1-35 触れられた鎖
夜は短く、朝は容赦がない。
レヴァル・アーシェの朝は蒸気の白で始まる。整然とした吐息が街の角ごとに立ち上がり、昨日までの湿り気を押し出していく。旅人に見せる顔として、これ以上ないほど整った朝だった。
だが、整っているからこそ乱れは目立つ。
アシュレイは起きてすぐ窓を少しだけ開けて、外気を嗅いだ。
匂いは普通だ。煤と油と、薄い香料。甘さはない。
それでも胸の奥に残る冷えが消えない。昨夜の《クロノス》の負荷が、まだ身体の奥に張り付いている。
「……平気?」
リュカが寝台の端から覗き込む。
その目は、からかいよりも心配の色が強い。
「平気だ」
「疲れたって顔してる」
「そういう仕様だ」
「なにそれ……」
リュカは呆れたように笑い、すぐに表情を引き締めた。
「きょうも倉庫?」
「ああ。昼に行く。表のルートを通る。
そこで、あの薬剤を使う」
机の上には、昨夜リゼットから受け取った紙包みがある。
薄い薬剤の小瓶と、刷毛のような細い道具。匂いはほとんどしない。だが見た目が地味なほど危険なものは多い。
アシュレイはそれを懐に入れ、鎖帷子の留め具を確かめた。
昨夜は《クロノス》を使った。今日も使うとは限らないが、常に使う可能性がある体で動かなければならない。準備は飾りではなく前提であるべきだ。
部屋を出る前に、彼は一つだけ言った。
「中庭に降りる。キャリッジを確認する」
リュカが即座に頷く。
「キャリちゃん! 見に行く!」
中庭へ降りる階段の途中で宿の係とすれ違った。
係は昨夜よりも少し緊張した顔をしている。その硬さがすでに何かあったことを物語っている。
「おはようございます」
係が礼儀正しく頭を下げ、言いにくそうに続けた。
「……お客様、昨夜の中庭ですが。見回りが一度、外側の柵のあたりで人影を見まして」
アシュレイは足を止めず、声だけを落とした。
「誰だ」
「はっきりしません。逃げ足が速くて……ただ、見回りの者が追おうとしたら、門番が止めました。
『追うな、問題を増やすな』と」
門番。
宿の門番が見回りを止める。
それは何か“規則”のように聞こえるが、その規則でさえ、時々誰かの都合で作られる。
アシュレイは頷くだけで返し、リュカの肩へ軽く手を置いた。
「行こう」
「うん」
中庭に出ると、朝の光が石畳に落ち、昨夜の湿り気がまだ薄く残っている。
キャリッジは所定の柵に繋がれたまま――見た目は無事だった。
だが、無事に見えるものほど入念に確かめる必要がある。
アシュレイは番号札を確認し、鎖を見た。
鎖は切れていない。錠前も壊れていない。
しかし錠前の縁に、指先ほどの小さな傷がある。昨日はなかった傷だ。金属の角がわずかに削れている。
「……触られたな」
リュカがすぐにキャリッジへ近づこうとする。
アシュレイは腕を伸ばして止めた。
「まだ触るな」
「でも、キャリちゃんが……」
「触られた場所も“入口”になる可能性がある。
先ずは見る。触るのは最後だ」
アシュレイはしゃがみ込み、地面を見た。
石畳に残る足跡は朝の人通りでだいぶ薄れている。それでも、柵の内側の隅にまだ少しだけ残っていた。
靴底の跡が一つ。
浅い。だが、踵の形がはっきりしている。
そして――靴底跡の縁に、微量の赤い欠片が付着している。
深紅の蝋。金粉の混じった、あの色。
アシュレイは視線を上げ、宿の門を見た。
門番は遠くからこちらを見ている。目は逸らさない。だが近づいても来ない。
“見ているだけ”は監視の基本だ。
アシュレイは結論を短くまとめた。
「盗むつもりじゃないらしい。確かめに来たんだろう」
リュカが歯を噛む。
「やだ。キャリちゃん、見られたの?」
「ああ。しかも触られた。だが、こうして残っている」
「……守らなきゃ」
「そうだな」
アシュレイは鎖の錠前に手を触れ、傷の深さを指先で測った。
力任せにこじ開けようとした傷ではない。
