1-32 夜の倉庫
日が落ちるにつれて、レヴァル・アーシェは様を変えていった。
表通りの灯りは一斉に点き、巡回の足音が増える。店は戸締まりを始め、代わりに酒場と宿の声が膨らむ。昼の賑わいは消えるのではなく、こうして形を変える。
宿へ戻ったアシュレイは、先ず中庭に降りてキャリッジを確かめた。
番号札、鎖、車輪止め――どれも無事。係の顔も落ち着いている。
「今夜の見回りは?」
「二人体制で回しています。ご心配なく」
係はそう言い、視線を逸らさずに付け足した。
「……北倉庫の方、最近物騒ですから。皆さん気が立っています」
噂はもう都市に染みている。
だからこそ、こちらは余計な異物にならない動き方をしなければならない。
部屋に戻ると、アシュレイは机の上に最低限の道具だけを並べた。
鎖帷子を服の下に通し、留め具を二重に締める。
《クロノス》はまだ出さない。必要になる瞬間まで存在を都市の空気に混ぜない。
リュカは椅子の端に座り、手袋の縫い目を指でなぞっている。
落ち着いているように見えるが、視線が時々扉へと向けられる。緊張しているのだろう。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「行くの、夜だよね」
「ああ。北倉庫だ。入口の反応は夜の方が分かりやすい」
「やだなぁ……」
リュカは口ではそう言いながら、本気で避ける気配はなかった。
“やだ”を言えるうちは飲まれていない。アシュレイはその状態を維持したかった。
彼は配置図を広げ、指先で線を追う。
「昼に見た空白の列。あそこが入口の候補だ。
だが入口の前に必ず何かしらの“合図”がある。匂い、音、温度――どれかが変わる」
「空気が薄いってやつ?」
「それは結果だ。その前に前兆がある」
リュカが頷き、短く言った。
「がんばって見つける」
「俺は理屈で探す。お前は感覚で探してくれ」
「隣でね」
「ああ」
その時、扉が三度、控えめに叩かれた。
宿の者ではない。叩き方がどこか硬い。仕事向きの叩き方だ。
アシュレイが扉を少しだけ開けると、そこにレム・クオードが立っていた。
昼より顔色が悪い。だが目は冴えている。やはり眠れていない目だ。
「来たな」
アシュレイが言うと、レムは頷いた。
「見張りを入れ替えた。入口側の二人は信用できる。
……倉庫内の封の担当も俺が持った」
「それでいい。今夜の目的は現象を起こすことじゃない。
起きる瞬間を証拠にすることだ」
レムは唇を噛み、低い声で言った。
「証拠ってのは、どう取るんだ?」
「方法は三つある。
一、封帯と蝋封の状態――破損がないことを第三者が見て確認できる形で。
二、見張りの交代記録――時刻と人。
三、消える前後の空白の変化――匂い、温度、床の乾き。記録できるならその都度記録する」
「……記録?」
「紙に残す。複数人が署名する。
都市の制度に通る言葉でなければ、たとえ真実でも握り潰される」
レムはそれを飲み込み、頷いた。
「分かった。……行こう」
リュカが立ち上がり、背筋を伸ばした。
その姿がいまの彼女の小さな覚悟に見えた。
*
夜の北倉庫区画は昼より静かだった。
だが静かだからこそ音が際立つ。蒸気管の吐息、遠くの鎚音、見張りの靴音。
それらが一定のリズムで回っている。都市はこうして眠らない。
検問所の管理員はレムを見ると、三人をすぐ通した。
通行札の番号が帳面に記され、三人分の入域が記録される。
ここまでは表。
ここから先が――境界。
北倉庫の扉を開けると、昼と同じ冷たさが迎えた。
だが、今夜はさらに一段と温度が落ちている。湿気が原因ではない。熱が抜けた後の冷えだ。
「……冷えてる」
リュカの声が小さくなる。
「前兆だ」
アシュレイは視線を床へ落とし、油膜の薄い光り方を確かめた。
昼に見た空白の列――あの床だけが乾いていた。
