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1-4 揺らぎの診断

 翌朝の空気は少しだけ冷たかった。

 アルケディアの空には薄い雲がかかり、蒸気搬送車の白煙がゆっくりとその中に溶けていく。

 城下町の中心部へ向かう通りは、朝一番の荷を乗せた車輪の音で賑やかになりつつあった。


 クローヴ魔道具店の扉は、もう半分だけ開いている。

 今日のアシュレイの動きはいつも以上に早かった。


 店内の片隅にある棚を一通り確認し、何本かの書類筒と、小さな金属製のケースを革鞄に詰め込む。


「アシュレイ、今日は外出?」

 カウンターの上に座って足をぶらぶらさせていたリュカが、首をかしげながら問うた。


 昨日と同じように、いや、昨日よりも少しだけ彼女の声は軽い。

『いなくなりたくない』と口にしたあと、何か決意のようなものを心のどこかに隠した子どものようだった。


「ああ。いつものところだ」

「クロイのおねーさんのとこ?」

「その呼び方はやめろと言った」

「でも、本人が怒ってないからセーフだよ?」

「本人は喜んでもいない」


 アシュレイはため息をひとつ落とし、鞄の留め具を締める。

 リュカの視線がその手元をじっと追いかけていた。


「わたしも行っちゃだめ?」

「だめだ」

「なんで?」

「お前が工房にいる間にしかできない調整がある。……それに」

「それに?」

「向こうの工房は、蒸気がきつい」


 半分は本当で、半分は言い訳だった。

 リュカの機械身体は精密な部品と繊細なエーテル固定機構で構成されている。粉塵や過剰な蒸気は確かに負担になりうる。

 だが、それだけが理由ではなかった。


「すぐ戻る。……店からは出るな」

「うん」


 いつもの言葉。

 いつもの返事。

 そのやり取りが、今日はなぜか胸の奥で引っかかった。


 リュカは椅子から立ち上がり、扉のそばまで小走りで寄ってくる。

 アシュレイが取っ手に手をかけたところで、裾をそっとつまんだ。


「……いってらっしゃい」


 アシュレイは振り返らなかった。

 ただ、その言葉の重さを背中で受け止める。


「ああ」

 一言だけ返し、扉を開ける。


 白い光と外気が工房の中に流れ込んだ。

 扉が閉まると、鈴の音が短く響いた。


 その音を聞きながら、リュカはしばらく扉を見つめていた。

 やがて、ひとりごとのようにぽつりと呟く。


「……ちゃんと、戻ってきてね」


 その声は扉の向こうへは届かない。

 だが工房の木材には、確かに染み込んでいった。


        *


 城下町の中心部へ向かう道は裏通りとは違う喧騒に満ちている。

 露店が並び、果物やパンの香りが混ざり合い、道端には簡易的な魔道具屋台まで出ていた。


 アシュレイはその賑わいの中を、あまり景色を見ないまま歩いていく。


 道の隅に置かれた魔導灯が時折、ぱちん、と小さな火花を散らした。

 エーテル供給の不安定さは、ここ最近の城下町ではよくある光景だ。


「……分かっているはずなんだがな」

 誰にともなく、小さく漏らす。


 エーテルの流れは世界の基盤だ。

 それが弱まりつつあることに人々は薄々気づきながら、日常へと押し込めようとしている。


 アシュレイもそのひとりだった。

 ただし彼の場合、押し込めきれないものを工房の奥に抱え込んでいる。


 曲がり角の先に特徴的な煙突が見えてきた。

 背の低い建物でありながら、屋根から伸びる細い管が何本も空へ向けて突き出ている。

 管の先端からは蒸気ではなく、時折淡い光がふわりと漏れていた。


 リゼット・クロイの工房である。

 外壁は他の工房と比べても清潔に保たれており、扉には小さく品のいいプレートが掛けられていた。


 《クロイ機構魔術研究所》


 研究所と名乗っている割には、表向きは機械仕掛け人形や精密魔道具の修繕も請け負っている。

 表と裏。二つの顔。


