1-47 宿替え
宮廷詰所の門を出た瞬間、空気が変わった。
レヴァル・アーシェの表通りの匂い――整えられた石畳、蒸気の湿気、香草の香り――それ自体は同じなのに視線の質が変わる。
敬意の目、警戒の目、そして――敵意を隠した目。
ノアは先に立ち、文官と護衛へ端的に指示を飛ばしていく。言葉は少ないがよく通る。宮廷の現場言語だ。
「馬車は二台。荷は分散します。
クローヴ殿の鞄は私の馬車へ。
キャリッジは先に護衛を回して厩舎へ移動させます」
アシュレイが眉を動かす。
「俺の鞄をお前の馬車に?」
「はい。
公名義の積み荷として扱えば、手を出しにくくなります」
リュカが素直に言った。
「ノア、守ってるね」
「守るのが仕事です。……そして、仕事でなければ、なお守ります」
ノアはそれを躊躇いなく言った。
護衛の一人が咳払いする。
アシュレイは返す言葉を探し、結局いつもの逃げ道に落とす。
「仕事にしておけ」
「承知しました、クローヴ殿」
馬車列は短い。
宮廷紋の入った小型馬車が一台、護衛が前後に二人。
もう一台は荷運び用の簡素な馬車。
目立ちすぎない。だが見られることが前提の移動だ。
リュカは馬車に乗る前、通りの端で首を傾げた。
「キャリちゃん、置いてくの?」
「先に動かす。こちらが見られてる間に別の手で移す」
アシュレイが言うと、リュカは唇を尖らせた。
「キャリちゃん、ひとりになっちゃう……」
「ひとりじゃない。護衛が付く」
「護衛、大丈夫かな?」
「大丈夫でなくては困る。キャリッジは俺たちの足だ。折られた時点で詰む」
リュカはしぶしぶ頷く。
「……信じる」
アシュレイとリュカが宮廷馬車に乗り込むと、ノアも同じ馬車の向かいに腰を下ろした。
座り方が綺麗だ。背筋がまっすぐで、無駄な動きがない。
扉が閉まる直前、ノアが低い声で言う。
「クローヴ殿。移動中、可能なら余計な動きは避けてください」
「追尾対策か」
「はい。
尾が付いているのは分かっております。
ですが、こちらも見せておきたいのです」
アシュレイは小さく息を吐いた。
「見せたい?」
「宮廷が動いた、という事実を。
相手に『揉み消すなら、上を巻き込むぞ』と伝えるために」
脅しではない。
制度側の言語での牽制だ。
馬車が動き出す。
石畳の上で車輪が鳴る。規則正しい振動が足裏に伝わる。
窓の外に人の流れ。
店先の反射。
肩越しの視線。
追手は二つ、三つ。
だが、その視線の動きが鈍り始めた。宮廷護衛が目を光らせているからだ。
リュカは窓の隙間から外を見て囁く。
「見られてるね」
「そうだな」
「でも、ちょっと、いい」
アシュレイが眉を上げる。
「いいのか?」
「だって、見られてるのに、堂々としていられる」
その言い方が妙に頼もしい。
幼い身体で言うからこそ、余計に。
ノアが小さく笑った。
「素晴らしいです、リュカ殿。
堂々とした顔は相手の手を鈍らせます」
リュカは得意げに胸を張り、すぐにアシュレイへ戻る。
「ねえ、アシュレイ。
ノア、いつも丁寧で、えらい」
「……ああ」
「光栄です」
会話の温度が移動の緊張を少しだけほどく。
だが、そうしたところに針を刺しに来るのがこの街だ。
馬車が一区画を越えたところで、急に速度が落ちた。
前方で人だかりができている。
誰かが道を塞いだのではない。自然に群れている。それが仕方なく道を狭めている。
護衛の一人が窓へ近づき、小声で報告する。
「ノア様。前方、区画監査の巡回とぶつかります」
ノアの目が冷たくなる。
瞳の奥で刃が立つ。
「……想定より早いですね」
アシュレイが低く言った。
「来たな。制度の殴り合いが」
「はい。
ですが、こちらは公の馬車です。
止めるなら、相手は正当な理由を言わねばならない」
ノアは馬車の扉へ手を掛けた。
護衛が止めようとするが、彼は首を振る。
「私が出ます」
「危険です」
「それでも、ここで引けばこちらが弱く見える。
クローヴ殿、しばしここで待機を」
言葉の形が命令ではなく責任の所在を示す。
リュカが不安げに言う。
「ノア、こわい?」
ノアは微笑んだ。
「怖くありません。
……怖いのは、クローヴ殿が倒れる方です」
「倒れない」
アシュレイが言うと、リュカが即座に返す。
「倒れる!」
「……口を挟むな」
「挟むよ!」
ノアが笑いそうになって、すぐに真顔に戻った。
「では、行ってきます」
扉が開き、朝の光が差し込む。
ノアが降りる。
外から声が聞こえる。
丁寧な声。制度の声。
「宮廷魔法師殿。巡回のため、通行を一時――」
ノアの声が静かに返る。
「一時停止の根拠を。
そして、誰の印章で動いているのか示してください」
相手の声が詰まる。
言葉の強さが違う。
ノアは特別な刃を振り回しているのではない。
紙の刃を相手の喉元にそっと置いているだけだ。
馬車の中でアシュレイは鞄の位置を確かめた。
証拠は今ノアの名義で保全されている。
それが最も合理的であり、同時に少しだけ腹立たしい。
自分の手で守れないことが悔しい。
だがその悔しさは燃料になる。次の線を伸ばす力になる。
リュカが小さく囁いた。
「ねえ、アシュレイ。
ノア、かっこいいね」
「……そうだな」
認めるのが悔しくて、声が少しだけ低くなった。
リュカがくすっと笑う。
「しっと?」
「違う」
「うそ」
その瞬間、外の空気が変わった。
言葉が増えた。人が増えた。
ノアが戻ってくる足音。
扉が開き、ノアが乗り込む。涼し気な表情。だが目の奥が少しだけ熱い。
「クローヴ殿。
……相手は『監査補』ではなく、『監査代行』を名乗りました」
「代行か」
「はい。
そして印章は――歯車と鎖。歯が一本多い。鎖輪が一つ多い」
アシュレイの背が冷える。
「同じ印か」
「同じです。
――つまり、門番の規則帳面と監査の動きが繋がりました」
ノアは短く息を吐き、そのまま言った。
「クローヴ殿。
この街は制度の下で裏が動いています。
だからこそ私が表側から当たります。
クローヴ殿は……虚線の先をお願いします」
頼む、という言葉が敬語の檻の中に隠れている。
アシュレイは頷いた。
「分かった。行くぞ」
馬車が再び動き出す。
見られる移動は続く。
だが今、相手の線とこちらの線が同じ紙の上に並んだ。
虚線はもう“ただの噂”ではない。
制度の印章という形で意味を持ち始めている。




