1-48 刻印媒体
宮廷馬車が再び動き出すと、車輪の音が一定のリズムを取り戻した。
窓の外では蒸気管の白い吐息が朝日に溶け、軒に連なる看板の金具が控えめに光っている。
整った街の顔。それがかえって視線を際立たせていた。
ノアは向かいの席で膝の上に書類束を揃え直している。表情も呼吸も乱れない。ただ指先だけが速い。頭の中で段取りを組み直しているのだろう。
「クローヴ殿。先ほどの『監査代行』の件ですが」
「聞いている」
アシュレイが短く返すと、ノアはそれ以上感情を混ぜない。彼らしい慎重さで言葉を整えた。
「はい。
あの印章が現場に出ている以上、相手は“規則”と“監査の立場”を使って動きます。ですので、宿の移動は正解です。――ただし、安心はできません」
リュカが窓の隙間から外を見て、ぼそっと言った。
「”できない”ばっかり」
「不安を増やしたいわけではありません。
『今は安全だ』と言って油断する方が危険です、リュカ殿」
「……まじめだね」
「仕事ですから」
ノアは淡々と返すが目だけは少し柔らかい。
リュカはその目を見て、わずかに気を落ち着けたようだった。
馬車は中心区画を離れ、宿屋が集まる通りへ入った。表通りほど磨かれてはいないが、客を迎えるための装いは保たれている。朝の仕込み中なのか、パンの香りと煮出した香草の匂いが漂っていた。
目的の宿は石造りの二階建てだった。正面は素朴だが、建物の側面に中庭と厩舎が付く。外から厩舎へ直接入れない構造で、いったん宿の敷地内を通らなければならない。守るための造りだ。
門が開き、馬車が中へ入る。
敷地内に入った瞬間、通りの視線が一段弱まった。完全に消えたわけではない。だが、少なくとも見物人は入ってこれない。
ノアが窓越しに外を確認し、護衛へ指示した。
「厩舎の鍵は二重に。外鍵の管理は宿ではなく護衛が持つこと。
出入りの記録も取ってください」
護衛が頷き、手短に返事をする。
宿の主人が出迎えに現れ、急に畏まった姿勢で頭を下げた。
「ノア様、ようこそ。お部屋はすでに――」
「説明は後で。まずは厩舎を。
キャリッジが到着するまで、扉は閉めないでください」
ノアが言うと、主人は「承知しました」と慌てて従った。
馬車が止まり、扉が開く。
アシュレイが先に降り、敷地内の空気を吸った。通りの匂いが減った代わりに、干し草と木材の良い匂いがする。落ち着く匂いだ。理屈ではなく、身体が先にそう判断した。
リュカが降りて、きょろきょろと中庭を見回す。
「ここに、キャリちゃん来るの?」
「来る。……それまでじっとしてろ」
「動かないよ。……でも見たい」
「なら、ここで待て」
リュカは頷いて、石畳の上で小さく足踏みして待機の姿勢を取った。
“動かない”という意思を、ちゃんと自分の行動に落とし込めている。それだけで今は十分だ。
ノアはアシュレイへ向き直る。ノアの表情は少しだけ硬い。
「クローヴ殿。こちらで一度、状況を整理させてください。
宿の門番、規則帳面、偽の印章。そして監査代行。……この線を、公の書類で繋げます」
「任せる」
アシュレイは即答した。
任せると言うのは簡単だが、胸の奥は少し複雑だった。自分の手で守ってきたものを他人に預ける感覚が付きまとう。
それを見抜いたのか、ノアが言葉を添えた。
「クローヴ殿がされてきたことは評価されるべきです。
私がやるのは、ただの紙同士の戦いです。クローヴ殿がやるべきことは、また別にあります」
「虚線か」
「はい。
だから、クローヴ殿は――焦らず、体力を温存してください」
敬語の中に珍しく命令に近い響きが混ざった。
アシュレイは反射的に言い返しそうになり、飲み込んだ。ここで反発するのは幼い子どもだ。理屈で考えれば彼の言ったことはすべて正しい。
「……分かった」
ノアが安堵したように目を伏せる。
その仕草が一瞬だけ後輩の顔に戻り、すぐに宮廷のそれへと戻った。
その時、厩舎の外側から車輪の音が近づいた。
護衛の一人が門へ走り、確認の声を上げる。
「到着です。機械仕掛けの――」
アシュレイの胸がわずかに軽くなる。
キャリッジが足として無事に戻れば、次の一手が打てる。
門が開き敷地内へ入ってきたのは、幌をかけたキャリッジだった。
蒸気機構の継ぎ目が朝日に鈍く光り、車輪の金具がカチリと鳴る。
護衛が左右に付き、厩舎へ誘導する。
リュカが抑えきれずに声を上げた。
「キャリちゃーん!」
次の瞬間、ハッとして自分の口を押さえる。大声は嫌でも目立つ。
だがもう遅い。中庭の端にいた宿の下働きが振り向き、護衛も一瞬だけ視線を向けた。
アシュレイは叱る代わりに、落ち着いた声で言った。
「声を抑えろ。嬉しいのは分かる」
「……うん。ごめん」
「次に同じことをしなければいい。できるか」
「できる」