細い工具で、錠前の癖を探ったような削れ方だ。錠前の仕組みを知っている者の手口。
宿の係が近くで気まずそうに立っている。
「……お客様、もしよろしければ、別の柵へ移しますか。奥の方が見回りが行き届きます」
「いや、移さない」
アシュレイは即答した。
移すと動線が読まれる。移した先が狙われる。
そして何より、移した事実は「こちらが恐れている」という情報になる。
「見回りだけ続けてくれ。昨日と同じ二人体制で」
「承知しました」
部屋へ戻る途中、リュカが小声で言った。
「ねえ、アシュレイ。あの門番、へんだよ」
「変だな」
「敵?」
「敵と決めるのは早い。だが味方とも言えない」
都市の顔は整っている。
その中に、誰かの歪んだ都合が混じっている。
*
昼前、二人は北倉庫へ向かった。
表通りは相変わらず賑わい、巡回が規則正しく歩く。
旅人が見れば治安の良い都市。規則があり、手順があり、秩序がある。
しかし外縁へ近づくにつれ、匂いが変わる。
煤と油に混じって、時折甘い匂いが流れてくる。
それは煙草の甘さではない。酒の甘さでもない。喉の奥に冷たく残る不快な甘さだ。
検問所では昨日と同じ手順で通行札を受け取った。
管理員の目が一瞬だけアシュレイの懐――薬剤の位置――を見た気がしたが、アシュレイは反応しない。見られてもいいものしか持ち込まない。表の手順で動くとは、そういうことだ。
北倉庫でレムと合流する。
レムは相変わらず顔色が悪かったが、目は冴えていた。
手には紙束。昨夜の記録の写しだろう。
「来たか」
「ああ。これを使う」
アシュレイは薬剤の包みを見せた。
レムが眉を寄せる。
「それは?」
「封を見分ける薬剤だ。術式反射を浮かせる。
――知人が寄越した」
レムの目が僅かに動いた。
驚きではない。納得に近い動きだ。つまり彼も薄々、アシュレイの背後に誰かいることを理解している。
「……やるなら早い方がいい。監査が来る前に」
「監査はいつだ」
「早ければ明日。遅くとも三日以内だ」
明日。
それは短い。
だが三日もあれば、裏が証拠を消すのに十分な猶予となるだろう。
倉庫内へ。
昼の倉庫に異常は見られない。昨夜のような異質な冷えはほとんどない。
入口は閉じている。息をひそめている。
アシュレイは空白の列の手前で止まり、薬剤の小瓶を開けた。
刷毛にほんの少しだけ液を含ませる。
匂いはほとんどない。だが液体は金属光沢のように薄く光った。
「どこに使う気だ?」
レムが問う。
「蝋封の金粉。封帯の印影。
それから――床の亀裂の金粉」
順番が重要だ。
封に触れてから床に触れると、こちらが汚染源になる。
床から封へ行けば、封が汚染されたと言いがかりを付けられる。
アシュレイは先ず、レムが保管していた蝋封の見本へ刷毛を当てた。
深紅の蝋の表面に薄い液が広がる。
数秒。
何も起きないように見えた――が、次の瞬間、金粉の部分だけが微かに浮く。
正確には金粉が光るのではない。
金粉の周囲に細い線が立ち上がる。糸のような線。途切れ途切れの線。
アシュレイは線を追い、口の中で結論を固めた。
「……術式だ。金粉は飾りじゃない。術式の媒体になっている」
レムが息を呑む。
「つまり、封そのものが……」
「入口を開閉する“鍵”になっている」
リュカが小さく言った。
「鍵がいっぱい……なんか、やだ」
アシュレイは頷き、次に封帯の印影へ薬剤を当てた。
紙の上の印影が同じように薄く浮き上がる。
だがこちらはさらに悪質だった。
正規の市章の線の下に、別の線が重なっている。
肉眼では見えない薄い線が薬剤で浮き出る。
途切れた線が市章の線に寄り添うように走り、最後に“円”を描く。
「二重印……」
レムが歯を食いしばる。
「市章の下に別の印がある。
これが監査の帳面を通る理由だ。
監査は市章しか見ない。だが実際には別の印が溶け込み、通路を作っている」
レムが拳を握りしめる。
ようやく形になった怒りだ。
「……外部顧問が、こんなことを」
