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1-41 鎖の音

 金属の小さな音は二度続いた。

 一度目は何かが触れた音。二度目は明らかに確かめる音だ。錠前の癖を探る時に出る、乾いた短音。


 アシュレイは灯りを落としたまま窓辺へ寄り、カーテンの隙間から中庭を見下ろした。

 宿の中庭は夜でも完全に暗くはない。柱灯の明かりが石畳に薄い楕円を作り、柵の影が格子のように伸びている。


 キャリッジは柵の内側、定位置にあった。

 幌の輪郭は暗がりに溶け気味だが、車輪の金具が灯りを拾っている。――その車輪の影に、ひとつ、動く影があった。


 人影は低い姿勢で錠前の辺りに片手を寄せている。

 動きは速くない。慎重で、音を立てない意図が見える。

 仕事として触っている手つきだ。


(……門番か? それとも係の声を使った奴か)


 アシュレイは《クロノス》へ手を伸ばさなかった。

 ここで使えば捕まえられる可能性は上がる。だが、捕まえた瞬間に騒ぎになり、宿が証拠の現場として使えなくなる。

 証拠品はまだ鞄の底にある。リュカは眠っている。今優先すべきは奪われないことだ。


 彼は窓枠に置いてあった小さな鏡を手に取った。

 祖父の工房にあった、魔道具の光点検に使う安物の鏡。

 鏡を少し傾け中庭の灯りを反射させ、錠前のあたりへ細い光を落とす。


 光は一瞬、錠前を照らし――すぐに消えた。

 人影が反射光を見て身を引いたのだ。動きが早い。

 そして、次の瞬間。


 上を見た。


 窓の方角ではない。

 中庭の柱灯の裏、宿の回廊にある影――見回りが通るはずの経路を見ている。

 つまり、侵入者は「見回りの動き」を把握している。


(宿の内側の人間が混じっている)