今夜も変わらずそこだけ乾いている。しかも範囲が僅かに広い。
レムが手袋をはめ、見張り二人に短く指示した。
「今の封帯の状態を確認する。見て、記録しろ。俺も署名する」
見張りは頷き、封帯の番号を読み上げ帳面に記した。
封は破れていない。蝋封も欠けていない。
アシュレイはその手順を邪魔せず、空白の手前で止まったまま、空気を読む。
鼻先に薄い甘さ。
昼よりも濃い。だがまだ刺さるほどではない。
音も変だ。
倉庫の奥で蒸気管が一定に吐息をしているはずなのに――ほんの一拍だけ欠けている。その後に、不自然に遅れて音が戻る。
宿場の橋で聞いた「途切れ」と同じ性質だ。
アシュレイは息を浅くし、心の中で手順を数えた。
焦らない。踏み込まない。条件を増やさない。
リュカが空白の手前の床を見て呟く。
「……ここ、落ちそう」
「落ちるなよ」
「うん。落ちない」
その言葉はリュカ自身に言い聞かせている。
アシュレイはそばに寄った。半歩だけ横に。
「視線は前に、足は止めろ。重心を下げすぎるな。
空気が薄い場所はこちらが構えた瞬間に引き始める」
「……うん」
リュカが頷いた瞬間、空白の床の端がほんの僅かに揺れた。
実際に揺れたのは床ではない。空気だ。
――薄い膜がたわむみたいに。
レムが顔色を変える。
「……今の、見えたか?」
「見えた」
アシュレイの声は平坦だった。そうすることで自分の判断を固定する。
見張りの一人が喉を鳴らして言った。
「……床が揺れた気が」
「確かに揺れた。記録しろ。時刻もだ」
レムが命じると、見張りは手元の帳面に急いで書きつけた。
“気がする”では弱い。だが今は見た者の数を増やすのが先だ。
甘い匂いが少し濃くなる。
同時に冷気が一段降りてくる。息を吸うと喉の奥が冷える。
アシュレイは鍵の存在を意識した。
鞄の奥。触れていないのに、そこから冷気が呼応するように滲む。
鍵がここを指している。確信に近い。
レムが歯を食いしばり言った。
「……これが、“消える”ってやつか」
「まだだ。これは前兆だ。
消える瞬間は――もっと静かになる」
言い終えた瞬間。
倉庫の音がすっと遠くなった。
蒸気管の吐息も、遠くに聞こえた鎚音も、見張りの呼吸も――一枚の膜の向こうへ引かれるみたいに遠ざかる。
リュカの瞳が大きく開く。
「アシュレイ、いま――」
「喋るな。だが息は止めるな。ゆっくり吐け」
アシュレイは言葉を短く切り、右手を鞄へ伸ばしかけて止めた。
《クロノス》を使うなら、ここだ。
だが、まだ“出口”が見えていない。
使えば助かるかもしれない。
しかしいま使えば、こちらが引きずり込まれる条件になるかもしれない。
判断は次の一拍で決める。
空白の床が、今度は明確に沈んだ。
底が抜けたように深くなる。
見えない穴が口を開ける感覚が視覚にまで触れてくる。
見張りの一人が一歩下がろうとして、足が滑った。
油膜のせいではない。床そのものが動いた。
「――!」
声にならない叫び。
見張りの踵が空白の縁へ吸い寄せられる。
リュカが反射で前へ出かけた。
アシュレイの手が彼女の肩を掴んで止める。
「行くな!」
「でも――!」
「横だ!」
リュカの身体が止まる。
止まれたのは、腕力によるものではない。アシュレイとの約束だ。
その刹那、アシュレイは決めた。
出口が見えなくても、落ちる者を出すわけにはいかない。
鞄の奥の金属の感触を確認する。
布包みの鍵ではない。《クロノス・レイテンシ》だ。
指先が懐中時計の縁を捉えた瞬間、脳裏にリゼットの声が走る。
――三秒。六回。鎖帷子は必須。
アシュレイは息を吐き切り、時計の蓋に親指をかけた。
「……リュカ、目を閉じろ」
「え?」
「閉じろ!」
リュカが反射で瞼を閉じる。
そしてアシュレイは蓋を開いた。
針がひとつ跳ねた。
世界が――淡く、途切れる。




