1-34 談話室
北倉庫を出た時、外の空気が妙に軽く感じた。
倉庫内の冷たさが異質だったのだと、身体が遅れて理解する。蒸気管の吐息が耳に戻り、遠くの鎚音が現実の距離に落ち着く。その当たり前が今はありがたい。
それでも、アシュレイの胃の奥はまだ揺れていた。
《クロノス》の三秒は短いが、身体に残す負荷は遥かに大きい。鎖帷子が胸を締める感覚も、普段より強く感じられる。
リュカは歩きながら、何度もアシュレイの顔を覗いた。
覗いて、言葉を飲み込む。その繰り返しだ。
「言いたいことがあるなら言え」
アシュレイが先に言うと、リュカは少しだけ口を尖らせた。
「……倒れないでね」
「倒れない」
「強がる人ほど倒れる」
「俺は倒れないと言った。だから倒れない」
「強がりだよ!」
「いや、経験上の理屈だ」
軽口の形にして怖さを外へ出す。
それができるなら、まだ大丈夫だ。
レムは倉庫区画の検問所に着くと、管理員を呼び止めた。
夜の検問所は人数が少ないが、そのぶん顔がよく見える。互いの所属も、互いの“言い訳”も通りやすい。
「今夜の件、記録の立会いを頼む」
レムの声には倉庫監督官代理としての強さがあった。
管理員は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに頷いた。
「……分かりました。倉庫内の封帯確認記録と、見張りの証言ですね」
管理員は状況を理解している。
ということは、噂がすでに倉庫区画の内部に回っているということでもある。速い。都市の耳は異様なほど速い。
レムはその場で見張り二名と管理員に署名させた。
時刻、場所、封帯番号、蝋封の破損なし、空白の沈み込み、落ちかけた一名が腹這いで回避されたこと――
文言は簡潔で、曖昧な形容は避けられている。証言として通すために必要な“乾いた言葉”だ。
アシュレイはその書面に目を通し、余計な助言だけを一つ加えた。
「“見た”と“感じた”を分けろ。
見た事実だけを本文に。感じたことは備考に回した方が監査に通る」
レムは即座に書き直した。
頑固な男だが、目的のためならいくらでも柔軟になれる。そういう男は信用できる。
署名が揃い、紙束が厚みを持った瞬間、レムの肩から少しだけ力が抜けた。
「……これで、ようやく証言できる」
「言う相手は慎重に選べ」
「ああ。俺ももう、彼らを信用しきってはいない」
レムはそう言って口元を歪めた。笑いではない。苦味を噛み締めた責任者の顔だ。
*
宿へ戻る道は表通りを選んだ。
夜の表通りは昼よりも見張りの目がある。灯りが均等に照らし、巡回が多い。裏の手はその目を嫌う。
しかし都市の裏は表の近くにも潜む。
表通り沿いの路地の口。酒場の裏口。荷を運ぶ裏階段。
そこから匂いだけがふっと出てくる。
宿の前まで来た時、リュカが足を止めた。
「……あれ」
指さす先。
宿の向かいの角に、昼に見た荷運び風の男がいた。
堂々と立っているわけではない。壁に寄り、煙草のようなものを口にし、周囲と同じ顔をしている。
だが、視線だけがこちらに向いている。
アシュレイは反射で視線を返さない。
返すと、相手は「届いた」と判断する。届かせたくない時は、届いていない顔をする。
「気づいてないふり」
リュカが小声で言う。
「正解だ。――宿へ入る」
宿の中へ。
受付の男が「お帰りなさい」と言い、鍵を確認する。いつも通りの手順。いつも通りの声。
いつも通りがある場所は心を落ち着かせる。
部屋に入ると、アシュレイはすぐに窓を閉め、鍵を掛け、カーテンを引いた。
過剰に見えるが、都市ではそれくらいがちょうどいい。
リュカが椅子へ座る前に、机の上を指で叩いた。
「紙、隠す?」
「ああ」
アシュレイは頷き、レムから預かった写しの要点だけを頭に入れ、紙束は鞄の奥へ戻した。
紙束を机に置いたままにすると、宿の者が掃除の際に”うっかり”見てしまう可能性がある。
都市は明確な悪意より先に、粗忽が漏洩を作る。
その時、廊下側の扉が控えめに叩かれた。
――三度。一定の間隔。
宿の者の叩き方だ。
アシュレイは扉に近づき、鎖をかけたまま開けた。
隙間から宿の係が顔を出す。
「お客様。お連れ様がいらしています」
「連れ?」
係は言いにくそうに、しかし丁寧に言った。
「……女性の方です。工房主と名乗っております」
リゼット。
その名が頭に浮かんだ瞬間、アシュレイは心臓の拍が一つだけ速くなった。
だが、ここはレヴァル・アーシェ。
彼女がここにいる理由があるなら、理由は一つではない。