リュカは真剣に頷いた。
その表情を見て、ノアが小さく微笑んだ。
「いいですね。……リュカ殿は学びが速い」
「えへ」
リュカが照れた瞬間、厩舎前の護衛が手を上げた。
「ノア様。キャリッジの錠前に、昨日と同じ種類の“当たり”が見えます」
空気がすっと冷える。
アシュレイは厩舎へ歩き、護衛の示す箇所を覗き込んだ。
錠前の縁にわずかな擦れがある。工具を当てた痕。
完全には壊されていない。だが、癖を読むための不自然な擦れ方だ。昨夜の宿と同じ。
「……移動中に触られたか」
ノアが低い声で言う。
「その可能性が高いです。護衛が付いていても、街中では距離が出ます。
それに、相手は破壊ではなく情報を取りに来ています」
リュカが不安そうにキャリッジの影に手を伸ばしかけて止めた。
「……キャリちゃん、だいじょうぶ?」
アシュレイは答えなかった。
大丈夫だと言いたい。だが痕跡がある以上、何かが仕込まれている可能性もある。嘘で安心させるのは危険だ。
「今から確かめる。触るな」
「うん……」
アシュレイは鞄から小さな布を出し、錠前の周囲を軽く拭った。次に、指先ではなく、細い針金の先で鍵穴の内側をそっと探る。
異物があれば、何かしらの引っかかりが出るはずだ。
かかった。
ほんの微細な、薄い金属片。
針金の先で掬い上げると、紙片ほどの薄さの金属箔が出てきた。歯車の刻みのような微細な模様がある。
ノアが顔色を変える。
「……追跡用の刻印媒体です。この都市でよく使われます。
位置を“共鳴”で取るタイプですね」
説明が具体的でアシュレイにもすぐ分かった。
相手はこちらを探すのに“足”を使わない。術式で追うつもりらしい。
「つまり、宿を変えても意味がないか」
「薄くはなります。ですが無意味ではありません。
媒体が反応する場所と、しない場所があります。敷地内は比較的遮断しやすい」
ノアは護衛へ即座に指示を飛ばした。
「厩舎の扉を閉め、封鎖刻印を二重に。宿の者の出入りは記録。
それと、これを保全します。――クローヴ殿、よろしいですか」
ノアは金属箔を指した。
アシュレイは頷いた。
「ああ。だが写しは残してくれ」
「はい。後で必ず」
ノアが丁寧に金属箔を回収し、封筒へ封じる。慎重な手つきだ。
公の書類に乗せるための手つき。
リュカが唇を噛み、アシュレイの袖を引いた。
「……ねえ。これ、やばい?」
アシュレイはしゃがんで、リュカの目線に合わせた。
抽象ではなく、彼女が分かる言葉で言う。
「やばい。
でも、やばいのは“相手がこちらを見つける手を持ってる”ってことだけだ。
こっちはすでにその手を掴んだ。だから相手より一つだけ前に進んだ」
リュカは目を丸くして、それからゆっくり頷く。
「……そっか。なら、いい」
「次は”誰が仕込んだか”だ」
ノアが静かに付け加える。
「クローヴ殿。これで監査代行の印章と同じ線に、追跡媒体が乗りました。
……相手はもう隠す気がありません」
アシュレイは立ち上がり、厩舎の閉まる音を聞いた。
鍵が二重に掛かる。金属が噛み合う音が妙に心強い。
「向こうがその気なら、こちらも隠さない。
――ノア、照会を飛ばせ」
「承知しました、クローヴ殿」
ノアは一礼し踵を返した。
護衛と文官がそれに続く。公がいよいよ本格的に動き始める。
中庭に残ったのはアシュレイとリュカだけだった。
朝の光の中で、リュカが小さく言う。
「ねえ、アシュレイ」
リュカが改まって名で呼ぶ時、だいたいは甘えか、覚悟を決めたときだ。
今日は後者の響きだった。
「どうした」
「……わたし、いつも横にいるでしょ?
でも、それだけじゃ、だめな気がしてきた」
アシュレイはすぐに否定しなかった。
その言葉が、彼女の本心から出ていると分かったからだ。
「だめじゃない。
それに――傍でも、やれることはある」
「あるの?」
「ある。先ずは、焦らないこと。次に、よく見ることだ。
そして、違和感を言葉にする。お前にはそれができる」
リュカは少し驚いた顔をして、すぐに頷いた。
「……見えるよ。違和感もわかる」
「それで十分だ」
遠くで街の蒸気管が鳴った。
都市の心臓がいつも通りに動いている音。
だがその心臓の裏側で、虚線は確実に伸びている。
次の一手は明確だった。
追跡媒体の出所を突き止め、監査代行の実体を暴く。
そして――回収役が必ず出入りする”吐き口”の大元。
アシュレイは鞄の留め具を確かめ、息を整えた。
この街は容赦なく制度を使う。刻印を使い追ってくる。
ならこちらは着実に証拠を集め、理屈で掴む。
リュカが小さく言った。
「もう行く?」
「ああ。……ただし今日は急がない。
焦れば相手の土俵に乗せられる。こちらのペースで歩き、相手に手続きを強いる」
「わかった。ゆっくり歩こうね」
二人は宿の玄関へと向かった。