 アシュレイは扉の前で一度だけ息を整えた。


 ここを訪れるのはこれが初めてではない。

 むしろ、二十年近く続けている習慣のようなものだ。

 それなのに、今日は指先にわずかな躊躇が宿った。


 扉をノックする。

 間を置かず、内側から金属の軋む音がした。

 数個の錠前が順番に外されていく音。


「開いてるって、いつも言ってるんだけど」

 扉が少しだけ開き、その隙間から顔が覗いた。


 銀髪を無造作にまとめ、透明感のある青い瞳に厚い片眼鏡。

 白衣の袖は肘までまくり上げられ、腕には油染みと墨の跡がまだらについている。


 リゼット・クロイ。


「あら、アーク。今日も相変わらず暗い顔ね」

「……普通だ」

「はいはい、普通に暗いのね」


 扉が全開になり、リゼットが身を引く。

 彼女の工房はクローヴ魔道具店とはまた違う意味で物で溢れていた。

 壁一面にぎっしりと並んだ試験管と魔導管。

 天井から吊るされたエーテル計測器。

 床には魔術式が円形に刻まれ、その上に金属製の台座がいくつも固定されている。


 整然としているようで、その実、どこから手をつけていいのか分からない混沌。

 だが、ここには確かに、人を対象とした研究の気配があった。


「リュカは?」


 リゼットが尋ねる。

 アシュレイは鞄を下ろしながら首を振った。


「工房に残してきた」

「そう。――正解ね」


 リゼットはあっさりとそう言い、奥の机へ歩きながら白衣のポケットから手袋を取り出した。


「今日は、どんな顔で来たの?」

「どういう意味だ」

「診断結果を聞く覚悟がある顔かどうかってこと」


 淡々とした言葉だった。

 からかい半分にも聞こえるが、目は笑っていない。


 アシュレイは返事をせず、机の上に書類筒を並べる。

 そこには、ここ数ヶ月にわたるリュカの状態を記録した観測データが収められている。


 エーテル濃度の推移。

 術式反応の微細な揺らぎ。

 外部から見える変化はほとんどないのに、数字だけが静かに歪み始めていた。


「前回から三十日分をまとめてある」

「ありがと。……こっちはこっちで、定点観測分を用意してるわ」


 リゼットは机の上の別の束を指で叩いた。

 そこには、彼女の工房で測定したリュカのエーテル位相の記録が、びっしりと並んでいる。


「で、どっちから見る?」

「お前の方からだ」

「素直でよろしい」


 リゼットはくすりと笑い、眼鏡を押し上げた。

 その横顔からは、余裕とも緊張ともつかない、不思議な静けさが漂っている。


「結論からいく?」

「……回りくどいのは好きじゃない」

「じゃあ、結論」


 リゼットは手元の資料を一枚だけ引き抜き、アシュレイの前に差し出した。

 そこには、数本の波線と数値が並んでいる。


 ただの線だ。

 ただの数字だ。

 ――それでも、その意味を知る者にとっては、十分すぎる情報だった。


「魂固定の位相が、予定よりも早くずれてる」


 彼女の声は驚くほど穏やかだった。


「このままいくと――あと二年、は持たないかもしれない」


 工房の中で何かが、きしり、と音を立ててずれた気がした。

 実際には何も動いてはいない。

 動いたのは、アシュレイの心の位置だけだった。


 アシュレイは紙から目を離さなかった。

 数字の意味を理解するのに時間はいらない。

 理解したくないだけだった。


「三年前までは、安定範囲に収まっていたはずだ」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


「そうよ」

 リゼットは机に片肘をつき、指先で波線を軽く叩いた。


「でもこれは、あの頃の計算式のままじゃ測れないの」

「どういう意味だ」

「魂の位相っていうのは、本来『固定していられるものじゃない』ってこと」


 リゼットは言葉を選びながら続けた。


「リュカの魂は器に縫いとめてあるような状態。本来なら自然に戻るはずだったものを、ありえない形で留めてる」