味方であっても、都市全体に教団の息が掛かっている以上油断はできない。
「どこにいる」
「二階の談話室に」
アシュレイは迷い、すぐ決めた。
「リュカ」
「うん」
リュカは立ち上がり、アシュレイの袖を掴む。
その指が少し冷たい。彼女も緊張している。
談話室は夜の客が少ない時間帯のため、灯りも落ち着いていた。
窓際の席に、リゼットがいた。
銀髪は整っているが、目の下がわずかに影になっている。
また寝ていないのだろう。
そして、机の上に置かれた小さな紙包み――封のようなもの。
リゼットは二人を見るなり、唇の端を少しだけ上げた。
「……無事で何より。アーク」
リュカが一歩前に出て、すぐ言った。
「くろいのおねーさん、なんでここにいるの?」
「当然、あなた達が面倒を起こすと思ったから」
リゼットの声は平静だ。平静に見える。
だがアシュレイには分かる。彼女は平静であろうとしている。
「……ここまで来る必要はないはずだ」
アシュレイが言うと、リゼットは視線を逸らさず返した。
「あるの。
今夜、北倉庫で”開いた”でしょう」
言い当てた。
アシュレイの背筋が冷える。
彼女が知っているのは予測か。情報網か。
――これがアーク・プロトコルの実力なのか。
リゼットは机の上の紙包みを指先で押し出した。
「これ、渡しに来た」
「何だ?」
「封を見分けるための薬剤。蝋封の金粉に混じる術式反射を浮かせる。
あの途切れ線は普通の印章じゃない。……そして普通の偽造でもない」
アシュレイは紙包みを受け取らなかった。
受け取る前に問うべきことがある。
「お前は、どこまで知っている」
リゼットは一瞬だけ睫毛を伏せた。
その動きは隠し事をする動きではない。隠し事の重さを測る動きだ。
「……教団が動いている。
深紅の術式は、あなたが一番よく知っているはず」
リュカが息を呑む。
アシュレイは喉の奥が冷えるのを感じた。
「レドラのことか」
リゼットは頷いた。
「名前が出た。レヴァル・アーシェで。
“外部の技術顧問”として封を提案している。
あなた達がここに入ったのも、恐らく見られている」
都市の裏が表を嗅ぎつける。
そして表の制度が裏の餌になる。
いま起きているのはその典型だ。
アシュレイはようやく紙包みを受け取った。
薄い。軽い。だがかなり危険な匂いがする。扱い方を間違えれば、こちらの存在も露呈する。
「……ありがとう」
アシュレイの礼は短かった。
だが短い礼ほど、重い時がある。リゼットはそれをよく分かっている。
リゼットは椅子の背に身体を預け、淡々と言った。
「それともう一つ。
宿の外にいる“荷運び風の男”。あなた達を見ている」
「把握済みだ」
「気づいてるならいい。
ただ――あなた達のキャリッジ、今夜は動かさないで」
リュカが眉を寄せる。
「キャリちゃん、狙われてるの?」
「狙われるわ。
でも狙いは盗難じゃない。……中身の確認」
アシュレイの胸の奥がきゅっと縮む。
鍵の存在が漏れている。そう考える方が自然だ。
リゼットは声を落とさず、しかし言葉を研ぐ。
「アーク。あなたは理屈で動く。分かってる。
だから敢えて言わせて。今夜は”動かさない”のが最適解。
動かせば彼らに追跡の口実を与える。動かさなければ、彼らは手を出しにくい」
「……分かった」
アシュレイは頷いた。
自分の判断と一致している。
だからこそ、彼女が“別経路”で同じ結論に到達していることが、逆に怖い。
リゼットは立ち上がり、ほんの一瞬だけ視線を柔らかくした。
「無事でいて。クロウ」
その言い方は命令でも忠告でもない。
願いだ。
リュカが小さく言った。
「……くろいのおねーさんも」
リゼットの唇が微かに笑った。
「私は大丈夫。私は影で動くのが仕事だから」
その言葉にアシュレイは返せる言葉がなかった。
それをさせてしまっているのは自分だ。
それでも彼女は、自分で選んでそこに立っている。
談話室を出ると、アシュレイはリュカの横に立ち、短く言った。
「今夜は休む。
明日、昼にもう一度北倉庫へ行く。
封の薬剤で“途切れ線”の正体を掴む」
「うん」
リュカは頷いた。
怖さを含んだ頷き方。それでも、進むことを選び取った顔をしている。
窓の外では、表通りの灯りが整然と並び、都市の顔が穏やかに見える。
だがその灯りの端で、裏の影がじっとこちらの匂いを嗅いでいる。
証拠の束ができた。
入口の位置も掴んだ。
そして、教団の名がまた近づいた。
次は、消えた赤が“どこへ落ちたか”を確かめる。
それが分かれば、この都市の虚線はただの噂ではなくなる。