「外部顧問だけで通る仕組みではない。
これを“正式”として採用した部署がある」
アシュレイは言い切った。
制度の中に手が入っている。
それが分かっただけでも対策の方向が決まってくる。
最後に床の亀裂。
空白の手前の柱の根元――昨夜見た場所へ、刷毛を当てた。
亀裂の中の金粉がふわりと浮き上がる。
線は短い。だが、確かに方向がある。
北倉庫の内部ではなく、倉庫の外壁の方へ伸びている。
アシュレイは視線を上げ、梁と壁の接合部を見た。
古い補修跡の裏に細い隙間がある。
そこへ線が続いている。
「……外へ繋がっている」
レムが目を見開く。
「外壁の向こうに、何がある」
アシュレイは配置図を思い出す。
北倉庫の外壁の向こうは、旧荷捌き場。
そしてその先は――排水路の管理区画と、封鎖された古い坑道。
理屈が一本の線になる。
「旧荷捌き場だ。そこから排水路へ落とし、さらに――古い坑道へ逃がす。
入口は倉庫内に見せかけて、実際は外側に捌け口がある」
リュカが眉を寄せる。
「なんか……気持ち悪いね」
「不正とはそういうものだ」
レムが低い声で言った。
「……つまり、夜に入口が開いた時、落ちた荷は外へ流れるのか?」
「可能性が高い。
そして、流れる先に必ず“回収役”がいる。
だから帳面は合う。現物は消え、回収役の手元に行く」
レムは紙束を抱え、唇を噛んだ。
「証拠は揃ったな」
「揃った。だが、監査に出す前にもう一つ要る」
「何だ」
アシュレイははっきり言った。
「回収先。
消えた赤が“どこへ行くか”を押さえなければ、制度は『不正は倉庫内の誰かの責任』として終わる。
外部の手があることを示す必要がある」
レムの顔色がまた悪くなる。
だが目は逸らさない。
「……つまり、捌け口の先へ行くと?」
「ああ。ただし夜だ。入口が呼吸する時間に合わせる。
そして落ちた先を見て、すぐに戻る」
その言葉の先にあるものをリュカも理解した。
《クロノス》が必要になる可能性。
落ちる先は安全ではない可能性。
リュカはアシュレイの袖を掴んだ。
「横にいるから」
「ああ」
アシュレイは軽く頷き、レムへ続ける。
「今夜、倉庫内に残る必要はない。
倉庫内は入口。捌け口を押さえるなら外側だ。旧荷捌き場へ回る。
管理局の許可が要るなら、昼のうちに取っておけ。表の言葉でな」
レムが頷く。
「任せろ。俺の権限で取れる範囲は、全部取る」
「権限が足りなければ?」
レムは歯を食いしばり、しかしはっきり言った。
「ならば――足りる奴を引っ張ってくる。
俺はもう、黙って責任を被る気はない」
その姿勢は頼もしい。
しかし同時に危うい。
正義の形が整うと、敵は先に動くからだ。
倉庫を出る前、アシュレイは一度だけ振り返り、空白の列を見た。
昼の床は硬く、何も起きない。
だが薬剤で浮いた線は確かに“ここに通路がある”と証明している。
通路があるなら、必ず通る者がいる。
ならば、止める手順も必ずある。
外へ出ると、表通りの空気はまた軽い。
整った都市の顔が何事もないように続いている。
その顔の裏で、虚線が息をしている。
そしてもう一つ――
宿へ戻る途中、リュカが小声で言った。
「……きょう、キャリちゃん、大丈夫かな」
「監視はされる。だが今度はこちらも“見返す”」
「見返す?」
「触られたなら、触った手の匂いが残る。
夜に動くなら、その匂いの方向も手掛かりになる」
リュカは少しだけ口元を引き締めた。
「じゃあ、キャリちゃんもがんばる」
「キャリッジは頑張る必要はない。頑丈でいてくれればいい」
「キャリちゃんもがんばってるの!」
その言い方に、アシュレイはほんのわずかに口元を緩めた。
笑いにするにはまだ重い。
だがその中に、進むための余地を一滴だけ落とす。
今夜は旧荷捌き場へ行き、捌け口の先を確かめる。
そこに消えたはずの赤が流れているなら――そこに、教団の手の形も残るはずだ。




