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 懐中時計の蓋が開いた瞬間、旧荷捌き場の音が引いた。

 耳の方に異常はない。音が遠くへ移動する。石を踏む足音も、男たちの息遣いも、排水路の水音も――膜の向こう側に押しやられたように薄くなる。


 代わりに、身体の内側が重くなる。

 胸が圧され、肘と膝の動きが鈍る。鎖帷子が皮膚に食い込む感触が普段より強く主張する。鎖は守りであり、同時に負荷でもある。


 ――三秒。


 アシュレイは頭の中で数を刻み、点検口へ踏み込んだ。


 蓋は完全には開いていない。だが隙間が十分ある。

 そこから漏れる匂いは甘く冷たい。鼻の奥に刺さり、喉の奥が冷える。

 隙間の向こうには、倉庫で見たのと同じ“薄い灰色の奥行き”があった。底が見えない穴ではない。空間が重なっている感じだ。


 アシュレイは点検口の縁に片手を置き、反対の手で鞄から細い麻縄を引き出した。

 旅に出てから常備している、荷の固定用の縄だ。いま必要なのは強度ではなく“通すこと”だ。


 縄の先に小さな金具を結びつけてある。

 重りの代わり。風に流されないための小さな工夫。


 《クロノス》の中では男たちの動きは遅い。

 遅いが止まってはいない。

 リュカが道具袋の男の腕を落とした瞬間が、薄い映像のように続いている。その横で、別の男が刃物を抜こうとする動きも見える。刃が鞘から半分ほど出たところで、時間が引き伸ばされている。


