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1-42 規則文書

 夜が明ける前に、アシュレイは一度だけ浅く目を閉じた。

 眠ったというより意識を沈めた。そうでもしないと身体が保たない。

 《クロノス》の負荷は短時間で生命力を削る。削られた分を埋めるには休息がいる。


 隣の寝台ではリュカが機械のように静かに眠っている。

 胸の上下はほとんど見えない。人の眠りではない。

 だからこそ、彼女が目を開けた瞬間が“朝”になる。


 薄い光がカーテンの隙間から落ちた頃、リュカの瞼が動いた。


「……あれ。朝?」


「朝だ」


「起きてた?」


「……ああ」


「寝てないの?」


「寝た。少しだけ」


 リュカは眉を寄せ、枕の端を掴んだ。


「少しだけって、だめだよ」


「だが見張りは必要だ」


 リュカは言い返そうとして、喉の奥で止めた。

 代わりに寝台から降り、アシュレイの鎖帷子を見た。


「今日は……戦わない?」


「戦わない。戦う必要がない形にする」


「どうするの?」


「紙だ」


 アシュレイは鞄を開き、布で包んだ針金道具を確認し、また沈めた。

 これを見せる相手は選ぶ。最初に見せるのは制度の外――リゼットだ。


 そして次に必要なのが、宿の門番の“規則文書”。

 門番が追うなと止めた根拠。

 それが本当に宿の規則なら、書類があるはずだ。

 なければ、門番は自分の都合で止めたことになる。


 アシュレイとリュカが階段を下りると、朝の宿は静かに動いていた。

 湯気、食器の音、足音。どれも小さく、整然としている。

 そういう場所ほど、異物は目立つ。


 門の近くで門番が立っていた。

 昨日と同じ丁寧な顔だ。

 だが目がこちらの手元と足元を短く測る。――荷物の量を見ている。


「おはようございます」


「おはよう。昨日言った規則文書を見せてくれ」


 アシュレイは挨拶と要求を同じ速度で言った。

 門番は一拍置いた。昨日「承知した」と言った以上、ここで拒否はできない。


「はい。こちらへ」


 門番は受付の裏手――事務机のある小部屋へ案内した。

 扉は半開きのまま。ここに密室は作らない。密室は言いがかりを生む。


 門番は棚から一冊の帳面を取り出し、開いた。

 紙は新しい。端が整っている。インクも濃い。

 そして、規則の文言が並んでいる。


「……こちらが宿の規則です。夜間の追跡は宿の者の安全のため禁止しております」


 アシュレイは文言に目を通しながら、同時に“紙の様子”を見る。

 規則は通常、時の積み重なりで汚れる。

 ページの端が手垢で黒ずむ。差し込みの紙片が挟まる。書き足しの痕がある。

 だがこの帳面は綺麗すぎる。この規則は最近整えられた可能性がある。


 アシュレイは指でページの下部――日付欄を示した。


「この規則、いつ制定された」


「……数年前からございます」


「数年前なら、制定日と改定日があるはずだ。ここには“昨月”の改定とある」


 門番の目が僅かに動く。

 アシュレイはさらに続けた。


「昨月の改定理由は」


「……夜間の不審者が増えましたので」


「増えたなら逆に追う必要が増えるはずだ。『追うな』は矛盾している」


 門番は口元を引き締めた。

 丁寧な顔を維持しながら、内側では苛立っている。


 リュカが横で小さく言った。


「アシュレイ、理屈いっぱい」


「それが必要な相手だ」


 アシュレイは帳面の紙質を確かめるように、ページの角を軽く持ち上げた。

 紙が薄い。薄いほど、書き写しが効く。

 つまり証拠の複製になる。


「これの写しを取らせてもらう」


 門番が一瞬だけ眉を動かす。


「……写しは、お断りしております。宿の内部規則ですので」


 アシュレイは淡々と返す。


「断る根拠は」


「内部規則は外部に出せません」


「規則が外部に出せないなら、『規則だから追うな』は外部に対する命令にならない。

 昨日止めたのは“宿の者”ではなく“見回り”だ。見回りは宿の者か?」


 門番が口を噤む。

 噤んだ時点で勝負はつきかけている。

 彼は嘘の形を維持できなくなっている。


 アシュレイは追い込まない。追い込むと相手は逆上する。

 必要なのは紙を取ること。

 だから次の手は制度の言葉ではなく、柔軟な商人の言葉を選ぶ。


「……いい。写しが無理なら、該当箇所だけ口頭で読み上げろ。

 俺がこちらでメモする」


 門番は安堵したように見せ、頷いた。


「承知しました。該当箇所はこちらです」


 門番が読み上げる。

 夜間追跡禁止。危険回避。宿の安全。

 文言はそれらしく整っている。整いすぎている。

 現場の規則はもっと泥臭い。実務の言葉が混ざる。

 この文言は、“誰かが外向けに作った”文だ。


 アシュレイはメモを取りながら、別の一点を確認した。

 署名欄。規則の改定に関わった者の署名。

 そこには――宿主の署名ではなく、見知らぬ印章が押されていた。


 歯車と鎖。

 市の管理刻印に似た印だ。

 だが、歯車の歯が一本多い。鎖の輪が一つ多い。


(……偽造か、あるいは“内部の別部署”の印)


 アシュレイはその印を頭に焼き付け、メモの端に形を簡単に描いた。

 描くことで記憶が固定される。

 後で薬剤を当てれば、同じ虚線が浮く可能性がある。


 門番が読み上げ終え、帳面を閉じようとした。

 アシュレイがすかさず言う。


「昨夜の見回り記録も見せてくれ。人影を見た時刻と、止めた理由が書いてあるはずだ」


 門番の顔色がほんの僅かに変わった。


「……見回り記録は、担当が管理しますので」


「担当は誰だ」


「……本日は休みでして」


「都合がいいな」


 門番が眉を動かす。

 その瞬間、受付の方で係が呼んだ。


「門番さん、客室から苦情です。物音がした、と」


 門番が一瞬だけこちらを見て、すぐ丁寧に頭を下げた。


「失礼します。後ほど――」


「後でもいい。

 俺たちは出る。だが必ず戻ってくる。

 その時までに見回り記録を用意しておけ」


 アシュレイは言い切った。

 ここは一旦離れる。だが逃げはしない。

 逃げない者は相手の手を引きやすい。そうすれば尻尾が見える。


 事務小部屋を出ると、リュカが小声で言った。


「門番、なんか嫌な人」


「嫌な人というより、都合で動く人間だ」


「都合の人?」


「誰かの都合で動く人間のことだ」


 リュカは納得したように頷いた。


「じゃあ、敵?」


「敵の可能性が高い。だが断定するのはまだ早い。

 決め付けるとこちらの手が限定される」


 アシュレイは宿の外へ出て、朝の街の空気を吸った。

 レヴァル・アーシェの表の顔は今日も整っている。

 だが、宿の規則帳面に押された歯車と鎖の印は、その裏に別の歯車が噛んでいることを示していた。


 次にやるべきは、二つ。


 一つ。レムへ門番の規則帳面の印の形を伝える。

 そして制度の中で照合させる。

 もう一つ。リゼットへ針金道具と反射の写しを渡す。

 制度の外へ証拠を分散させる。


 リュカが袖を掴む。


「横にいるからね」


「ああ。頼む」


 アシュレイは頷き、街の流れへ歩き出した。

 今日の昼は紙面での戦いになる。

 そしてその戦いは、刃物より静かに人を殺す。


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