「分かっている」

「分かってるなら、聞きなさい」


 アシュレイは口を閉じた。

 リゼットは一瞬だけ目を伏せ、それから真正面を見据えた。


「魂って、安定しているから存在できるんじゃないの。『揺らぎながら、均衡しているから』存在できるのよ」

「……平衡点が、変動しているということか」

「そう。それも、予測外のスピードで」


 リゼットは別の紙を取り出した。

 そこには細かい数字の列が印字されている。


「ここ三ヶ月だけ、変動幅が倍になってる」


 アシュレイの指先がわずかに動いた。


「原因は?」

「分からない」


 即答だった。


「環境変動かもしれないし、魂そのものの問題かもしれない。術式の劣化、器側の摩耗、外部からの干渉――全部可能性の範囲」


「つまり、何も分かっていないということだ」

「そうね。だけど一つだけ確かなことがある」


 リゼットは資料を伏せ、アシュレイをまっすぐ見た。


「リュカは、『止まっていられない状態』に入ってる」


 言葉の重さは淡々としているのに、逃げ場がなかった。


「もし、このまま何もしなければ――」

「言わなくていい」

「言うわよ」


 リゼットの声は柔らかかった。

 しかし、絶対に揺れなかった。


「二年どころか、一年で消える可能性がある」


 工房の空気が、一度だけ沈む音を立てたようだった。

 アシュレイは息を吸うことすら忘れていた。


「……そんな急激な変動が起こる理由はない」

「本来ならね」

「補正術式は正常に機能しているはずだ」

「『正常に見えている』だけ。ここ数ヶ月で、補正値が限界に達している兆候がある」


 リゼットは机の端から小さな金属片を取り上げる。

 薄い回路のような紋様が刻まれた試作品だ。


「これは、あのときの仮補正板。覚えてる?」

「ああ」

「本来は一年持てばいいはずだった。でも、三年持った。それは奇跡じゃなくて、『誤差の蓄積』」

「誤差が蓄積するなら、もっと早く崩れるはずだ」

「だから言ってるのよ。計算式が間違ってるの」


 アシュレイの眉がわずかに動いた。


「間違っているとは思えない。俺たちが導いた式は、魂位相の安定化として理論的に最も――」

「だからダメなのよ」


 リゼットは軽く机を叩いた。

 強くはない。ただ、確かな響きがあった。


「理論的に正しいことと、現実で成立することは違うって、アークが一番知ってるでしょ」


 その言葉は皮肉でも批判でもなかった。

 ただの事実だった。


 アシュレイは視線を落とした。

 胸の奥に、ひどく冷たいものが沈んでいく。


「……別の式を導き直す必要がある」

「そうね。でも時間がない」

「分かっている」

「分かってないわ」


 リゼットは淡く笑った。

 その笑顔は、強い人間だけが浮かべられる種類のものだった。


「アーク、あなたはずっと『自分さえ動かなければ、現状は保てる』って思ってきた」

「そんなつもりはない」

「あるわよ」


 即答だった。


「二十年間、同じ研究を繰り返して、同じ生活をして、同じ工房にいて――変わらないことで守れると思ってた」


 アシュレイは返さなかった。

 返せなかった。


「でも、変わらないものなんてないの。魂だって、器だって、時間だって。止まってくれるものなんて、ひとつもない」


 その言葉は残酷ではなかった。

 むしろ優しかった。


「だから、動くしかないのよ」


 アシュレイは呼吸をようやく取り戻す。


「つまり――こう言いたいのか。旅に出ろ、と」

「違うわよ」


 リゼットは肩をすくめた。


「『旅に出る以外に選択肢がない』って言ってるの」


 淡々とした声なのに、まるで逃げ場がなかった。


「このまま工房に閉じこもってても、リュカは助からない」


「俺が――」


 アシュレイの声がかすれた。


「俺が動いたところで、何ができる」

「何もできないかもしれない」


 リゼットははっきりと言い切った。


