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懐中時計の蓋が開いた瞬間、音が消えた。
正確には音が遠ざかった。倉庫の中の音が、一枚の薄い膜の向こう側へ引っ張られたように薄くなる。
視界も少し変わる。
暗闇が広がったわけではないのに、輪郭がはっきりしない。灯りの縁が滲み、影が影として固まらず、空間の奥行きが掴みにくくなる。
それでもアシュレイには分かった。
これは幻ではない。自分の感覚が狂ったのでもない。
《クロノス》の効果が始まったのだ。
身体が重くなる。
胸の上に石板を載せられたような圧がかかり、関節が一つずつ鈍る。鎖帷子が擦れる音は聞こえないが、擦れる感触だけがやけに鮮明だった。
――三秒。
アシュレイは頭の中で数を刻み、足を踏み出した。
倉庫の空白の縁。
見張りの踵がそこへ吸われ、床が逃げるように沈んでいた。
普通なら滑る程度で済む動きが、ここでは落ちることにつながる。床は安定した硬いものではなく、抜け落ちるものになっている。
アシュレイは迷わず見張りの腰の革帯へ手を伸ばした。
指先が帯の端に触れ、次の瞬間、革が指から抜けようとする。引く力が強すぎる。下へ落ちようとする力が、帯ごと引きちぎろうとしている。
「……っ」
声が出ない。肺が押される。
鎖帷子が胸を締め、呼吸が浅くなる。
アシュレイは力任せに引かなかった。
引けば引くほど、相手を引っ張る力が下へ逃げる。必要なのは引っ張る力ではなく、落ちる方向と逆の支点だ。
空白の縁の外側――沈んでいない床に片膝を落とす。
膝が石床に当たって痛い。だが痛みがあるのは、まだ現実に踏みとどまれている証拠だ。
膝を支点にし、腕だけでなく体幹で帯を引く。
帯の張りが変わる。
下へ吸う力が一瞬だけ緩み、見張りの足が「ずるり」と縁から戻った。
たが、まだ危険だ。
見張りは恐怖で身体が固まっている。足を動かせない。すぐに動かなければ、また引かれる。
アシュレイは帯を手繰り寄せ、見張りの上体を床へ倒すように引いた。
転ばせるのではない。腹這いにさせる。接地面を増やせば、その分だけ落ちにくくなる。
見張りの胸が石床に当たり、ようやく彼の呼吸が戻るのが分かった。
喉が鳴り、咳が一度だけ出た。音はまだ薄いが、動きは戻っている。
――一秒、経過。
アシュレイは次の動きを選ぶ。
このまま引きずって安全域へ戻す。
しかし、倉庫の空白が完全に閉じる前に、もう一つやるべきことがある。
入口の形をこの目で確かめる。
《クロノス》の中では、現実の時間が遅い。
つまり、入口の変化もゆっくり見える。
アシュレイは見張りを腹這いのまま縁の外へ押し出し、空白の縁を視線で追った。
沈んでいた床は、穴ではなかった。
石床そのものが溶けるのではなく、石床の上にある空気の層が薄くなり、そこに“別の空間”が重なっている。
見えるのは黒い深淵ではない。
薄い灰色の奥行きだ。
そこに、細い線が走っている。途切れ途切れの線。虚線だ。
虚線は床の亀裂から始まっていた。
亀裂の中に挟まっていた金粉の微粒子が糸のように光る。
その糸が床の空白に沿って円を描き、円の一部が途切れている。
――鍵穴みたいな形だ。
アシュレイは胸の中で言葉にした。
ただの穴ではなく、鍵穴。
だから鍵が反応する。そこに封が必要になる。
そして円の途切れの部分。
そこに、深紅の蝋封と同じ色の染みが浮かんでいた。
液体ではない。触れれば手が汚れるようなものでもない。
空気に染み込んだ色がそこだけ濃い。
甘い匂いが強くなる。
喉の奥が冷え、鼻腔の奥が痺れる。
――二秒。
アシュレイは見張りをさらに安全な床へ押しやり、自分も縁から離れた。
離れながら、円の途切れの位置を頭に刻む。梁の真下、柱から三歩、排水溝の蓋の横。
位置が取れた。
これで昼でも、夜でも、同じ場所へ戻れる。
理屈で追える。
だが、理屈だけでは証拠にならない。
証拠にするには、誰かに見せなければならない。
そして今、見せられる適任者がいる――レムだ。
《クロノス》の中では声が届かない。