 アシュレイは迷わず、点検口の隙間へ縄の先を差し込んだ。

 差し込む瞬間、指先の感覚が軽くなる。

 縄が引っ張られる。下ではなく、奥へ。膜の向こうへ吸われるような力。


 ーー引くな。


 声は出ない。たとえ出ても届かない。だから心の中で命令する。


 縄を押し込む。それだけで吸い込む力が勝手に進めてくれる。

 一気に通すと、縄が切れるか、手が持っていかれる。

 アシュレイは指先で摩擦を作り、縄の滑りをわざと遅くした。


 縄が奥へ消える。

 ただの落下ではない。

 灰色の膜に飲まれて、境界の向こうへ移っている。


 アシュレイは縁の金具に縄を巻きつけ、結び目を作った。

 結びは簡単でいい。解けにくいと後で切る必要が出る。

 いま必要なのは「ここに繋がりがある」という証拠だ。


 ――一秒。


 次にやることは一つ。

 蓋の“開く方向”を固定する。


 彼は点検口の蝶番側へ手を伸ばし、薬剤で浮かせた虚線の途切れ――開く側――に、小さな金具の留め具を噛ませた。

 道具箱の中に入れていた簡易の留め具。荷の固定用だ。

 蓋が閉じようとしても、完全に密閉されない程度に噛ませる。


 これで入口が閉じても「隙間」が残る可能性がある。

 隙間が残れば、縄の結び目も残る可能性が上がる。


 ――二秒。


 アシュレイは最後に、点検口の縁の刻印を目に焼き付けた。

 歯車と鎖の市の刻印。その下に重なる虚線。

 制度の顔の下にある裏の手。


 そして、縄が引かれる感覚がある。

 奥で何かが動いている。

 人が引いているのではない。現象自体が引いている。だからこそ厄介だ。


 ――三秒。


 時計の針が跳ねた。

 音が戻る。旧荷捌き場の空気が一気に現実の重さを取り戻し、同時にアシュレイの身体も現実の重さを背負わされる。


「ぐ……っ」


 胃の奥が反転するような感覚。吐き気が喉まで上がり、アシュレイは歯を食いしばって堪えた。

 鎖帷子が胸を締め、心臓の音が耳の近くで鳴る。


 視界の端で点検口の蓋がきい、と持ち上がりかけていた。

 リュカが道具袋の男を止めたことで、男が蓋に触れられなかったのが効いている。

 だが現象そのものは続いている。隙間まだは生きている。


 アシュレイは叫んだ。


「レム! 縄だ! ここと繋がった!」


 レムが点検口へ視線を向け、息を呑む。

 点検口の縁に結ばれた麻縄。縄は確かに奥へ引かれている。引かれるたびに、縄が微かに震える。


「……おい、何だそれ……!」


 男たちの一人が気づき、点検口へ飛び込もうとした。


 リュカがその前に出た。

 小さな身体が床を滑るように移動する。

 足運びは静かだが、動きは鋭い。


「だめ!」


 リュカは男の膝横を蹴った。

 蹴りは角度で調節される。膝の関節が一瞬だけ噛み合わず、男の身体が崩れる。

 崩れたところへ次の一撃。肩口への短い打ち込み。男の腕が落ち、刃物が石床に鳴った。


 男が舌打ちし、別の男が叫ぶ。


「小娘が……!」


 リュカは相手を睨む。

 その瞳に迷いはない。だが怒りでもない。

 抑止のための目だ。


「わたし、止めるの得意だよ。あなたたち、動くの下手だね」


 煽りが入る。恐怖を会話に変える余裕がある。

 同時に、相手の冷静さを削るための言葉でもある。


 アシュレイは点検口の縄を掴み、引かれ具合を確かめた。

 力任せに引き戻さない。戻せば入口の向こう側を刺激する。

 ただ、繋がりの強さを測る。


 縄は確かに向こう側へ通っている。

 そして、一定の間隔で微かに引かれる。

 まるでその先で、誰かが縄に触れたように。


 ――回収役がいる。


 その結論が、現実の重さで胸に落ちた。


 レムが歯を食いしばる。


「……今、誰かいるのか。下に」


「いる可能性が高い。だが、こっちからは落ちるな」


 アシュレイが言い切った瞬間、点検口の隙間から、何かが吐き出された。


 赤い欠片。

 蝋ではない。染料でもない。

 布切れだ。深紅に染まった布の繊維が、湿ったまま、ひらりと石床に落ちた。


 匂いが強くなる。

 甘く冷たい匂いが一気に広がり、喉がひりつく。


 レムがその布へ手を伸ばしかけ、アシュレイが止めた。


「触るな。証拠は”汚さない”でおく」


 レムは手を止め、荒い息で頷いた。


「……じゃあ、どうする」


「布はそのまま。周囲を囲って、第三者に見せる。

 そして――」


 アシュレイは縄を見た。

 縄が、今度は明確に引かれた。

 向こう側で誰かが掴んだ。掴んで、こちらの縁の結び目を確かめている。


 男たちの一人が低い声で笑った。


「……やりすぎたな、お前ら」


 その言葉にアシュレイは即座に理解した。

 彼らは回収役ではない。回収役の前に立つ、目眩ましの役だ。

 ここで時間を稼ぎ、回収役が縄を切る準備をする。


 アシュレイは結論を選ぶ。

 《クロノス》は、残りの回数がある。

 しかし今ここで使うべきか。使うなら何を取るのか。


 答えは一つだった。


「リュカ。縄から離れろ。

 レム、紙と筆だ。今すぐここで記録を取れ。

 “赤い布が吐き出された時刻”と、“縄が引かれた回数”を」


 レムが目を見開く。


「ここで?」


「ここでだ。今この瞬間が証拠だ。逃がすな」


 レムは懐の帳面を出し、震える手でページを開いた。

 それは恐怖ではなく、怒りと興奮の混ざった震えだ。


 リュカはアシュレイの横へ戻った。

 袖を掴む。


「横だよ」


「ああ。横だ」


 男たちがじりじりと距離を詰めてくる。

 刃物が光る。だが致命的な踏み込みはまだだ。

 この手の連中は誰かを殺しに来ているわけではない。騒ぎを起こさず、証拠を消すために来ている。


 なら、こちらも目的は同じだ。

 騒ぎを起こさず、証拠を残す。


 点検口の縄が最後に一度だけ強く引かれた。

 結び目が軋む。金具が鳴る。


 ――切られる。


 アシュレイは《クロノス》に指をかけた。

 今度の三秒は、落ちるためではない。

 “切られる瞬間”を押さえるためだ。


「リュカ、目を閉じろ」


「……うん」


 リュカが瞼を閉じた。


 アシュレイは蓋を開けた。

 再び針が跳ね、世界が薄く途切れる。


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