「でも、動かなかったら、確実に何も残らない」


 その言葉は残酷ではなく救いだった。


 アシュレイは机に手をつき、深く頭を垂れた。

 しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく息を吐いた。


「……リュカには、まだ伝えていない」

「そうでしょうね。あの子は、あなたが隠してることに気づいてるけど」


 アシュレイの肩がわずかに揺れた。


「怖いのは分かるわよ」


 リゼットは穏やかに続けた。


「だって、あなたは二十年かけてようやく『失ったもの』じゃなくて、『今そこにいる子』を見つけたんだもの」


 アシュレイは目を閉じた。


「だけどね、アーク」


 リゼットは声を落とした。


「リュカは、もう『失われた子』じゃない。今、生きてる子よ」


 その言葉は、ゆっくりと胸に沈んでいった。


「だから――」

 リゼットは小さく笑った。


「ちゃんと選ばないといけないの」

「なにを」


「未来よ」


 アシュレイは顔を上げた。

 その表情には絶望でも希望でもなく、ただひとつだけ、避けられない現実が宿っていた。


「覚悟を決めなさい、アーク」

「……」


「その代わり、ひとつだけ安心していいことがある」


 リゼットは背を伸ばし、白衣の下のポケットから小さな銀の鍵を取り出した。


「あなたは、一人じゃないわ」


 アシュレイは目を細める。


「どういうことだ」

「私と、ノアと、リュドラ。《アーク・プロトコル》はもう動いてる」


 アシュレイは固まった。


「いつ――」

「あなたが気づくより前からよ」


 リゼットは少し誇らしげに笑う。


「だから、安心して怖がりなさい」


 アシュレイは言葉を失ったまま立ち尽くした。

 その瞬間、工房の外で小さく鐘が鳴った。

 昼の鐘ではない。

 時刻外の、不意の二打。


 二人は同時に扉の方へ目を向けた。

 リゼットの表情が変わる。


「アーク――」


 息を呑むような声だった。


「工房に、誰か来てる」


 リゼットの言葉にアシュレイは顔を上げた。


「ここじゃなくて、そっちの方」


 彼女は顎で示す。

 机の端に置かれた小さな真鍮製の箱。

 表面にはクローヴ魔道具店の見取り図に似た魔術式が刻まれ、その一角が淡く光を点滅させていた。


「遠隔感知……」

「そう。あなたの店の扉が開くと反応する。《監視》って言うと嫌がるから、あえて言わないけど」

「十分、監視だ」

「大事な被験――」


 言いかけて、リゼットは口をつぐんだ。


「……大事な友人の工房だから、ね」


 その言い換えに、アシュレイは何も返せなかった。



ついに登場しました、天才技師”リゼット・クロイ”!!!

銀髪・片眼鏡・白衣姿の、元・アルケディア王立魔術学院・器工科随一の天才問題児!

元・アルケディア王立魔術学院・理術科首席のアシュレイの認識では、”魂固定術の完成者”とされている彼女。

主人公のアシュレイのことを”アーク”と呼ぶ唯一の存在であり、二十年前の”事件”のことを共有する無二の存在でもあります。

彼女はアシュレイに対して、いつも淡々と理屈を並べて話しているようでありながら、それは理屈を”最も信頼できるもの”とする彼を一番に理解している証拠とも解釈できます。


この後の展開で、そんなリゼット・クロイが二十年にわたる研究の成果を主人公に託すお話が入ります。

アシュレイが二十年間にわたって彼女の理論に救われてきたように、彼女もまた彼に、正確には”彼を思う心”によって孤独な研究を続けることができました。


表面上はどこか冷たい印象を与える彼女ですが、心の中では主人公を思う気持ちでいっぱいです!!!

そんなミステリアスで美しい天才変態技師の彼女の今後の活躍を、どうか期待していてください!!!

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