 アシュレイは決めた。

 この場で飛び出して追わない。代わりに表の目を増やして、相手の手口を止める。


 彼は部屋の扉へ戻り、椅子のつっかえを外す音を最小限にして廊下へ出た。

 廊下は薄暗く、夜番の足音が遠くにある。先ほどの「お茶」の声が偽装なら、夜番が本物の宿の人間である可能性は高い。だから、先ずは夜番に当たる。


「ちょっといいか」


 アシュレイは廊下を曲がった先にいる夜番へ小声で呼びかけた。

 夜番の男が驚いたように振り向く。目は眠そうだが、気配は仕事のそれだ。


「どうされました」


「中庭で鎖の音がした。見回りの予定は」


「今から一回回るところです。……何か?」


 アシュレイは必要以上に物を言わない。

「盗まれそう」「狙われている」と言えば、宿の中の誰かへ伝わる。すると騒ぎになる。だから事実だけを伝える。


「音が二回した。錠前の辺りだ。すぐに確認してほしい」


 夜番は頷き、短く笛を吹いた。

 遠くで別の夜番の返事が返る。二人体制。これなら相手は動きにくい。


 アシュレイは夜番の後ろ、灯りの影に立ち、廊下から中庭を見下ろした。

 人影はまだある。だがさっきより動きが鈍っている。

 見回りが来るのを待っているのではない。逃げ道の確認をしている。


 夜番が中庭へ降りる階段を下り始めた瞬間、人影が柵の外へ滑った。

 走らない。走れば目立つからだ。

 壁際に沿って、裏口の方へ――と見せかけて、途中で急に方向を変え、灯りの陰へ消える。


 そこは宿の門番が立つ場所に近い。


 夜番が錠前の前でしゃがみ、灯りを近づけて覗いた。


「……傷がありますね。新しい」


 アシュレイは冷たく言った。


「朝はなかった」


「これ、工具を当てています。……ただ、壊されてはいないですね」


「壊すのが目的ではない。癖を読むつもりだったんだろう」


 夜番が顔を上げる。


「お客様、鍵を変えましょうか。奥の柵へ――」


「いや変えない。位置もこのままだ。見回りだけ増やしてくれ」


 夜番は戸惑いながらも、仕事の顔で頷いた。


「分かりました。もう一人呼びます」


 その時、門の方で足音がした。

 門番がこちらへ歩いてくる。遅い。急ぐ様子がない。まるでその必要がないといった歩き方だ。


「どうされました」


 門番の声は丁寧だ。だが視線は錠前の傷へ、そしてアシュレイの顔へ、短く往復する。

 状況を把握している目。初めて知った目ではない。


 夜番が先に答えた。


「錠前に新しい傷が。確認中です」


「……それは困りますな。こちらも注意しておりましたが」


 門番はそう言い、すぐに結論へ誘導した。


「荷車――いえ、キャリッジを奥へ移しては? ここは外から手が届きやすい」


 アシュレイはその誘導に乗らなかった。

 移せば、相手に“次の位置”を渡すことになる。


「移さない。ここでいい。今夜は二人体制の見回りで足りる」


 門番の口元がわずかに引きつった。ほんの一瞬だ。

 だがアシュレイにはそれで十分だった。


 門番は丁寧さを保ったまま、視線を錠前へ落とす。


「……これは我々の不手際です。今後はより厳重にーー」


 言葉は正しい。

 だが“今後”と言った時点で、今夜の侵入を止める気が薄いのが透けて見える。


 夜番が立ち上がり、アシュレイへ低く言った。


「お客様、今夜は見回りを増やします。……何かあれば、直接私を呼んでください」


「助かる」


 アシュレイはそれだけ返し、門番を正面から見た。


「門番。昨夜、人影を見た件で、見回りを止めたと聞いた。なぜ止めた」


 門番は一拍間を置いた。

 答えを探したのではない。答えの形を整えるための間だ。


「あの状況で追うのは危険ですからね。宿の者が怪我をしてしまう。宿の規則として――」


「規則の文書はあるか」


「……ございます」


「明朝、見せてくれ」


 門番の目がほんのわずかに細くなった。

 拒否はできない。拒否すれば規則そのものが嘘になる。

 だから、門番は頭を下げた。


「承知しました」


 その丁寧さが、逆に“敵意を隠す動き”に見えた。


 アシュレイは夜番と共に回廊へ戻り、階段を上がった。

 部屋へ戻る前に一度だけ中庭を見下ろす。

 さっき消えた影はもう見えない。だがそれは「いなくなった」のではなく、ただ「見えない場所へ移った」だけだ。


 部屋へ戻り、椅子のつっかえを元に戻す。

 鞄の位置を足で確かめ、内ポケットの針金道具があることも確認する。


 寝台ではリュカが静かに眠っていた。

 眠りは深い。動かない。だからこそ、今守るべきものがはっきりする。


 アシュレイは窓を少しだけ開け、夜の空気を吸った。

 甘い匂いはしない。倉庫でも旧荷捌き場でもなく、ここは宿だ。

 だが、今夜は人の匂いが濃い。


(……明日、門番の規則文書に目を通す。夜番の見回り記録もだ。

 あとは、リゼットへ写しを回す手段か)


 制度の文書はいつでも制度の内に消える。

 だから紙の外にも残す。――それが、彼が長年の理屈で辿り着いた答えだった。


 廊下の奥で夜番の足音が二つに増える。

 見回りが始まった。

 相手は今夜、手を出しにくくなる。


 だがその代わり、次は”もっと綺麗な顔”で来る。

 押収。聴取。手続き。

 公の言葉でこちらの手足を縛りに来る。


 アシュレイは鞄の底に沈めた証拠を思い出しながら、静かに息を吐いた。

 今夜の些事ではっきりしたことが一つある。


 レヴァル・アーシェの虚線は、外から来た影だけでは動かない。

 安地だった宿の中にも、確かに手が入っている。


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