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1-36 旧荷捌き場

 日が落ちる前、アシュレイは宿の中庭へもう一度降りた。

 キャリッジは所定の柵に繋がれたまま朝と同じ顔でそこにいる。だが朝に見つけた錠前の傷は光の角度を変えるとまだはっきり見えた。――触られた事実は消えない。


 彼はしゃがみ込み、錠前の周囲と石畳の継ぎ目を指先で触れずに確かめた。触れれば自分の痕跡が混ざる。見る、嗅ぐ、距離を測る。それだけで事足りる。


 石畳の隅に残っていた靴跡は昼の出入りでほとんど消えていた。

 だが完全には消えていない。柵の内側の影になった部分だけ踵の角が薄く残る。そこに付いていた深紅の欠片はもう見えない。宿の人間が掃いたのだろう。


 掃いたのが“善意”か“都合”かは分からない。

 分からない以上、前提にはしない。


「キャリちゃん、大丈夫?」


 リュカが幌に手を伸ばしかけ、アシュレイは短く言った。


「今は触るな。夜に戻ってからだ」


「……うん」


 リュカは手を引っ込め、代わりに幌の縫い目を目で追った。小さい身体のくせに視線の動きが鋭い。武術を学んだ者の見る目だ。


 部屋へ戻ると、アシュレイはすぐに準備を整えた。

 鎖帷子の留め具。薬剤の小瓶。写図室で得た配置図の控え。昨夜の記録の要点。

 そして《クロノス》は胸の位置から最短で掴めるところへ移した。使うなら迷わない場所に置く。迷いが命取りになるからだ。


 リュカは靴紐を結び直しながら顔を上げた。


「今夜は倉庫じゃないんだよね」


「外だ。旧荷捌き場。捌け口を押さえる」


「吐き口……やだ」


「捌け口――いや、その方が意味が通るか。気持ち悪いのは分かる。だがそれだけでは現象は追えなくなる」


 リュカは不満そうに眉を寄せ、けれど頷いた。


「……追う」


「もちろんだ。ただし無理はしない」


「横だね」


「ああ。横だ」


   *


 夜の外縁区画は昼より音が少ない。

 そのぶん音の分別がつけやすい。蒸気管の吐息、排水路の水音、遠くの荷車の軋み。人の声は減り、足音が際立つ。


 北倉庫区画の検問所は昼よりも目が鋭かった。

 管理員が二人、灯りの下で帳面を開いている。レム・クオードの通行札が提示され、アシュレイとリュカの名が記録される。正規の手順だ。こちらが正規の手順で動くほど裏側は動きにくい。


