
逃げ場を与えないために、紙を出す。
アシュレイは懐から、連絡工房の仕掛けが吐いた紙片の写しを取り出した。
ノアに渡すための控えをすでに自分でも持っていた。
写しには時刻と特徴が並ぶ。
「この特徴、今お前が言った“旅人”と一致する。
しかも、時刻が朝五時十二分。
なぜそんな早い時間に、倉庫の手が門前にいる」
ロウの喉が動いた。
作った困り顔の裏で計算が走る。
「……お客様、それは――」
その瞬間、事務室の扉がノックされた。
控えめだが急いでいる。
「ノア様から伝言です!」
文官の声がする。
動きが早い。紙面の戦いはすでに進んでいる。
主人が扉を開けると、文官が一通の封筒を差し出した。宮廷の印章付きだ。
「ノア様より。『監査代行』の照会に対し、一次回答が来ました。
――“その役職名は正式には存在しない”とのことです」
空気が固まった。
存在しない役職名。
つまり、相手は公の皮を被っているが、そのものではない。
そしてその偽装が、いまここで事実として露呈した。
ロウの顔色がほんの僅かに変わった。
彼はこの答えを知らないはずだ。だからこその反応かーー。
門番は中核ではない。末端か、中間だ。
アシュレイはそこを逃さず問いを刺す。
「ロウ。お前は何を通した。
存在しない役職名の男を、なぜ相手にした」
ロウは唇を噛み、目を逸らした。
そして、言葉を選びながら答えた。答えるしかない状況になったからだ。
「……私は、命令に従っただけです。
“倉庫区画からの連絡だ”と。
『ノア様の手配より先に、厩舎周りを確認しろ』と……」
ノアの名が出た。
狙いは明確だった。ノアの権威を利用し、ノアの動きを先回りして潰す。
つまりこれは、ノア個人への嫌がらせではなく、“公の盾”を剥ぐために為された。
リュカが小さく怒る。
「ずるい……」
アシュレイはリュカの頭を軽く撫でるような仕草で制し、ロウへ言う。
「命令主は誰だ。名を言え」
ロウが首を振る。
「言えません。言えば――」
「言えば、どうなる」
ロウはそこで言葉を止めた。
“どうなるか”を知っている顔だ。
つまり、脅しを受けているか、弱みを握られている。
アシュレイは声を落とし、逃げ道を一つだけ置いた。
「今すぐ全部は言えなくていい。
だが、印章だけでも言えーー歯車と鎖か」
ロウの視線が床へ落ちた。
肯定だ。
アシュレイは頷き、主人へ向き直る。
「門番の交代。今日からロウは門に立たせるな。
これは俺の命令じゃない。
――ノア・シルエルの名義で、そう伝えろ」
主人が息を飲む。
「……承知しました」
ロウが青ざめる。
だが、それは“職を失う”恐怖だけではない。
門から外されることで、“命令主”にとっての彼の価値が落ち、切り捨てられることへの恐怖だ。
そこまで察したアシュレイは、最後に一言だけロウへ言った。
「生きたいなら、口を閉ざすな。
開くタイミングは俺が作る」
ロウは唇を震わせ、頷きかけて、結局頷けなかった。
それでも目の揺れが少しだけ変わった。
敵意のない揺れ方だ。
アシュレイは事務室を出る。
宿の中庭に戻ると、空が少し高くなっている。蒸気の白が薄い。
時間が動いている。相手も動いている。
リュカが袖を掴む。
「これ、次どうするの?」
アシュレイは具体的に答えた。
「先ず、追跡媒体の出所を突き止める。
次に、偽の“監査代行”が使う通行路を押さえる。
それから、吐き口に必ず現れる回収役を待つ――そのために、こちらが見やすい場所に立つ」
「見やすい場所?」
「相手が“確認に来る”場所だ。
相手は今、俺たちを追ってる。
ならば、必ず顔を出す」
リュカは頷き、ぎゅっと拳を握った。
「見るよ。違和感、言うから」
「頼む」
遠くで、厩舎の扉が鳴った。
護衛が封鎖刻印を追加している音だ。
紙の戦いはノアが動かす。
裏の尻尾はまだ見えないが、どこかでリュドラが嗅ぎ回っているはずだ。
そしてアシュレイは虚線の先を掴むために、理屈の糸を張る。
この街の嘘はよく表に似せている。
だからこそ、堅実な記録で裂くことができる。




