1-3 眠らない二人
夜の帳が降りきる前、工房の灯りはいつもより早く灯された。
淡い橙色の光が、油の染みた床と古い木製の棚を柔らかく照らし出す。
リュカは椅子の上で膝を抱え、揺れる灯りをじっと見ていた。
昼間の会話はまだ胸の奥に残っている。
言葉にならなかったものがまだ形を探している。
「もう寝るのか」
アシュレイが問いかける。
リュカは首を横に振った。
「眠くない」
「そうか」
眠らないのは習性ではなく状態だった。
彼女の『睡眠』は、休息ではなく停止を意味する。
完全な沈黙。完全な無防備。
その時間をアシュレイは未だ受け入れられずにいた。
工房の隅には簡素な寝台が置かれている。
そこに敷かれた真っ白な布は何度も洗われ、皺だらけになっている。
「今日は、寝なくてもいい?」
「眠らないのは良くない」
「でも、アシュレイが起きてるなら、大丈夫」
「関係ない」
「あるよ」
リュカは小さく笑った。
それは強がりではなく、ただの事実だった。
「アシュレイがそばにいると、止まっても怖くないんだよ」
アシュレイは言葉を返さなかった。
何か言えば、簡単に崩れてしまいそうだった。
しばらくして、リュカは寝台の方へ歩いていく。
布の端をそっと引き下ろし、横になる――ふりをした。
目を閉じ、息を潜める。
停止はしない。
今日は『眠ったふり』だった。
アシュレイは背を向けたまま、作業台に座り込む。
小さな歯車をひとつ指先で転がしながら、深く息を吐いた。
工房の静けさは、いつもより広く感じられた。
棚の隙間、工具の影、未整理の部品箱――
どこかに空気の抜けた穴があるような感覚。
しばらくして、リュカの声が布越しに届いた。
「アシュレイ」
「なんだ」
「明日も、同じ朝が来ると思う?」
「来る」
「そっか。じゃあ大丈夫だ」
即答だった。
意味も理由も分かっていないのに、安心してしまう言葉だった。
リュカは目を閉じたまま、もう一度だけ呟いた。
「アシュレイはさ、ちゃんと怖がっていいんだよ」
理解して言った言葉ではなかった。
けれど、それが一番届いていた。
アシュレイは手を止め、静かに目を伏せる。
「怖がっている暇がない」
「あるよ」
「ない」
「あるってば」
布の向こうで、くすりと笑う気配がした。
その笑いは、幼くて、軽くて、脆い。
それでも、確かに生きていた。
アシュレイは立ち上がり、寝台から少し離れた位置に椅子を置いた。
背もたれに体を預け、灯りをひとつだけ落とす。
昼間とは違う沈黙が工房を包む。
静かで、柔らかく、しかしどこか張り詰めた夜。
リュカは完全には眠らない。
アシュレイも目を閉じない。
ただ、二人は同じ空間で、同じ時間に止まっていた。
外では、蒸気搬送車の音が遠く流れていく。
裏通りの猫が屋根を渡り、どこかの家の水瓶が風に鳴った。
世界は普通に続いている。
工房だけが、わずかに取り残されていた。
針のずれた時計が、かちりと音を立てる。
その音が告げるのは、正確な時刻ではなかった。
まだ崩れてはいない。
けれど、もう戻らない。
アシュレイは目を閉じ、深く息を吸った。
かすかに油の匂いが残る工房の空気は、いつもと同じだった。
――なのに、違っていた。
夜は静かに、更けていった。
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