1-46 技術監修
応接室の空気が、ひと息ぶんだけ緩んだ。
机上に並ぶ布包みと記録板、印章の簡略図――それらが言葉より先に状況を語っている。
ノア・シルエルは短くまとめた艶のある黒髪を指先で一度押さえ、姿勢を正した。宮廷魔法師としての顔に戻る切り替えの所作だ。年下の後輩らしい几帳面さがそこに出る。
「クローヴ殿。まず確認ですが、私は今、アルケディア宮廷の所属のまま、レヴァル・アーシェへ“技術監修”として駐在しております」
丁寧な敬語。呼び方はきっちり「クローヴ殿」。
アシュレイは妙な安心と同時に、少しのやりにくさを覚えた。昔からこの男は、敬意を包み隠さず言葉にする。
「駐在、か」
「はい。封印媒体の出納と、蒸気設備に混じる刻印運用――事故が起きれば都市間協定まで揺れます。宮廷としても放置できません」
ノアは淡々と説明しながら、机の上の記録板に視線を落とす。
「……そして、これは“事故”ではなく、意図的な運用ですね」
「そうだ」
アシュレイが短く頷くと、ノアは一枚の宮廷用紙を引き寄せ、羽根ペンを取った。指先が綺麗だ。魔術実技側の人間の指だが、紙仕事にも慣れている。
「今から照会を飛ばします。
倉庫区画の封印媒体の出納、監査補の配置記録、宿の規則改定に関わった監査印――それぞれ、正規ルートで照合します」
リュカが椅子の上で背伸びし、ノアを覗き込む。
「ノア、えらい」
「ありがとうございます。……ですが、これは普通のことを、普通にやっているだけです」
そう言ってから、ノアは一瞬だけ口を噤んだ。
それができない街の匂いを彼も嗅いでいる。
アシュレイは、ここで一つだけ釘を刺す必要があった。
公の書類は強い。だがそのぶん、相手も同じ手段で殴り返してくる。
「照会を飛ばした瞬間、相手も動く」
「承知しております。なので――こちらが先に動きます」
ノアは顔を上げた。髪は揺れないまま、首筋だけがわずかに動く。緊張の表れだ。
「クローヴ殿。宿を移してください。……あの門番が匂います」
「同意だ。キャリッジも移す」
ノアは頷き、手を打ち文官に合図を送った。文官は扉の外で待っていたのだろう、すぐに入ってくる。
「手配を。中庭付きの厩舎がある宿。外部者の立ち入りを制限できる場所。
名義は私、ノア・シルエル。急ぎで」
文官が頭を下げ、去る。
ノアは机に戻り声を落とした。
「……ひとつ、率直に申し上げます」
「なんだ」
「お身体の具合が、良くないですね」
アシュレイの眉が動く。誤魔化しようがない指摘だった。
《クロノス》の負荷は、隠しても呼吸に出る。
リュカが間髪入れず言った。
「これで倒れないって言ってる。絶対倒れるよ」
「……もう言うな」
「言う。だって、倒れたらやだもん」
ノアは一瞬だけ目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。年相応の顔が出る。
「……リュカ殿、ありがとうございます。助かります」
「えへ」
リュカは単純に照れる。
アシュレイはその光景に助けられつつ、話を進めた。
「俺は倒れない。だが……最低限の対策はするつもりだ」
ノアの表情がはっきりと安堵に変わる。
その感情が露骨すぎて、アシュレイは視線を逸らしかけ、堪えた。
「ありがとうございます、クローヴ殿。では、こちらを」
ノアは棚から小さな革袋を取り出し、机に置いた。中身は薬包のような薄い包みと、銀の留め具が付いた短い帯。
「回復用ではなく、負荷を散らす薬です。
亜空間系の反動は、痛みとして一点に集まると危険になります。しかし散らせば少しは誤魔化せます」
「……器用だな」
「クローヴ殿が器用ではないぶん、私が器用である必要があります」
さらりと、嫌味にならない言い方で言う。
年下のくせに口が回る。昔と同じだ。
リュカが腕を組んでうなずく。
「ノア、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしていないと、宮廷魔法師は務まりません」
ノアが笑い、すぐに真顔へ戻る。
「次です。倉庫の“吐き口”に関して――クローヴ殿は、回収役を掴むおつもりですね」
「ああ」
「危険です。ですが、必要なのも理解しています。
そこで提案があります」
ノアは机上の紙を一枚だけ引き寄せ、さらさらと短く線を書いた。
地図ではない。動線だ。人の動きの線。
「クローヴ殿が表で動き、私は公で足を止めます。そして――裏側は別の者に任せます」
アシュレイは言葉に出さずに理解した。
別の”――リュドラ、そしてリゼットが残した仕込み。
だが、ここで問題が出る。
アシュレイはそれを「知っている」ことにしてはいけない。
「……別の者、か」
ノアはその曖昧さを汲み取ったように、すぐに言い換えた。
「失礼しました。
私の方で別の手を回します。クローヴ殿は気にしないでください。
知らない方が安全なこともあります」
その言い方でアシュレイの中の引っかかりがほどけた。
そうだ。知りすぎると、相手に突かれた時に言葉が歪む。
理詰めの男ほど、僅かな言葉の歪みで破綻する。
「分かった。気にしない。……ただし、俺の目的の邪魔はするな」
「致しません。むしろ支えます。
――クローヴ殿が“今”を選べるように」
ノアはそこで一瞬だけ言葉を止めた。
踏み込みすぎたと自覚した顔だ。
年下の後輩のくせに、核心を刺すのがうまい。
リュカが小さく、しかし明るく言った。
「ノア、いいこと言った」
「ありがとうございます……リュカ殿」
文官が戻ってきた。息が少しだけ上がっている。
手配が早い。
「ノア様。宿と厩舎、確保しました。移動は馬車二台、護衛も付けられます」
「よろしい。すぐに動きます」
ノアは立ち上がり、髪をきちんと整え、宮廷魔法師の顔で扉へ向かった。
その後ろ姿は細いのに、まるで頼りない感じがしない。
公の盾としての重みがある。
アシュレイは布包みを鞄へ戻しながら、ふと問うた。
「……ノア。俺がここに来ることは、想定していたのか」
ノアの肩がごく僅かに揺れた。
答え方を選んだ揺れだ。
「……いえ、確信はありませんでした。
ただ、クローヴ殿なら公に通じる窓口を探す、と……思っていました」
それは情報ではなく観察から出た答えだ。
アシュレイの理屈に矛盾しない。
「そうか」
「はい。……来てくださって、正直――安心しました」
アシュレイは返事を短くした。
「動くぞ」
「はい、クローヴ殿」
リュカがアシュレイの袖を掴む。
「私もいる」
「ああ」
こうして三人は宮廷の門を出た。
表の街へ戻る。この先、視線はさらに増えるだろう。
けれど今は、増えた視線の上に頼もしい公の名が乗っている。