それでも、合図はできる。
アシュレイはレムの方を向き、指で床を二度叩いた。
叩いた場所は安全域の石床。
そして、その指先で空白の縁をなぞるように指し示す。円を描き、途切れの位置で止める。
レムが理解したかは分からない。
だが彼は真っ直ぐアシュレイを見ていた。目が合う。
都市の制度に慣れた目が、今は“現象そのもの”を見ようとしている。
――三秒。
懐中時計の針がもう一度跳ねた。
耳に音が戻る。
蒸気管の吐息、遠くの鎚音、そして誰かの荒い呼吸が、一斉に現実へ押し寄せる。
重圧がどっと身体に戻った。
膝が震え、胃の奥がむかつく。
《クロノス》は確かに便利だが、代償はかなり大きい。
「うっ……」
アシュレイは吐き気を堪え、呼吸を整えた。
鎖帷子がなければ、ここで倒れていたかもしれない。鎖の重さは守りであり、その身を捕らえる檻でもある。
視界の端で、見張りが床に腹這いになったまま喘いでいる。
落ちていない。
助かった。
レムが駆け寄り、見張りの肩を掴んだ。
「大丈夫か!」
「……だ、だいじょうぶです……床が、床が……」
見張りは言葉にならない恐怖を吐き出し、震えている。
だが生きている。生きている者は証言できる。
リュカがアシュレイの横へ来た。
瞼を開け、顔色を伺う。
「アシュレイ……いま、なにしたの」
アシュレイは《クロノス》の蓋を閉じ、時計を鞄に戻した。
手が少し震えているのをリュカに悟られないように。
「時計を使った」
「……助かったの?」
「ああ。助かった」
リュカは息を吐き、続けて言った。
「アシュレイ、顔白い」
「平気だ」
「平気じゃないよ」
「今はそういう場合じゃない」
リュカは言い返そうとして、飲み込んだ。
代わりにアシュレイの袖を掴む。横にいるという意思表示。
レムがアシュレイへ向き直った。
目が赤い。怒りではない。睡眠不足と、恐怖と、そして確信の赤だ。
「……いま、見えた。床が沈むんじゃない。
空間が開く。そこに線が走る。……途切れた線だ」
アシュレイは頷いた。
「それが入口だ。
封が新式になってから、その入口が固定された。
だから消える。帳面は合ったまま。現物だけが空間に落ちる」
「落ちた先は」
「まだ分からない。だが――」
アシュレイは言葉を切り、床の空白を見た。
今は戻っている。何事もなかったように、石床は硬い。
だからこそ厄介だ。現象は“ある時だけ”起きる。
「次は、落ちた先を確かめる必要がある」
レムが喉を鳴らし、低い声で言う。
「どうやって」
アシュレイは即答しなかった。
今ある案は一つしかない。
誰かが入口へ踏み込み、落ちる先を見て戻る。そのために《クロノス》を使う。
だが、誰が落ちるべきか。
見張りではない。レムでもない。
そして――リュカでもない。
アシュレイは結論を出さず、手順だけを言った。
「準備が要る。
落ちる先へ行くための”縄”が必要だ。
都市の制度に通る形で、立ち入りの許可も取る。
それから――入口が開く時間帯を、もう一度確認する」
レムは頷いた。頷くしかない状況だった。
「……分かった。俺は記録をまとめる。監査に突きつける」
「渡す相手は選べ。監査は制度の一部だ。制度は敵にも味方にもなる」
レムの目が揺れ、やがて固まる。
「……敵が、制度の中にいる可能性があるってことか」
「十分にある。封の提案が通った以上、あり得る」
リュカが小さく言った。
「レドラ……」
その名が空気に落ちた瞬間、倉庫の温度がまた一段下がった気がした。
偶然かもしれない。だが偶然の形が揃いすぎている。
アシュレイは《クロノス》に触れないまま、胸の内で静かに誓った。
次の三秒は、助けるためではなく、奪い返すために使う。
落ちた先にあるもの――赤い樽の行方――そして、その背後にいる女の手の形を確かめるために。
夜の倉庫は息をひそめた。
入口は閉じ、何事もなかったように石床は硬い。
だが、彼らの手の中には残ったものがある。
途切れた線の位置。
開いた瞬間の証言。
そして――都市の制度に通る記録。
これでもう「気のせい」とは言わせない。