 だが、裏はなお手順の外側で待つ。


 旧荷捌き場へ向かう途中、リュカが小声で言った。


「……後ろ、いる」


 アシュレイは頷き、歩幅も呼吸も変えずに返す。


「二つ。遠いのが一つ、近いのが一つ。

 近い方は今日の昼からの目だ。遠い方は別口だ」


「別口って、裏の?」


「可能性が高い」


 旧荷捌き場は使われなくなった石造りの広場だった。

 かつて荷が積まれ、解かれ、振り分けられた場所。今は半分が封鎖され、残り半分が資材置き場として形だけ息をしている。

 灯りは少ない。石壁は湿っていて、空気に煤が混じる。


 そして匂いが交わる。

 油と木材の匂いの中に、昨夜の倉庫と同じ冷たい甘さが薄く混じっている。ここは余白にできた入口の先だ。


 レムが足を止め、低い声で言った。


「ここだ。北倉庫の外壁の向こう。

 ……排水路の点検口がある」


 石壁の根元に鉄の蓋が見えた。

 蓋の縁には管理局の刻印――歯車と鎖。だがその刻印の端がわずかに擦れている。最近触られた形跡だ。


 アシュレイは蓋に近づかず、距離を取ったまま周囲を見る。

 点検口へ降りる縄はない。代わりに壁際に古い梯子が立てかけてある。

 古い。けれど、古い割に最近動かした跡がある。梯子の足元の泥が新しい。


「……入口は倉庫の中じゃない。

 倉庫で落ちた荷はここに出る」


 アシュレイの結論をレムが噛みしめるように頷く。


「出た荷を拾う奴がいる、ってわけか」


「必ずいる。問題は、いつ落ちるか、だ」


 リュカが石床のひび割れを見て呟いた。


「……薄い。ここも」


 アシュレイは《クロノス》へ手を伸ばさない。まずは正しい手順だ。

 彼は薬剤の小瓶を取り出し、刷毛にほんの少しだけ含ませ、点検口の刻印の縁に直接触れないように近づけた。刷毛先だけが蓋の縁を撫でる。


 数秒。

 刻印の下に細い線が浮いた。途切れ途切れの線が蓋の縁をなぞるように円を描いている。

 そして、その円の途切れが蓋の蝶番側にあった。


「……開く方向を指定している」


 アシュレイが言うと、レムが息を呑んだ。


「蓋を開ける者が術式で”正しい方向に開いたか”監視するためか?」


「方向じゃない。

 “正しい瞬間”だ。蓋が開くのは、いつでもじゃない。入口が呼吸する時だけだ」


 その瞬間だった。


 排水路の水音が一拍だけ遠ざかった。

 倉庫で起きた空気が薄くなる現象と同じだ。空間が膜の向こうへ引かれる感じが足元から立ち上がる。


 リュカが息を浅くする。


「来る……」


 レムが反射で点検口へ近づこうとした。

 アシュレイが低い声で止める。


「動くな。近づけば引かれる」


 そして、遠い方の尾行の気配が濃くなった。

 壁の陰、資材の影。

 複数の足音が湿った石を踏む音がする。歩幅が揃っていない。訓練された動きではない。だが手慣れている。裏の人間の足音だ。


 レムが歯を食いしばる。


「……来たか」


 アシュレイは即座に判断した。

 ここで戦えば点検口の現象を見失う。

 だが近づかれれば、こちらが先に叩かれる。


 リュカが一歩前へ出る。

 その足取りは迷いがない。二十年間積み上げた武術の動きだ。


「アシュレイ。もう横じゃなくて……前、出ていい?」


 アシュレイは短く言った。


「出るな。――出るのは、止める時だけだ」


 リュカは悔しそうに唇を噛み、しかし頷いた。


 影から男が三人現れた。

 荷運びの格好に見せているが、手が綺麗すぎる。指先が厚くない。荷を持つ手ではなく、刃物か札を扱う手だ。

 そして一人だけ、腰に薄い金具袋をぶら下げている。封帯や蝋封を扱う道具袋の形だ。


「おい、そこの。ここは夜の旧荷捌き場だ。

 迷ったなら帰れ」


 先頭の男が言う。声は荒くない。脅し慣れた声だ。

 脅し慣れた者ほど、先に“正当な言い分”を置く。これが都市の裏の作法だ。


 レムが一歩前へ出ようとして、アシュレイが肩を押さえた。


「ここは俺が話す。レム、お前が出ると“公”になる。

 公になれば敵は逃げる。逃げられたら吐き口を押さえられない」


 レムは歯を食いしばり、頷いた。


 アシュレイは男たちへ淡々と言う。


「迷っていない。通行札もある。

 俺たちは市の区画内で正規の点検をしている」


「点検? 旅人が?」


「旅人だが、倉庫監督官代理の立会いだ」


 男たちの視線がレムへ滑る。

 レムが黙っていることで、逆に説得力が増す。本物の役人は余計な言葉を遣わない。


 男の一人が薄く笑った。


「……なら、点検は昼にしろ。夜は危ねえ」


「危ないから夜にやる。夜にしか起きない現象がある」


 その言い方で男たちの目が変わった。

 “知っている”と判断した目。

 次に来るのは脅しではなく、回収だ。


 点検口の周囲の空気がさらに薄くなる。

 水音が遠ざかり甘い匂いが濃くなる。蓋の縁の虚線が薬剤の残りの光を拾って、かすかに浮いて見える。


 アシュレイは《クロノス》へ指をかけた。

 まだ開かない。だが開ける準備をする。

 このままでは男たちに挟まれる。


 ――その時、点検口の蓋が鳴った。


 金属が軋んだのではない。

 蝶番の部分から軽い音がした。

 誰も触れていないのに、蓋がわずかに持ち上がる。持ち上がった隙間から、冷たく甘い匂いが一気に漏れた。


 男たちが反射で動く。

 道具袋の男が点検口へ走る。


 それを見てリュカが動いた。

 止めるために。”出るのは止める時だけ”――その約束どおりに。


 小さな身体が床を滑るように踏み込む。

 足音が軽い。だが踏み込みは重い。重心が低く、無駄がない。


「そこ、だめ!」


 リュカは男の手首を叩いた。叩くというより、関節の角度をずらす打ち方だ。

 男の腕が変な方向へ逸れ、道具袋が揺れる。中で金具が鳴る。


「ちっ……ガキが!」


 男が逆手で払おうとする。

 リュカは払わせない距離に入り、肩口へ短い突きを入れる。痛みで腕が落ちる。


 戦闘は一瞬で片が付いた。

 剣戟ではない。武術による抑止だ。

 殺しはしない。だが動けなくする。


 アシュレイはその間に点検口を見た。

 蓋の隙間はさらに開きかけている。下に灰色の奥が見える。倉庫の空白で見た奥行きと同じ色。

 そこへ何かが落ちる――いや、吸い込まれる。


 男たちの一人がリュカへ刃物を抜こうとした。

 その瞬間、アシュレイは決めた。


「リュカ、目を閉じろ!」


 リュカが反射で瞼を閉じる。

 アシュレイは《クロノス》の蓋を開いた。


 針が跳ねる。

 世界が薄く途切れる。


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